「100点」でなければてほんと?!
「得る」ことが幸せってほんと?
そんなことを『古事記』を通じて考えてみたいと思います。

大祓詞に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓しましき」という言葉があります。
『古事記』にそのまま載っている言葉です。

「禊(みそぎ)祓(はら)い」というのは、
 禊(みそぎ)=「身を削ぐ」、つまりあらゆる欲を捨てること。
 祓(はら)い=「払い」で、穢(けが)れを落とすこと、といわれます。

この言葉が出るのは、イザナギ神が黄泉の国から戻ったシーンで、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に戻られたイザナギ神は、そこでまず「禊(みそぎ)」をされました。
それがどのようなことであったのか。
『古事記』は次のように書いています。

まず、杖、帯、囊(ふくろ)、衣、 褌(ふんどし)、冠(かんむり)、 左手の手纒(たまき)、右手の手纒を次々に投げ捨てられました。
すると、捨てたものから、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)や、道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)など、ここで12柱の神様がお生まれになりました。

生まれた神々の名前をみると、
 衝立船戸は様々な障害物
 道之長乳歯は長い道のり
 時量師はすごした時間
 和豆良比能宇斯は様々な患(わずら)い
 道俣は道の分かれ目
 飽咋之宇斯神は飽食
 奧疎は疎(うと)んじてきたこと
 奧津那芸佐は心の平穏と思っていたこと
 奧津甲斐弁羅はやり甲斐と思っていたこと
 辺疎はそれらの周囲のこと
 辺津那芸佐は周囲の平穏
 辺津甲斐弁羅は周囲の取り替えです。

要するに、身の回りのすべてを投げ捨てられたのです。

さらにイザナギは、中の瀬に潜(もぐ)られました。
そして潜りながら、
 八十禍津(さまざまな禍(わざわ)い)
 大禍津(おおきな禍い)
それらの禍いを治そうとされたときの、
 神直毘(神々による立て直し)
 大直毘(おおいなる立て直し)
 伊豆能売(それらによって起きたこと)
を捨てられました。

さらにこんどは、水の中に深く潜って、
 底津綿津見(そこつわたつみ)、
 底筒之男(なかつつのを)
つまり深層心理まで潜ってその中にあるすべてを捨てられています。
その水の中では、
 中津綿津見(なかつわたつみ)
 中筒之男(なかつつのを)
つまり中層意識にあるすべてが捨てられています。
さらに水の上では、
 上津綿津見(うわつわたつみ)
 上筒之男命(うはつつを)
すなわち表層意識にあるすべてを捨てられます。
要するに、深層心理に至るまで、何もかも全部、捨てられたのです。

そしてこうして何もかも全部を打ち捨てたとき、
 左目から天照大御神
 右目から月読命
 鼻から建速須佐之男命
がお生まれになられています。

古事記には八通りの読み方があるといいます。
ですから、このシーンから学べるものも、人によって様々であろうと思います。
ただ、共通して言えることは、
「何もかも捨て去った先に、本当に素晴らしものがある」
ということであるように思います。

また、この記述は、本当に大切なものを得るためには、はじめに苦労や努力が必要であるということも述べているように思います。
イザナギは、このときまでに妻のイザナミと国生みをし、神々を生み、そして愛する妻の死を経験しています。
そのイザナミを取り戻すために、今度は黄泉の国まで行き、黄泉の軍団に追いかけ回されて、死ぬ思いをし、さらに愛する妻との永遠の別離も経験しています。

たくさんのものを生み出し、さらに大切なものを得よう必死の努力をし、そして失い、最後に得たものは穢(けが)れであったのです。
だからその穢れを祓(はら)われました。
そして、本当にかけがえのないものを得たのです。

人は少年期には、たくさんのものを学びます。
そして社会に出ると、そこから様々なものを得るために、精一杯努力を重ねながら行きていきます。
それは、別な言い方をするならば、さまざまな事柄への挑戦、チャレンジの連続です。
けれど、その果てに、すべてを捨てる。

このことを「元々本々(もともとをもととす)」といいます。
何もかも捨てた先にあるものは、もともとある大切なことだというのです。

西洋の大金持ちさんたちは、一生かかっても使い切れないほどのお金を持ち、この世のありとあらゆる贅沢を独占していながら、さらにもっと欲しがります。
彼らにとっては、ひたすら得ることが、人生の目的であり、幸せなのかもしれません。

けれど日本では、神話の昔から、身を削ぎ、穢(けがれ)を祓いなさいと教えます。
そして身を削ぐ(禊)は、イザナギの大神さえも、それまでに身に着けたすべてを捨て、さらに深層心理にまで立ち入って、あらゆるものを捨てられているのです。
そしてそのときに、かけがえのない最高神を得られています。
つまり、かけがえのない最高のものは、何もかも捨てた先にある、と教えています。
そしてそれは1300年の昔に書かれた教えです。

得たいとか欲しいとか思えば、それは遠のきます。
逆に、捨てて身を削ぐと、その先に得られるものがあります。
何もかも捨てた先にある本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
このことが大事だよ、という教えが『古事記』にあります。

※この記事は2022年9月のねずブロ記事のリニューアルです。

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