戦時中の国民学校4年生《いまの小学4年生》の国語の国定教科書に書かれていた「万寿姫」という物語をご紹介します。

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 ある日源頼朝は、鶴岡八幡宮に舞の奉納をするために、舞姫を集めました。舞う少女は12名いました。推薦もあって11人まではすぐに決まったのですが、あとひとりが決まりません。
 困っているところへ、御殿に仕える万寿姫(まんじゅひめ)がよかろうと申し出た者がありました。頼朝は一目見た上でと、万寿姫を呼び出しました。見目(みめ)麗(うるわ)しく実に上品(じょうひん)な娘です。さっそく舞姫に決めましたが、万寿は当年13歳、舞姫の中で、いちばん年若でした。

 奉納当日、頼朝を始め舞見物の人々が、何千人も集まりました。一番、二番、三番と、十二番の舞がめでたく済みました。なかでも特に人がほめたのが五番目の舞でした。この時は、頼朝もおもしろくなって一緒に舞いました。その五番目の舞が万寿姫でした。

 明(あ)くる日、頼朝は万寿を呼び出しました。
「さてさて、このたびの舞は日本一のできであった。
 お前の国はどこだ?
 また親の名は何と申す?
 褒美(ほうび)は望みにまかせて取らせよう」

万寿は恐る恐る答えました。
「望みはございませんが、唐糸(からいと)の身代りに立ちとうございます」

 これを聞いた頼朝は、顔色がさっと変わりました。深い事情があったからです。
一年ばかり前のこと、木曾義仲(きそよしなか)の家来の手塚太郎光盛(てづかのたろうみつもり)の娘が、頼朝(よりとも)に仕(つか)えていたのですが、頼朝が義仲を攻めようとするのを知って、義仲にその情報を知らせたのです。義仲の動きは早く、
「すきをねらって頼朝の命を取れ!」と、木曽義仲の家に代々伝わっていた大切な刀を送ってよこしたのです。

 光盛の娘は、それから毎晩頼朝を狙いました。けれど少しもすきがありません。かえってはだ身はなさず持っていた刀を見つけられてしまいました。刀に見おぼえがあった頼朝は、この女は油断できないと思い、女を石の牢屋(ろうや)に入れました。その女が唐糸(からいと)でした。
 唐糸には、その時12歳になる娘がいました。それが万寿姫だったのです。

 姫は木曾(きそ)に住んでいました。風のたよりに事件を聞き、乳母(うば)を連れて鎌倉を目指したのです。二人は、野を過ぎ山を越え、馴れない道を一月余りも歩き続けて、ようやく鎌倉に着きました。そしてまず、鶴岡(つるがおか)の八幡宮(はちまんぐう)へ参(まい)って、母の命をお助けくださいと祈り、それから頼朝の御殿へあがって、乳母と二人でお仕えしたいと願い出ていたのです。かげひなたなく働く上に、人の仕事まで引き受けるようにしていたので、万寿、万寿と人々に可愛がられていました。

 さて万寿は、だれか母の噂をする者はないかと、気をつけていたのですが、10日経っても、20日経っても母の名を言う者はありません。ああ、母はもうこの世の人ではないのかと、力を落していたところだったのです。
 ところがある日、万寿が御殿の裏へ出て、何の気もなくあたりを眺めていますと、小さな門がありました。
そこへ召使の女が来て、
「あの門の中へ入ってはなりません」と言いました。

わけを尋ねると、
「あの中には石の牢屋があって、唐糸様が押し込められています」といいました。
これを聞いた万寿のおどろきと喜びは、どんなであったことでしょう。

 それからまもなくのある日のこと、今日はお花見というので、御殿には多勢の御家人たちが集まりました。万寿は、その夜ひそかに、乳母を連れて、石の牢屋をたずねました。八幡樣のお引合わせか、門の戸は細めに開いていました。万寿は、乳母を門のわきに立たせておいて中へはいりました。

 月の光に透かして、あちらこちら探しますと、松林の中に石の牢屋がありました。万寿が駆け寄って牢屋の扉に手を掛けますと、
「たれか?」と牢の中から声がしました。

万寿は、格子(こうし)の間から手を入れ、
「おなつかしや、母上樣、木曾の万寿でございます。」

「なに、万寿。木曾の万寿か!」

親子は手を取りあつて泣きました。やがて乳母も呼んで、三人はその夜を涙のうちに明かしました。

 これからのち、万寿は乳母と心を合わせ、折々に石の牢屋を尋ねては、母をなぐさめていたのです。そうして、そのあくる年の春、舞姫に出ることになったのでした。
 親を思う孝行の心に頼朝も感心し、唐糸を石の牢から出してやりました。二人が互いに取りすがって、うれし泣きに泣いた時には、頼朝を始め居あわせた者たちに、だれ一人、もらい泣きをしない者はありませんでした。

 頼朝は、唐糸を赦(ゆる)した上に、万寿に、たくさんの褒美を与えました。親子は、乳母といつしよに、喜(よろこ)び勇(いさ)んで木曾へ帰りました。

 ***

 戦前戦中の教育といえば、すなわち軍国主義教育であったと一刀両断する論調があります。しかし上にある物語は、むしろ情愛を述べている物語であって、そこに軍国主義の欠片もありません。一方、戦前の教育を否定する現代教育は、「戦前の心の教育は、子らに価値観を強要するものだからいらない」と言いますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 近年では、やたらと「愛」ということが言われます。けれど、では「愛の意味はなんぞや」と問われて、即答できる人は少ないです。男女の愛、恋愛、愛情、なんとなくわかるけれど、では「愛とは何ですか」と聞かれても答えられる人はほとんどいません。
ところが戦前の教育を受けたお年寄りは、これに即答します。
「愛とは、おもうことだよ。」

 理由は簡単です。日本書紀を国史として学んだ戦前の日本人は、持統天皇の章において、「愛国」と書いて「国をおもふ」と読み下すと、誰もが習っていたからです。
「愛」という字の訓読みは、「おもふ、めづ、いとし」です。
つまり「愛」とは、
 親が子をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
 子が親をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
 恋人をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
 故郷をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
 国をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、です。

 人は魂の乗り物です。人の体は、自らの魂と糸で結ばれています。糸は寄り集まることで丈夫な「紐(ひも)」になり、紐が寄り集まって更に太くて丈夫な「綱(つな)」になります。ですから、ひとりの魂の糸は、まだ半分です。その半分と、誰かの半分をつなぐのが「きずな(絆)」です。その糸と糸とを結ぶことを「結(ゆ)ひ」といいます。

 個人主義が標榜されるアメリカでも、昨今の映画やドラマで特に主張されることが、家族の絆です。結局、人はひとりでは生きられないのです。だから互いに支え合う。

 なかでも親子の絆は、何ものにも代え難いことです。
 そういうことを、尋常小学校の4年生の授業では教えていたのです。

では、いまの小学4年生の国語の教科書ではどうでしょう。以下は現代の光村図書の小4国語のもくじです。

  詩を楽しもう
  音読みげきをしよう
  話し合いのしかたについて考えよう
  読んで,自分の考えをまとめよう
  調べたことを報告する文章を書こう
  声に出して楽しもう
  物語を読んでしょうかいしよう
  新聞のとくちょうと作り方を知ろう
  本は友達
  詩を楽しもう
  調べて発表しよう
  読んで考えたことを話し合おう
  説明のしかたについて考えよう
  写真と文章で説明しよう
  声に出して楽しもう
  物語を読んで,感想文を書こう

どの項目も、やり方などの形を重んじているだけの、いわば「ハウツーもの」です。人の心に踏み込んだものがありません。

 では、上に紹介した万寿姫の物語は、価値観を強制した内容でしょうか。むしろ親子の愛をこよなく大切なものとして、子供達の情操を育もうとした教育といえるのではないでしょうか。

 徳育という言葉があります。戦後教育のもとでは、「徳」と言われても、それがどのようなものなのか、これまた即答できる人は少ないように思います。けれど、もともと「徳」という字は、「彳」に「悳」と書きました。「彳」は進むこと、「悳」は見た目の通り、真っ直ぐな心です。ですから、字を見たら、真っ直ぐな心で進むこと(生きること)とわかります。

 戦後はこの字が改められ、「悳」のなかの「目」が横倒しになり、「L」が「―」に変形して「德」になり、さらに「L」が省かれて、「徳」になりました。はたして戦後のこの字を見て、ひと目で意味が分かる人は、まずいないのではないでしょうか。

 感じて動くから「感動」と書きます。
 理屈で動く「理動」という言葉は日本語にはありません。

「理屈に偏重した昨今の教科書」と、
「親子の情愛や人の生きる道を教えた戦前の心の教科書」と、
どちらの教科書が、人間として必要な教科書でしょうか。

 さて、この物語における母の唐糸は、ただの殺人未遂犯ではなく、源氏の棟梁であり、征夷大将軍である源頼朝の命を奪おうとした犯人です。いまふうにたとえれば、内閣総理大臣を殺害しようとした政治犯であり、これは国家反逆罪として即時死刑が言い渡されても構わないほどの重罪未遂の容疑者です。それだけの容疑者を、その娘の孝行に、頼朝はこれを、赦(ゆる)した上に、万寿にたくさんの褒美を与えて赦免しています。

 これは、政治上の犯罪よりも、親子の情愛のうつくしさを尊ぶという、きわめて日本的な物語といえます。もし同じことが、たとえばチャイナの歴代王朝で起きたら、いったいどのような結末になっていたでしょうか。あるいは西洋の王国で起きていたら、どのような結果になっていたでしょうか。

 中国では、皇帝殺害未遂犯は、凌遅刑(りょうちけい)と決まっています。殺害未遂どころか清朝時代ですと、紫禁城の中に漢族が一歩踏み込んだだけで、凌遅刑となりました。凌遅刑というのは、大勢の見ている前で犯人を木に縛り付け、腕や足の肉を3日ほどかけてすこしずつ削ぎ落とし、最後にお腹を割って血を吹き出させて殺すという、きわめて残酷な刑罰です。さらに凌遅刑を受けた犯人の一族郎党は、ことごとく逮捕されて、殺害されます。これが彼の国の伝統です。
 西洋では、凌遅刑ほどの残酷な刑罰はないものの、一族皆殺しという部分は同じです。ましてその犯人が女性となれば、おなじことがお隣の半島で起こったなら、容疑者の女性がどうなったか。想像するだにおそろしいことです。

 日本でも将軍の命を狙えば死罪。これは当然です。ところが頼朝は、万寿姫と唐糸を赦しました。赦しただけでなく、褒美(ほうび)までとらせています。なぜでしょうか。

 かつての国語の授業では、ここで先生から次のような質問がなされたものです。
「さて、みんなはどう思うかな」

太郎君が手を上げ、先生が指名します。
「母子が泣いたからです。女の涙って怖えから!」
教室に笑い声がひびきます。花子が手をあげます。
「万寿姫の孝行の気持ちや行動が感動させたから」

 先生「うん。そうだね。じゃあ君たちに聞くけど、感動があったら、法を破っても良いのかな?この場合、お母さんは殺人未遂犯だよ?」
「だって先生、頼朝が感動したんだろ?」
「将軍が感動したら、将軍の勝手気ままで、罪を赦しても良いのかな?」
「じゃあ、御家人たちが感動したんだ。」
「でも、決めたのは頼朝でしょう?」
「みんな感動したんだよ」
「でもさ、へそ曲がりっていない?」
「いるいる」
「てことはさ、このとき、赦すべきという人たちと、赦してはいけない、という人たちがいたってことだよね」
「そそ。その最終決断をしたのが頼朝だったってことなんだろうね」
「でも、そもそもどうして法を犯した人を赦しても良いんだろう」

・・・と、生徒たちの議論が続くわけです。そして先生から、ここで舒明(じょめい)天皇の「うまし国」ということが伝えられます。
 万葉集にある舒明天皇の御製です。
「うまし国だよ。大和の国は」

 ここでいう「うまし国」というのは、万葉集では「怜忄可国」と書かれています。「怜」という字は、神々の前で傅(かしず)く心を意味します。「忄可」という字は、心にかなう、という意味で、訓読みが「おもしろし」です。つまり
「神々の前でかしづく心で、こころにかなう。そういう国だよ、大和の国は」と舒明天皇が歌に遺されているわけです。

 もちろん法は大切です。けれど法は、人が作ったものです。世の中には法の予定を越えた様々な現象があります。それを裁かなければならなくなったとき、法の前に、わたしたちの国では、神々がどのようにご判断されるのかを考え、そして多くの人にとって、もっとも心にかなう裁定とはどのようなものであるべきなのかを問うてきたのです。そこに日本の知恵があります。

 万寿姫母子への判断も、その延長線上に裁定があります。ただ、法にあるからとか、将軍の命を狙ったからとか、そういうこと以上に、人としてたいせつなこと、そして人と人との絆といったものが、国法以上に大切なものと考えられてきた。だからこうした裁定が行われた・・・・ということが教室の中で先生から教えられたわけです。

 それにしても・・・そもそも論として、母の唐糸は、単身、木曽から鎌倉へと渡り、また娘の万寿姫も、わずか13歳(当時は数え年ですから、いまなら12歳の小学6年生)の少女が、乳母と二人だけで、やはり木曽から鎌倉まで旅をしています。時代は、源平合戦が行われた時代です。荒れた時代なのです。そこここに敗残兵が隠れ、平家の残党狩りなどが行われていた、日本の歴史の中にあっても、きわめて殺伐とした時代です。
 そんな時代にあってさえ、女子が、少女が、護衛も付けずに長旅ができた・・・。これは世界史にあっても、きわめて異例なことです。

 日本の治安の良さは、ただ法によるばかりではなく、ひとりひとりが神々の前で正しく生きることが大事とされてきた中に存在した・・・そういうことを小学校4年生で学んだのです。つまりそれは「日本人の常識」であったということです。現代日本とのこれが大きな違いです。

 先般、ある役所の住民課で、意図的に役所の職員を騙す行為が行われました。騙した人たちは、勝ち誇ったかのようにテレビで記者会見を行い、その様子は全国放送のテレビで、まるで良いことが行われたかのように流されました。けれどそれは、日本の古来からの習慣を乱す、あってはならないことでした。

 法が予定していないことだから(法に書いてないから)何をやっても良いということにはなりません。世の中には法の前に、もっと大切な社会秩序があるのです。私たちはこれを「生活習慣」と呼んできました。もっと古い言葉なら「あたりまえ」です。「ならぬことはならぬ」のです。
 そうした事態に直面したとき、西洋型の現代法治主義では、何の解決もできません。それがなぜかといえば、法は裁きであって、ひとりひとりが「よりよく生きる」ことや、「よりよい社会を営む」ことを求めていないからです。

 会社組織でも同じです。社内規定で予定していることなら、各課の課長レベルで対処できます。けれど社内規定で予定していない出来事には、必ず経営判断が必要になります。株式会社日本も同じです。法が予定していることなら、課長レベルで対処できますが、法の予定外のことが起きれば、そこにはかならず有無を言わせぬ経営判断が必要になります。

 残念ながら戦後日本には、GHQという経営者が去った後、経営者不在の状態がずっと続いています。結果、世の中の仕組みは混乱し、数え切れないほどたくさんの法律や条例を作っても、ますます問題が山積するという情況が生まれています。それら問題の根幹にあるのは、日本という国を経営する経営者の、明らかな不在です。

 ここでいう経営者とは、行政・司法・立法を超える超法規的権力のことを言います。戦後のこれまでの日本は、日本語しか通じない日本国の中で、日本的文化を保った庶民によって、豊かな日本が築かれてきました。けれど大勢の外国人が日本に住むようになったいま、日本はあらためて超法規的権力を持つ国家経営者の居る日本へと変わらなければならないときに来ています。

 そこに気付けと、万寿姫は教えてくれているような気がします。

※この記事は2023年6月のねずブロ記事のリニューアルです。

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