歴史は繰り返すと言いますが、日本神話を学ぶと、現代が見えてきたりします。
 スサノオと大国主といえば、神話の中でたいへんに有名な存在です。スサノオは、幼い頃に泣いてばかりいたけれど、後にヤマタノオロチを退治して、地域の活性化を図り、奥出雲の国一帯の主となられました。このことは、現代風にたとえれば、スサノオは地域国家を成立させた、つまりナショナリズムの先駆けと言うことができます。

 そうして形成された出雲の国に、スサノオの七世後に登場するのが大国主です。大国主は、経済を活性化させ、数々の国によって形成されていた葦原の中つ国を最初に統一して、大いなる国を形成しました。これは、世界にある様々なローカルな諸国を統一した・・・つまり現代において経済で世界を統一しようとしているグローバリズムの先駆けといえるかもしれません。(大国主神様ごめんなさい)

 グローバリズムは、世界がひとつになるという理想を実現しようとするものです。目的は、国際的大企業が政治を動かして自分たちの利益を得ることです。結果としてグローバリズムは、ごく一握りの超絶大金持ちと、圧倒的多数の貧民を形成します。特に、末端に行くほど、人々は貧しくなり、ゾンビのような状態になります。

 我が国の神話は、そうなる前に、天照大御神が大国主に国譲りを迫ります。国譲りに際しての御神勅は、
・天壌無窮の神勅
・齋庭の稲穂の神勅
・宝鏡奉斎の神勅
です。日本書紀には、それぞれ以下のように書かれています。

『天壌無窮の神勅』
とよあしはらの          豊葦原
ちいほのあきの みずほのくには  千五百秋瑞穗国
あがうみのこの あるじのちなり  是吾子孫可王之地也
いましすめみま いでゆきしらせ  宜爾皇孫就而治焉
さきくませ            行矣
さちとたからと さかへむことは  宝祚之隆
それあめつちきはまりなかるべし  當興天壤無窮者矣

『齋庭の稲穂の神勅』
        あがもてる  以吾
たかまのはらの ゆにはのほ  高天原所御齋庭之穂
またあがみこに まかすべし  亦当御於吾兒

『宝鏡奉斎の神勅』
        あがみこよ    吾兒
たからのかがみ みまさむは    視此宝鏡
あれみるごとく すべしもの   当猶視吾
ゆかをおなじく とのをともにし 可興同床共殿
もちていはひの かがみとすべし  以為齋鏡

 この三つの御神勅の意味するものは、すべて民衆をこそ「おほみたから」とすることにあります。それは、民衆が、豊かに安全に安心して暮らせる国を築くことです。

 世界はいま、ナショナリズムとグローバリズムの戦いであるとよく言われるのですが、筆者は、日本が目指すべき道は、ナショナリズムにも、グローバリズムにもない、第三の道、すなわち「民衆こそおほみたからとする社会の構築」にあると思います。それはこれまでの世界には、まったくなかった思想であり、日本神話の持つ思想そのものです。

 神話を学ぶということは、ただ、昔語りを楽しむというだけのものではありません。神話は民族のアイデンティティそのものであり、繰り返される歴史の姿を浮き彫りにするものです。まして日本神話は、万年の単位で蓄積された日本民族の知的財産です。現代が抱える諸問題を解決するには、まず、我々人類社会の本質が何であるかという原点を明らかにする必要があります。その原点が神話なのです。

 原点、つまり出発点を明確にすることにより、我々は、これからの時代を築く判断の物差しを得ることができます。

そもそも物差しがない状態、インチで測るのか、メートル法で測るのか、尺貫法で測るのかさえ明確になっていない状況で、こっちは二だ三だ、あっちは四だ、五だと、数字の議論してもはじまらないのです。物差しがない。サッカーコートでバレーボールを行うようなものです。我々日本人は、我々日本人が示す土俵を、まず取り戻す。その土俵にあたるものが、日本神話です。

大人の学問は、実生活に役立つ、あるいは天下国家を考える上において、その根幹となる知恵を授かるためのものでなければなりません。子供が童話を楽しむのとは、訳が違うのです。

 日本の神々の思いは、その時代を生きる人々が、平穏に豊かに安心して安全に暮らしていくことにあられると思います。戦後の日本は、我が国の経済がとても発展し、また世界の先進諸国の中で、唯一日本は戦争のない、若者たちを戦地で死なせることのない、平和な国、そして豊かな国でいることができました。

 保守系の方々は、戦前の日本人の高い民度や精神性の素晴らしさを語られる方が多いですし、それはその通りと思います。けれど戦後日本に神々が求められたものは、平和と繁栄であったのではないかと思うのです。そして日本は戦後、未曾有とさえいわれるほどの繁栄を、平和の中に築くことができました。これはこれで素晴らしいことであると思います。

 ただ、平成以降の不況や、昨今の無国籍型日本人、感謝を知らない日本人、日本人の民度の低下などを見ると、経済的繁栄の次に来るべき、尊敬や感謝の心といった、大切な日本人としての精神性を、今は神々が求められているように思えるのです。

 時代によって、求められるものは異なります。それは、仕方がないことだし、何が正しいかは神のみぞ知ることです。大切なことは、いつの時代にあっても、末端にいる我々庶民が(多少の貧富の差はあっても)誰もが豊かに安全に安心して暮らせる社会であり、誰もが、それなりに努力をすれば、まっとうな生活、正直な暮らしができることにあります。それは、自分自身が人生を通じて、周囲を笑顔にしていく戦いでもあります。

 戦前の日本は、一等国への仲間入りが最大の目標でした。
 戦後初期は、焦土の復興が第一でした。
 高度成長期の頃は、経済的繁栄が第一でした。

 そしてバブル崩壊後、いまいちばん求められていることは、日本人の民度の向上です。
これを実現するために神々は、戦後の体制さえも、いま否定されようとされています。日本は生まれ変わるときにきたのです。
 このことを、ひとことでいうなら、
 「日本をかっこよくする」
ということです。
これからは、かっこいい日本人になっていくのです。

 ではかっこいい日本人とは、どのような日本人でしょうか。外見の、たとえば顔立ちが整っていて、身だしなみが清潔で、服装が似合っていて、姿勢が良くて、自信に満ちあふれていることでしょうか。違うと思います。ほんとうの日本人的かっこよさは、

 誠実であること
 責任感があること
 周りの人に思いやりの心を持つこと
 困難に立ち向かう勇気があること
 自分の信念を持っていること
 知的でユーモアがあること
 自分のやるべきことに情熱を持っていること
 周囲の人を楽しませることができること
 常に努力していること

などにあるのではないかと思うのです。

 そしてもうひとつ大切なことは、人の悪口を言わないこと。
悪とはなにか、という問いに対して、ニーチェが語った有名な言葉があります。
「悪とは、人の名誉を奪うことである」
この名誉のなかには、命も含まれます。世の中で、何が正しいことかは神のみぞ知るですが、悪は決定しているのです。それが「人の名誉を奪うこと」です。
 ですから悪口も、お茶のみ仲間でワイワイ言っている分には、罪はないのです。それがその人の名誉を奪うようなものであるとき、それが「悪」になります。
 では誰かが自分の名誉を奪いに来たとき、自分も一緒になって相手の名誉を奪ったらどうなるでしょうか。相手が悪なのは確定です。人の名誉を奪っているのです。けれど自分も仕返しに相手の名誉を奪ったら、それは自分もまた悪の道にはまったことになります。その瞬間、その人は神々から見放されることになります。

 何が正しいことかは神のみぞ知るが、何を意味しているのかというと、そもそも正しいことか間違っていることかなんて、人の身にはわからないことだということです。

 よく、死んだあとに三途の川の奪衣婆のところや、閻魔大王の前で生涯の罪を裁かれると言いますが、ここで裁かれるのは、正しかったか間違っていたかではありません。生前にどれだけのチャレンジをしたかです。
 人が生きるということは、チャレンジをするということです。
 そのための場が、私たちが暮らす世界です。

 日本では縄文の昔から、この世は、魂が神様になるための訓練の場だと考えられてきました。ですから与えられた宿題を、しっかり消化していかないと、同じ苦しみを何度でも味合わされることになります。ひとつひとつが人生の試練であり、その試練を乗り越え乗り越えしていくことが、すなわちチャレンジです。
 縄文由来の知恵ということは、万年の単位で熟成された思想であることを意味します。だから、おそらくそれが真実です。
 ということは、魂の薫陶の場であるこの世界は、アセンションがあろうがなかろうが、決して失くなることはないのです。

 魂の薫陶の場としての現世には、ときどき「神様昇格特別サービス期間」があります。先の大戦が、まさにそれです。現代なら重症患者としてICUに入れられるほどの大怪我をしながら、敵弾が飛んでくる中を戦い続けなければならなかったのです。それでいて笑顔を絶やさないで生き、そして死んでいく。短期間で神様になるための最大の薫陶を受けることができたのが、大戦中であったということができます。(だから英霊のみなさんは、いまではみなさん神様です)。

 現代日本は、幼い頃からあたりまえと思ってきたことに疑問を持ち、新しい未来を築くという中で薫陶を受ける時代です。つまり私たちは、新しい、そして素晴らしい未来を築くために、どこまで頑張れるかが、今生における最大の使命として、戦後の日本に生まれてきているのです。

 このようなことを申し上げると、カルトのように聞こえるかもしれませんが、そうではなく、これこそが縄文以来の日本人の古くからの思考なのです。
 私たちは、日本をかっこよくするために生まれてきたのですから。

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