トップの画像は、安来市立歴史資料館蔵の山中鹿介像です。
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甚次郎(じんじろう)が兄に呼ばれて座敷へ行くと、そこには母もいました。
床の間には、すばらしく大きな鹿の角(つの)と三日月(みかづき)の前立(まえた)てのついた兜(かぶと)が飾(かざ)ってありました。
兄は、改(あらたま)った口調で言いました。
「甚次郎、
このかぶとは祖先伝来の宝、
これをおまえにゆずる。
十歳の時、軍(いくさ)に出て
敵の首を取ったほど強いおまえのことだ。
どうかりっぱな武士になり
家の名をあげてくれ」
甚次郎は、胸がこみあげるようにうれしくて、
「ありがたくちょうだいいたします」
といって頭をさげました。
母がそばから言いました。
「それにつけても御主君尼子(あまこ)家の
御恩を忘れまいぞ。
尼子家の御威光(ごいこう)は、
昔にひきかえておとろえるばかり。
それをよいことにして、
敵の毛利(もうり)が
だんだん攻め寄せて来ています。
成人したら一日も早く毛利を討って、
御威光を昔に返しておくれ」
甚次郎(じんじろう)の目は、いつのまにか涙で光っていました。
甚次郎はこの日から、山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)と名のり、心にかたく主家を興(おこ)すことを誓いました。
そして、山の端(は)にかかる三日月を仰(あお)いでは、
「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」
と祈りました。
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それから数年が過ぎました。
尼子(あまこ)の本城である出雲(いずも)の富田城(とみたじょう)は、そのころ毛利軍に囲まれていました。
鹿介(しかのすけ)は、戦ってしばしば手がらを立てました。
彼の勇名(ゆうみょう)は、味方(みかた)のみか、敵方にも知れ渡りました。
敵方に、品川大膳(しながわだいぜん)という荒武者がいました。
彼は、鹿介(しかのすけ)をよい相手とつけねらっていました。
名を棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)と改(あらた)めて、折(おり)あらば鹿介(しかのすけ)を討ち取ろうと思っていました。
ある日のこと、鹿介(しかのすけ)が部下を連(つ)れて、城外を見まわっていますと、川をへだてた対岸から、鹿介の姿をちらと見た狼介(おおかみのすけ)は、割鐘(われがね)のような大声で叫びました。
「やあ、それなる赤糸(あかいと)おどしの甲(よろい)は、
尼子(あまこ)方の大将と見た。
鹿(しか)の角(つの)に三日月の前立ては、
まさしく山中鹿介(やまなかしかのすけ)であろう」
鹿介(しかのすけ)は、りんとした声で大音に答えました。
「いかにも山中鹿介幸盛である」
狼介(おおかみのすけ)は喜んでおどりあがりました。
「かくいうは石見(いわみ)の国の住人、
棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)。
さあ、一騎討の勝負をいたそう。
あの川しもの洲(す)こそよき場所」
こう言いながら、弓を小脇(こわき)にはさんで、ざんぶと水にとび込みました。
鹿介もただ一人、流れを切って進みました。
狼介が、弓に矢をつがえて鹿介をねらいました。
尼子方の秋上伊織介(あきあげいおりのすけ)がそれを見て、
「一騎討に、飛び道具とは卑怯(ひきょう)千万(せんばん)」
と、これも手早く矢をつがえてひょうと射ました。
狙(ねら)い違(たが)わず、狼介が満月のごとく引きしぼっ ている弓の弦(つる)を、ふつりと射切(いき)ると、味方(みかた)は「わあ」とはやしたてました。
狼介は、怒って弓をからりと捨て、洲にあがるが早いか、四尺(よんしゃく)の大太刀を抜いて斬りかかりました。
しかし鹿介の太刀風(たちふう)が更にするどく、いつのまにか狼介は切りたてられて、次第(しだい)に水際(みずぎわ)に追いつめられて行きました。
「めんどうだ。組もう」
こう叫んで、狼介は太刀を投げ捨てました。
大男の彼は、鹿介を力で仕(し)とめようと思ったのです。
二人はむずと組みました。
しばらくはたがいに呼吸をはかっていましたが、やがて狼介(おおかみのすけ)が満身の力で鹿介(しかのすけ)を投げ飛ばそうとしました。
鹿介は、これをじっとふみこたえたのですが、片足が洲の端にすべり込んでしまう。
思わずよろよろとしたところを、たちまち狼介の大きな体(からだ)が、鹿介の上へのしかかりました。
鹿介は組み敷かれました。
両岸の敵も味方(みかた)も、思わず手に汗をにぎりました。
すると鹿介(しかのすけ)がむっくと立ちあがりました。
その手には、血に染まった短刀が光っていました。
狼介(おおかみのすけ)の大きな体(からだ)は、鹿介の足もとにぐったりとしていました。
「敵も見よ、
味方(みかた)も聞け。
現(あらわ)れ出(いで)た狼(おおかみ)を、
鹿介(しかのすけ)が討ち取ったなり」
鹿介の大音声は、両岸に響き渡りました。
こののち幾(いく)たびか激しい戦がありました。
さしもの敵も、この一城をもてあましたたのですが、前後七年にわたる長い戦に、尼子方は多く討死(うちじに)し、それに糧食(りょうしょく)がとうとう尽きてしまいました。
城主の尼子義久(あまこよしひさ)は、涙をのんで敵に降(くだ)りました。
富田城には、毛利の旗がひるがえりました。
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尼子の旧臣は、涙のうちに四散(しさん)しました。
鹿介(しかのすけ)は、身をやつして京にのぼりました。
戦国の世とはいえ、京の都では花が咲き、人は蝶(ちょう)のように浮かれていました。
そのうちに尼子の旧臣たちがおいおい都(みやこ)に集(つど)って来ました。
彼らは、鹿介を中心に主家の再興を企(くわだ)てました。
そのころ都(みやこ)のある寺に、品(ひん)のよい小僧(こぞう)さんがいました。
なんと、その小僧さんは、尼子家の子孫でした。
鹿介(しかのすけ)は、この小僧さんを主君と仰ぎました。
「尼子家再興のことは、
わが年来の望みである」
小僧さんは、おおしくもこういって、衣(ころも)を脱ぎ捨て、尼子勝久(あまこかつひさ)と名乗りました。
時がやって来ました。
永禄(えいろく)12年6月のある夜、勝久(かつひさ)を奉(ほう)じる尼子勢は出雲に入り、一城を築いて三度ときの声をあげました。
この声が四方に呼び掛けでもしたように、今まで敵についていた旧臣が、続々と勝久のところに集まってきました。
諸城が、片端から尼子の手に返りました。
しかし富田城は名城であるだけに、なかなか落ちそうにありません。
その間に毛利の大軍がやって来ました。
毛利輝元(てるもと)を大将とし、吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)を副将として、1万5千の精兵が堂々と進軍して来たのです。
富田城がまだ取れないのに、敵の大軍が押し寄せたのです。
これでは味方(みかた)の勝利はおぼつきません。
しかし鹿介は腹をきめました。
すべての軍兵を率いて、富田城の南三里にある、布部山(ふべやま)にて敵を迎え討ちました。
味方(みかた)の軍は約七千です。
それは、まことに死物(しにもの)ぐるいの戦(いくさ)でした。
敵の前軍はしばしば崩(くず)れました。
しかし何といっても二倍以上の敵の数です。
新手(あらて)があとからあとから現れます。
さしもの尼子勢もへとへとにつかれ、多くの勇士は、無残(むざん)に枕を並べて討死(うちじに)しました。
勝ちほこった敵の大軍は、やがて出雲一国にあふれました。
勝久(かつひさ)は危(あやう)くのがれて、再び京都へ走りました。
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それからまた幾年か過ぎました。
鹿介(しかのすけ)は、織田信長に毛利(もうり)攻(ぜ)めの志(こころざし)があることを知って、彼を頼りました。
鹿介を一目(ひとめ)見た信長は、この勇士の苦節(くせつ)に同情しました。
「毛利攻めのお先手(せんて)に加(くわわ)り、
もし戦功(せんこう)がありましたら、
主人勝久(かつひさ)に、
出雲一国をいただきとうございます」
鹿介の血を吐く言葉に、信長は大きくうなずいて見せました。
ついに再び時が来ました。
尼子方は秀吉の軍勢に加って、毛利攻めの先がけとなりました。
いち早く播磨(はりま)の上月(こうづき)城を占領し、ここにたてこもった2千5百の尼子勢は、ほどなく、元
春(もとはる)・隆景(たかかげ)の率(ひき)いる7万の大軍にひしと取り囲まれました。
秀吉の援軍が今日来るか明日来るか、それを頼みに勝久は城を守りました。
毛利方の大砲を夜に乗じて奪(うば)い取って、味方(みかた)は一時気勢をあげました。
しかし援軍は敵にはばまれて近づくことができません。
7万の大軍に囲まれては、上月城はひとたまりもありません。
弓折れ矢尽きて、勝久はいさぎよく切腹することになりました。
「いたずらに朽(く)ち果(は)てたかも知れない私が、
出雲に旗あげし、
一時(いっとき)でもその領主となったのは、
まったくおまえの力であった」
勝久は、こういって鹿介に感謝しました。
鹿介は、男泣きに泣いて主君におわびをしました。
しかし彼はまだ死ねませんでした。
「尼子重代の敵である毛利を、
せめてその片われの元春を、
おのれそのままにしておけようか。
七難八苦はもとより望むところである。」
鹿介は主君に志を告げ、許しをこうてわざと捕らわれの身となりました。
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鹿介は西へ送られました。
ここは備中(びっちゅう)の国、甲部川(こうべがわ)の渡しです。
天正6年7月17日、秋とはいえ、まだ烈しい日光が、じりじりと照りつけています。
川端の石に腰掛けて、来し方行く末を思いながら、鹿介はじっと水のおもてを眺めました。
燕(つばめ)が川の水すれすれに飛んでは、白い腹を見せて宙返りをしていました。
そのとき、突然、後から斬りつけた者がありました。
鹿介は、それが敵方の一人河村新左衛門(かわむらしんざえもん)であると知るや、身をかわして、ざんぶと川へ飛び込みました。
新左衛門も飛び込みました。
二人はしばし水中で戦いました。
重手を負いながらも、鹿介は大力の新左衛門を組み伏せました。
すると、これも力自慢の福間彦右衛門(ふくまひこえもん)が、後から鹿介のもとどりをつかんで引き倒しました。
七難八苦の生涯は34歳で終りを告げました。
甲部川の水は、この恨(うら)みも知らぬ顔に、今も悠々(ゆうゆう)と流れています。
月ごとに、あの淡(あわ)い三日月の影を浮かべながら・・・。
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この物語は、戦時中の国民学校5年生(いまの小学5年生)の国語教科書にある「三日月の物語」という題を、現代文に直してご紹介したものです。
文中にある山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)は、尼子三傑(あまこさんけつ)のひとりとして知られた武将で、「山陰の麒麟児(きりんじ)」の異名を持った人でした。
山中鹿介は、元服間もない頃に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈りました。
すると次の戦(いくさ)のときに、因伯(いんぱく)《因幡(いなば)と伯耆(ほうき)の国、現在の鳥取県の豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取って戦功を挙げることができたことから、彼は生涯三日月を信仰したと伝えられます。
彼は、敵の大将の首を60以上も挙げた剛勇の士でしたが、その生涯はまさに七難八苦をわたるものでした。
戦いに明け暮れたわずか34歳の人生で、最期にはその七難八苦に付いていけなくなった部下によって討たれています。
しかし彼の武勇と人生は、死んで440年以上経ったいまでも語り継がれています。
人には二つの死があるのだそうです。
ひとつは物理的な肉体の死、いまひとつは人々の記憶から忘れされた死。
すくなくとも山中鹿介は、その意味では、いまなお日本人の心の中に生き続けているといえます。
この物語を通じて、戦前戦中の子供たちは、たとえどのような苦難があったとしても、男子たるものは、率先垂範して進んで七難八苦に立ち向かうものだ、と学びました。
このように書くと、軍国主義だと言われてしまいそうですが、近年のハリウッド映画のアベンジャーズにせよ、ジャスティス・リーグやスーパーマン、アナ雪にせよ、その心は同じです。
日本でも鬼滅の刃やキングダムなどのアニメに、同じ精神が宿っています。
世界中どんな国、どんな民族にあっても、苦難にあいながらも強大な敵に立ち向かう勇敢は、人の心を震わせるものです。
けれど、実はそれだけではないのです。
ちょっと別な逸話をご紹介します。
鹿介の逸話に、次のようなものがあります。
ある日のこと、初陣(ういじん)を終えた2人の若者が鹿介の前で、
ひとりは
「敵に向かうと震えが生じて、
しっかり敵を見ることもできず、
討ち取った敵が
どんな鎧であったかも覚えていません」
と話したのだそうです。
別のひとりは
「自分は敵がどんな鎧を着て、
どんな馬に乗り、
組み合った場所など
鮮明に覚えています」
と話したのだそうです。
2人が帰った後、鹿介は傍(かたわら)の人に、
「最初に話した若武者は、
立派で勇敢な武士になるだろう。
後に話した若武者は、
はなはだ心もとない。
もしかしたら他人のあげた敵の首を
拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。
さもなくば次の戦で討たれてしまうだろう」
と語りました。
はたして後日、その言葉のとおりとなったそうです。
怖くて良いのです。
だから負けないように頑張るのです。
怖くないなどというのは、嘘でしかない。
嘘を出発点にすれば、いっとき人気を箔したとしても、後に必ず滅びます。
このことは、あらゆる人生の場において言えることです。
繁栄は大事です。
けれどその繁栄を継続させ、安定させることはもっと大事です。
それがもともとの日本の国民精神です。
昨今では、いまこの瞬間だけバズれば良いといった風潮がまかり通っています。
なるほど繁栄は大事です。
けれど、繁栄を継続させることはもっと大事です。
そして、本物だけが生き残ります。
その本物には、かならず艱難辛苦が訪れます。
孟子は、「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんとするや」と説きました。
自分の心志(しんし)が苦しめられ、その筋骨が労せられ、その体膚(たいふ)が餓えしめられ、その身が空乏(くうぼう)せられ、行いその為すところが仏乱(ふつらん)されるのは、天が自分に大任を与えようとしているからだ、というのが孟子の告子下の第十五にある言葉です。
けれど、少し考えたら誰にでもわかることですが、天はその人個人のためにあるものではありません。
天には天の御意思があります。
ですから、場合によっては天は、その人の心志を苦しめ、その筋骨を労し、体膚を餓えさせ、その身を空乏(くうぼう)させ、行いその為すところを仏乱(ふつらん)しただけで、結果その人の命を奪ってしまうかもしれません。
それでも天の心のまにまに、実直に素直に謙虚に生きることが大事としてきたのが日本的精神です。
なぜなら、人の命は自分のためだけにあるものではないからです。
他の多くの人々とともに、明日の日本を、子や孫たちの素敵な希望あふれる未来のためにもあるのです。
それがわかっているからこそ、山中鹿介は、自ら率先して艱難辛苦を自分に与え給えと祈願し、自ら率先してその艱難辛苦に立ち向かって行ったのです。
山中鹿介による尼子家再興の働きの中、上月城陥落のとき、尼子氏の庶家の亀井茲矩は、秀吉に従っていて難を逃れ、その後も生き残って関ケ原では家康の東軍に参加して、以後、現在の鳥取県鳥取市鹿野町あたりの鹿野藩3万8000石(後に加増されて4万3000石)の大名となり、その後島根県鹿足郡津和野の藩主となって幕末まで家を繁栄させ、明治の版籍奉還後も、伯爵として立派に家を継いでいます。
また山中鹿介の嫡子の山中幸元は、鴻池直文と名を改め同地で酒造業を始めています。
日本酒はもともと白濁した濁酒であったものが、ある日、叱られた手代が腹いせに濁酒の樽にかまどの灰を投じると偶然透明芳醇な清酒ができたという逸話をご存知の方も多いかと思いますが、こうして出来た日本初の清酒を造ったのが、鴻池直文です。
その鴻池直文の家系は、その後、清酒の江戸回漕業に乗り出し、こうして儲けた資金で大名貸・両替商となり、幕府及び全国110藩(全藩の約4割)に融資を行う日本屈指の鴻池財閥を形成していきます。
そして戦後の財閥解体後も、鴻池組となって現在に至っています。
山中鹿介の人生は、本人の望み通り、まさに艱難辛苦に満ちた人生であったといえます。
けれど、その働きにより、主家である尼子家は現代にまで生き残り、また山中鹿介の子孫は、大財閥となって、500年後の現代において、いまなお繁栄を継続しています。
人の命は自分のためだけにあるものではない。
そしてどんな苦難にあっても、その中で立派に生きることが、子や孫、その後に続く子々孫々に至るまでの繁栄をなし、その繁栄が継続し、かつ安定していく石杖となっていくのであろうと思います。
孟子はチャイナの人です。
だから天が与える大難は、自分を試そうとしているものだと解釈しています。
けれど、そこにあるのは、ともすれば「自分だけ」の人生です。
その自分だけという心は、自己中を招き、今だけカネだけ自分だけといった心になりやすいものといえるかと思います。
けれど日本的精神は、自分の繁栄よりも、周囲の繁栄を、そして子や孫たちの未来への責任を大事にします。
たとえ自分の人生が艱難辛苦の連続するものであったとしても、その中で精一杯誠実を尽くして生きることによって、子供たちの未来の繁栄の継続と安定が生まれる。
それは単に自分の子孫というだけでなく、より多くの人々の幸せな暮らしを築く基礎となる。
だからこそ、何があってもくじけずに、あきらめずに、誠実に生きる。
私よりも、公(おほやけ)を大事にする。
おそらく日本的精神というものは、そういうものなのであろうと思います。
山中鹿介を学ぶとき、その豪壮さもさりながら、自分の人生の繁栄より周囲の繁栄を、そして子や孫たちの未来への責任を大切にすることの重要さを感じ取ることができます。
たとえ自分の人生が艱難辛苦の連続するものであったとしても、いかなる時代にあったとしても、未来への希望を失わない。そこに山中鹿介のつよさがあるし、日本的精神の根幹があるように思います。
※この記事は2020年6月の記事を大幅にリニューアルしたものです。