記紀が書かれた時代というのは、
1 我が国にもとからある国字としての神代文字は、全国の豪族ごとに使う文字が異なっていた。
2 我が国の五十音が、もともと鹿骨占いの結果を判断するための記号としての一字一音一義からはじまっていたため、音の意味が固定的となり、複雑な思い等を表現するためには、神代文字を組み合わせてできている漢字を用いたほうが、より合理的であった。
3 全国の豪族たちを統一し、我が国が統一国家を形成するためには、新たな文化の創造が必要であった。
4 サンスクリット語を漢字で記した仏教の経典が伝わっていた。
そこで大和言葉を漢字で書き表すことができないかと、真剣に考えられていた時代です。

当時の全国の豪族たちというのは、それこそいまの県が、昔はクニと呼ばれたことにも明らかなように、まさにそれぞれのクニが独立国でした。
ですから国ごとに体制も異なるし、言語も異なりました。
その片鱗は、いまでも方言として遺っています。
さらに、お祀りする神も異なりました。
神が違うのですから、その習俗もまた、異なっていたのです。

こうしたことから、国ごとに対立し、あたかも闘争を繰り返していたかのように語る人もいます。
もちろん、実際にそういう局面もあったことでしょう。
けれど、何百年も何千年も、この日本列島の中で暮らしているのです。
違いはあっても、実は、すべての豪族たちは親戚関係でもあったのです。

一方、この時代の日本は、世界の国々からは蓬莱山とか扶桑の国と呼ばれ、神仙しかたどり着くことのできない理想郷とされていました。
仏教ではシャンバラといって、幸福に満ちた国があるとされていました。
シャンバラにはアガルタという都市があり、そこは世界の中心にある理想世界であり、神々の国とされました。
そのアガルタが訛った言葉が、北欧神話に出てくる神々の国アスガルドです。
そして古代においては、シャンバラはジャパンであり、アガルタは、収穫のあがる田のことであったのかもしれません。

ですからそんな日本には、世界中から聖者と呼ばれる人たちがやってきていました。
そのような人々を、朝廷は歓迎し、土地や屋敷を与えてたいせつに庇護もしていました。
そしてこのことが、全国の豪族たちからみたときに、中央朝廷の威厳ともなっていたという説もあります。

要するに古代における日本は、海洋国として、また信頼と真実の国として、世界において絶大な信用と信頼を保持していたのです。

これは当然のことで、人の命が簡単に奪われ、個人の尊厳など微塵も認められずに、権力者によって人々が強制的に隷属させられていた世界にあって、日本には豊富な食べ物とおいしい水があり、しかも民度が高く、人々は争いを好まず、訴訟もなく、高い道徳観をもって暮らしていたのです。
世界中の聖者と呼ばれる人々の憧れの国となっていて、何ら不思議はなかったのです。

そんな日本は、サンスクリット語で書かれた仏教の経典が、漢字を用いることで発音と意味をそのままに、漢字で表現できることを目の当たりにします。
普通に考えて、これは素晴らしいことです。

その漢字は、日本の神代文字が一字一音一義で、記号ごとに音と意味があります。
その記号を組み合わせることで生まれた漢字は、チャイナでは異なる言語の国の人同士が、互いの意思の疎通のために広く用いられ、秦の始皇帝によって、チャイナの統一文字となっています。

そのチャイナに唐という軍事超大国が生まれ、その唐が日本の領土でもあった半島に露骨に進出を始めると、日本もまた、それまでの「全国の豪族たちのゆるやかな集合体」から、統一国家へと転換していく必要に迫られるようなりました。

そこで日本でも、文化の統一と共通文字の採用のためにと、漢字が導入されることになります。
こうして日本では、大和言葉の単語を漢字に当てはめた訓読みが生まれることになりました。
漢字は、もとをたどれば、倭国で用いられていた神代文字の記号の組み合わせですから、漢字と大和言葉は、たいへんに相性が良かったのです。

我が国の言語は、撞着語(どうちゃくご)といって、名詞や目的語などを、「の」などの接続詞でつなげていくことで成り立つ言語です。
「私の城下町」は、「わたし(の)城下(の)町」なのです。

これが古い大和言葉なら、「わたし」は「あ」であり、「城」は「や」であり、「町」はムラですから、
「あ(の)や(の)むら」となります。
漢字で書いたら
「吾の屋の村」あるいは「大屋敷の下にある吾(あ)の居(ゐ)る邑」、そこから記紀風なら「吾屋邑」という記述が生まれました。

神代文字なら「アノヤノムラ」です。
けれどこれを「あのやのむら」と表記することと、「吾の屋の邑」と表記するのでは、はるかに後者の方がわかりやすい。

そうした背景のもとに、記紀の記述があります。
そして記紀は、その冒頭を次のように書いています。

《古事記》
あめつちの はじめのときに  天地初發之時
《日本書紀》
いにしへの あめつちいまだ  古天地未

どちらも「天地」と書いて「あめつち」と読み下しています。

「天」という字は、「両腕を大きく広げた人」の上に「一」があり、そこから頭上に広がる広大な天をあらわします。
「地」という字は、蛇のようにうねうねとうねった大地のことをいいます。
山の稜線や、海岸線の形など、地球上にある神々の造形は、すべて蛇行する曲線によって形成されています。
だから「土」が「蛇行している=也」の組み合わせで、「地」という字ができています。

したがって、記紀の冒頭にある「天地」というのは、ここでは天と、蛇のように蛇行する大地を意味するとわかります。

ところがこの「地」が、天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)では、「壌(つち)」という字に置き換えられています。
日本書紀ではここは
「それあめつちに きはまりの なかるべし(當興天壤無窮者矣)」
と書いて、「天地(あめつち)」を「天壌(あめつち)」と書いています。

「壌」という字は、「やわらかく肥えた土」を意味する漢字です。
天壌無窮の神勅は、我が国が稲作とともに未来永劫栄えていくとの天照大御神の御神勅です。
その稲作を行う大地は、ただの地面ということではなく、「みんなで土を柔らかく耕して暮らしていく土地」であり、これを行い続けることで我が国は永遠に不滅だという意味が込められます。

つまり、天地(あめつち)は神々がお創(つく)りになられたけれど、人々がその地で暮らして行くためには、土を耕して、常にやわらかく肥えた土にしていかなければならない。
それが「天壤(あめつち)」という記述になっているわけです。

さて、ふりかえって、戦後の現代日本はどうでしょうか。
都会の土は、果たして「やわらかな土」でしょうか。「肥えた土」でしょうか。

ある台湾の友人が言っていました。
「私はね、いまも台湾は日本の一部だと思っています。
 だから、自分に日本人名があることを誇りに思っています。
 台湾がね、昔のように日本に帰ることができたら、
 そのときはね、
 私は台湾を日本の中の農業地帯にしたいと思っています。
 なぜなら日本は農業が基本なんです。
 みんなが幸せに食べていくことができる。
 そのためにみんなで笑顔で作物を育てる国。
 それが日本なんです。」

人の世に起きる問題点は、人が作り出したものです。
そうであれば、人の力ですべて解決できる問題です。
それをできるようにするのが、未来に向けた国づくりです。
そしてそこに、日本の未来への希望があるのです。

※この記事は2023年7月のねずブロ記事のリニューアルです。

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