「映像を通じて米国人に日本の本当の姿を伝えたい」
そう言って大正時代に、映画のカメラマンとしての技術の習得のために渡米した人がいました。
名を三村明(みむらあきら)といいます。

実家は海軍兵学校のあった江田島です。
父は戦艦日向や霧島の艦長を勤めた海軍少将三村錦三郎(みむらきんざぶろう)です。

当時の海軍将校というのは(いまの海自もそうですが)、いわゆる国際人で英語もペラペラという方が多いです。
そんな家庭に育った三村明は、大正8(1919)年、18歳で渡米しました。
そして大正13(1924)年に米国シカゴのニコラッセン大学予科を卒業すると、日本人としてはじめて、ニューヨーク・カメラマン・ユニオンに加入したのです。

たいへん素晴らしい技術を持った三村は、ハリー・三村(Harry Mimura)の名で、映画の撮影カメラマンとして名を売り、現地でおよそ5年の間に、約60本の映画撮影のカメラマンを勤めました。
そのなかには、世界的大ヒットとなった映画も五指に余る。

ところがその後、ユニオンのストライキで仕事がなくなり、やむなく彼は、昭和9(1934)年に、日本に帰国しました。
帰国後は東宝の専属カメラマンになって、戦時中には黒澤明監督のデビュー作、「姿三四郎」の撮影カメラマンなども勤めています。

そして昭和20年、終戦。
来日したGHQは、当時の日本の模様を撮影するために、米国人カメラマンを雇うのですが、映像がイマイチ説得性に欠ける。
そこで、GHQが招いたのが、ハリウッドでの実績もあり、英語にも堪能で、しかも日本人である三村明でした。

そして同年9月には、GHQは専用列車を手配し、車内には大量の撮影器材を積み込み、寝所から、食事のための専任コックまで用意して、長崎から日本全国の当時の模様の撮影を開始しました。
それが、下にある「【終戦後の日本】 ③ 昭和20年でなんとカラー映像!」と題する映像です。

この動画は、ずいぶん前にテレビで放送されたものですが、おもしろいもので、放送したのがTBS、解説がみのもんたなのだけれど、この頃はまだ両者とも、まともな放送をしています。

焼け野原となった大阪、横倒しになった戦艦、そして原爆投下からまだ日の浅い広島の模様などが映っています。

その広島撮影のときの三村の手記です。

「まったく見るに忍びない惨状の撮影を受け持たされた。
 国と国との戦争は仕方ないとしても、
 何の罪もない一般市民が
 なぜこんな悲惨な目に遭わなければならないのだろうかと、
 一瞬ためらった。
 しかしカメラマンは、
 仕事に立ち向かったときには、
 どんな嫌な場面でも撮影しなくてはならないことがある。
 そしてこの惨状の記録が、
 後年何かの役に立つのではないかという考えも、ちらりとした。」

プロとしての三村は、ただ単に戦場の悲惨を伝えるだけでなく、子供達の明るい笑顔や、たいへんな困難な中にも美しく、強く生きて行こうとする女性たちの姿を、映像にしています。

食べるものさえろくになかった時代です。
けれど、そうした時代のさなかにあっても、そこに屈託のない笑顔がある。
未来を信じる顔がある。

終戦直後のときから、45年ほど時代がさかのぼりますが、明治33(1900)年の義和団事件のとき、北京にあった8カ国の公使館区域には、護衛兵は、義勇兵を合わせてもたった481名しかいませんでした。そこに「扶清滅洋(清朝を扶(たす)けて洋を滅す)」という標語を掲げた20万人の義和団が襲いかかりました。

このとき、柴五郎中佐(最終階級は陸軍大将)率いる日本陸軍兵について、現場にいた英国人青年のウィールが次のように書き遺しています。

=====
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりしなかった。
彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。
病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。
しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。

英国公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。
日本兵の負傷者たちのところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。
その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
ながい籠城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように締めつけ、雰囲気はとかく陰惨になりがちだった。
なかには明らかに発狂の症状を示す者もいた。
だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。
看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった。
======

苦しい、辛いといって、苦しそうな表情をしたり、辛そうな態度をとったりすることは、誰にだってできます。
けれど、苦しいときは、みんなも苦しい。みんなも辛い。
だから、おもいきり明るい笑顔で、周囲をわかす。
明日への希望や、未来への情熱を呼び覚ます。

どこぞの国では、悲しくもないのに大声を張り上げ、泣き乱れるふりをするパフォーマンスをすることが、まるでよいことのように思われているようです。
けれど、人間、ほんとうに辛いときは、辛そうな顔などしない。
なぜなら、それを乗り越えようとする勇気が、人間には備わっているからです。
いいかえれば、「哀号〜」などと大声を張り上げて泣いたフリなどするのは、泣き真似している当の本人は、まるで他人事だと思っているからでしかありません。

終戦直後の、くったくのない笑顔の日本人の大人たちの笑顔は、焼け野原となり、愛する身内を失った悲しみの中で、それでも「自分ひとりだけ泣いてなんかいられない。みんなもつらいのだから、みんなの前では、すこしでも明るく振る舞って、みんなが元気が出るようにしよう」、そう思う日本人のやさしさの表情でもあると思うのです。

そしてその思いは、子供達にも伝染する。
大人たちが笑顔でいるなら、きっとこれから日本はよくなるに違いないと信じれる。
だから子供達も、一緒になって笑顔で笑う。
そして子供達の笑顔は、大人たちに勇気を与え、その勇気が、復興の槌音となって高らかに鳴り響き、日本は復興していったのです。

それが日本です。
それが日本人です。

この動画のなかで、番組を作った局のほうは、その笑顔のことを「長く続いた戦争が終わり、笑顔が戻った」などと解説していますが、それが曲解というものだろうと思います。
なぜなら、戦争が終わったから笑顔が戻ったのではない。
笑顔は、苦しい戦いのさなかの戦地にもあったし、玉砕戦の中にもあったのです。

苦しいからこそ笑顔で生きる。
泣きたいときはひとりで泣く。
人前では、涙より笑顔でいる。
それこそが古来からある日本人の姿なのだろうと思います。
そしてそれこそが、人のもつ、本当のやさしさなのではないかと思います。

※この記事は2013年4月の記事の再掲です。

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昭和20年の笑顔” に対して1件のコメントがあります。

  1. 中井 照子 より:

    昭和20年のカラー映像。只々懐かしく拝見しました。ありがとうございます。

    お正月には、各家には国旗と門松。

    今の日本には、多くの羊と化した日本人が 暮らしています。

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