歴史は出来事の羅列ではなく、「心の流れ」を学ぶもの――。戦後日本では語られなくなった、先の大戦にいたる背景や日本人の願いを、当時の世界情勢と人々の“認知”を踏まえて丁寧に振り返ります。日本軍の支那駐留の理由、人種平等案の意味、そして先人が守ろうとしたものとは何か。歴史観が分かれても響き合える、その原点を見つめなおす試みです。

1 歴史は「心の流れ」を学ぶもの

戦後生まれの我々は、歴史といえば年号や事件名の丸暗記科目といった認識を色濃く持っています。
そうなったのは、GHQと、その意向を受けた当時の文部省によって、
歴史教育が廃止され、
社会科に科目が変更になったことによる
というお話は、以前にも何度もさせていただきました。

それまでの我が国の歴史教育は、
日本書紀の成立の翌年(701年)から、
1300年の伝統と実績と研鑽に拠って錬(ね)られた教育です。
そこでは過去の様々な出来事について、
原因から結果までの出来事の流れを通じて、
神々や人々の心を学ぶ、ある意味まさに世界最先端の教育であったのです。

繰り返しになりますが、歴史とは
「過去の事実の「流れ」を通じて、心の動きを学ぶもの」であったのです。
そこで今回は、戦後教育による歪(ひずみ)の一例として、
先の大戦について考えてみたいと思います。

先の大戦は日本軍による真珠湾攻撃から始まる・・・
というのが、現代日本人の常識です。
ところがその同じ日に、マレー作戦、フィリピン作戦が実行されています。
真珠湾だけではないのです。

そして東条内閣は、開戦の4日後の12月12日、
「今次の対米英戦は、
 支那事変(1937年7月7日勃発)を含め
 大東亜戦争と呼称す」
と閣議決定しています。

「戦争」と「事変」では、用語の意味が異なります。
戦争とは、国家機能を有した国家が、別の国家と戦うことを言います。
その意味で、
昭和12年(1937年)〜昭和16年当時のチャイナで日本軍が戦った相手は、
チャイナにおける蒋介石率いる国民党と呼ばれる軍閥であって、
国家ではありません。
だから「支那事変」と呼称されていました。

そしてそのチャイナの国民党を背後から支援していたのが米英蘭仏です。
昭和16年12月8日の開戦は、
その米英蘭仏と事実上の開戦となったわけですから、
結果として政府ではないチャイナ国民党のとの戦いもまた、
事変ではなく、戦争という扱いになった・・・
というのが、この閣議決定の意味です。

2 なぜ日本軍は支那で戦うことになったのか

では、そもそもどうして、
日本はチャイナという外地において、
たとえ事変とはいえ、国民党と干戈を交えることになったのでしょうか。

これについてよく言われるのが、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件です。
そしてこの盧溝橋事件について語られるとき、必ず言われるのが、
「日本軍が勝手にチャイナに進駐していた(侵略していた)」というものです。

ではどうして日本は、この時代にチャイナに軍を派遣していたのでしょうか。

実は、この盧溝橋事件を去ること37年前(1900年(明治33年)、
まだチャイナに清朝が残存していた頃、
チャイナで起きた事件が義和団事件です。

この義和団事件では、北京に駐屯する英仏米独伊露およびオーストリア=ハンガリー帝国、そして日本の合計八カ国の公使らが、清朝の正規軍と民兵組織である義和団に一方的に襲撃されました。
各国の兵は寡兵ながら果敢に戦い、
なんとか御婦人を含む公使たちを護り抜いたのですが、
この事件の後に清朝政府との間で締結されたのが「北京議定書」です。

北京議定書は、清朝が巨額の賠償金を各国に支払うこと、
外国軍の北京駐留を認めることなどが定められました。
そしてこの議定書に基づき、
8カ国はチャイナ内に軍を派遣することになったのです。
日本も、その中の一国でした。

こうして各国の軍隊の駐屯が続く中、
これを不服とするチャイナの民衆が立ち上がって起きた事件が
辛亥革命」(1911年(明治44年))です。

この革命で清朝政府が倒れ、孫文率いる中華民国が成立するのですが、
ところが孫文は軍を率いていない。
孫大砲というあだ名があったくらいで、
声は大きいが空砲に過ぎないというのが、
当時のチャイナ内での評価でした。

チャイナの民衆にしてみれば、
理想を語る人よりも、眼の前の乱暴者の方が怖い。
結局孫文は、軍閥の長である袁世凱に国を譲り、
袁世凱は自分が中華帝国の皇帝になろうとしますが、
寿命が尽きて早世してしまう。

結局チャイナは、混沌が収まることなく、
外国の軍隊によって、
ようやく最低限の治安が保たれる情況に置かれたままとなるのです。

ところがここに事件が起こります。
それが、1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて
スペイン風邪が世界的大流行となったのです。

スペイン風邪は、当時の世界の人口20億人の内の5億人に感染し、
1億人の命を奪ったたいへんな事態です。
そしてこの発症源が、チャイナの武漢でした。
つまり、チャイナでは、まさにスペイン風邪が猛威を振るっていたわけで、
これには欧米諸国の兵隊さんたちも恐ろしい。
結局、諸外国の軍隊は、領事も含め、
みなさん仲良く本国へとお帰りになられるのです。

そして諸国の軍隊が引き上げるのに際して、
チャイナ内の治安を一方的に任されたのが、
当時、第一次世界大戦の戦勝国であり、
国際連盟の安全保障理事国でもあった日本でした。

つまり当時のチャイナにいた日本軍は、
スペイン風邪の猛威の中、チャイナで世界でただ一国、
チャイナ国内の治安を維持する部隊となっていたのです。

こうした情況下で、チャイナ内で勢力を持ったのが、
蒋介石率いる軍閥の国民党と、
毛沢東率いる軍閥の八路軍です。
もし毛沢東がチャイナ内の覇権を取れば、
この前年にロシア革命を成功させたソ連がチャイナでの栄養力を極大化させます。
それは、ソ連以外の西側諸国にとっては、
チャイナ内での権益を完全に失うことを意味しています。

そこで英仏米独伊が連携して行ったのが、
国民党の蒋介石への軍事支援、経済支援、食料支援です。

世界的なバックアップを得た蒋介石。
まだできたばかりで十分な実力を持たないソ連をバックにする毛沢東。
この両者の争いの結果は明らかでした。
蒋介石は、徹底的な「赤狩り」を行い、
毛沢東派に属する共産党員を、次々と見つけ次第殺して行ったのです。

そして、西安にいる毛沢東とその周囲の数十名しかチャイナ共産党がいなくなったとき
・・・蒋介石は、まったく別な行動に出るのです。
それが、毛沢東らと手を組んで、
今度はチャイナで治安維持をしている日本軍を相手に戦おうという行動でした。

理由は簡単です。
蒋介石にしてみれば、チャイナ共産党が壊滅してしまったら、
後ろ盾となっている英仏米独伊は、
もはや蒋介石に軍事物資や食料、金品を渡す必要がなくなるのです。

そこで、毛沢東率いる人民解放軍ではなく、
今度は、平和維持部隊として駐屯している日本軍を追い出すから、
金品をちょうだい、
と活動の矛先を変えるのです。

こうして盧溝橋事件が勃発します。
日本は、もとよりチャイナの軍閥と争う気はまったくありませんから、
すぐにこの事件は現地で停戦協定を成立させてしまうのですが、
どうしても日本軍と干戈を交えたい(交えればカネをもらえる)蒋介石は、
広安門事件、廊坊事件、通州事件と、次々と日本人を狙った蛮行を働き、
ついにチャイナにいた日本人居留民たち全員が
上海から船に乗って日本に帰国しようと
上海に3万人の日本の民間人が集まったところを、
なんと60万もの精兵で日本人を全員皆殺しにしようとする。

日本側はこれに対し、わずか2千名の海軍陸戦隊が
24時間ぶっ通しでまる一週間、上海を持ちこたえ、
この情況にやむを得ず松井石根陸軍大将率いる10万の上海派遣軍が、
ついに蒋介石軍を蹴散らすのです。
そしてこのときに、蒋介石軍が上海から逃げた先が南京で、
彼らは同胞である南京市民を虐◯し、
日本軍がやってくると這々の体で逃げて行ったのです。

こうして支那事変は、
英仏米独伊、とりわけ米英の支援を受け続ける蒋介石と、
チャイナの民衆をどこまでも護ろうとする日本軍の泥沼の戦いへと至るわけです。

3 「猿」と呼ばれた日本人と人種平等案

では、どうして英仏米独伊等の諸国は、
そうまでして日本を貶めようとしたのでしょうか。
このことを理解するためには、
当時の世界の情況を、まず理解する必要があります。

500年続いた植民地支配は、西洋諸国の人々にとっては、
生まれたときから、
もしくは生まれる前からのあたりまえの常識を形成しました。

それが、有色人種は「人間ではない」という常識です。
有色人種は、そもそも人間として認知されなくなっていたのです。

有色人種が人間でないならば何なのかと言えば、要するに猿です。
猿が人間の代わりに労働をしても、賃金が払われることはありません。
つまり、タダでいくらでも手に入る労働力としての猿であったわけです。

このことは、世界の最後に残った有色人種の独立国の日本人でも変わりません。

もしみなさんが、日本を代表する学者として、欧米の大学に派遣されたとします。
その大学の教授たちのパーティの席で、学長がみんなの前に立ち、
「今日は、みなさん、ようこそお集まりくださいました。
 あ、もっとも今日は珍しく、猿が一匹混じっておりますが・・・」

と、言った途端に、全員の視線が日本人であるあなたに注がれて、笑いの対象になる。
冗談で言っているのではありません。
ほんとうに背広を着た猿だと思われているのです。

けれどあなたは、猿ではなく人間です。
あなたはそのとき、どうすればよいのでしょうか。

これは実際にあった出来事です。
そしてこのような出来事は、幕末からずっと続いていたのです。
そしてそのことを、国民もまた常識として知っていました。

いかがでしょう。
あなた自身は、お前は人間じゃない。猿だ、と言われて、我慢もする。
けれど、あなたの子どもたちや孫たちも、この先、未来永劫、猿だと言われ続ける。
そして、我々日本人は、日本人が猿であると認めた瞬間、
それまでの植民地にされた有色人種国のすべてがそうであったように、
人口の9割が失われ、私有財産もすべて失うことになるのです。

このような世界環境の中、幕末以降の日本人の願いはただひとつ。
それは、私たち日本人が、欧米諸国の白人種と同じ人間であること。
それを、どこまでも誠実に証明し続けていこうというものでした。
これを一言で言うなら、「人種の平等」ということになります。

そしてこのことを日本は、1919年(大正8年)、
第一次世界大戦の終戦処理をめぐる国際会議の席上で、
「これから作る国際連盟において、
 その連盟憲章の第一条に人種の平等を記載されたし」
と、堂々と名乗りをあげるに至るのです。

これは、現代の価値観から言ったら、正論であり、あたりまえのことです。
けれど、当時の世界では、あたりまえではありませんでした。
なぜなら、植民地経営をすることで富を得ている白人の政治的影響力のある富裕層にとって、
有色人種が奴隷の猿ではなく、人間となったら、
全員に給料を払わなければならなくなるのです。

みなさんは、飼い犬や飼い猫などのペットに、
月々の給料を支払うことができますか?
私は、猫を8匹飼っていますが、
その猫たちに月20万円の給料を払うとなったら、
月160万、年額で1920万円もの給料を払うことになってしまうのです。
これでは我が家の経済は破綻します。

つまり当時の欧米列強の支配層にある植民地経営者たちにとって、
日本の「人種の平等」という提案は、
欧米社会に500年続く常識を奪うものであったし、
この瞬間、日本は欧米列強諸国の明確な「敵」となったのです。

そしてその敵となった日本を弱らせるために、
欧米諸国は蒋介石に金品を与えて日本と戦わせました。
それは、猿同士で戦わせ、双方ともに弱らせるという作戦でもあったのです。

4 先の大戦が残してくれたもの

私たちの先輩たちは、先の大戦において、
世界の歴史に類例のないほどの、
最初から不利とわかっている戦いを、戦い抜きました。

10倍の敵と戦うなんて、あたりまえ。
「敵は10倍の兵力を持っています。援軍を!」
なんていっても、
「それはいつものことだ」と返されるだけです。

兵隊さんたちは、銃創を負い、傷口にウジが湧いても、
それでも怪我を押して銃を握り戦いました。
銃後の国元にいる母や妻、つまり女性たちもまた、
子どもたちや孫たちが、未来の日本人が世界の中で人間として
堂々と対等に生きることができる未来のために、
愛する夫や息子の出征を、涙をのんで送り出しました。

日本軍歌に「暁に祈る」という戦時歌謡があります。
その一番の歌詞です。

♪ あゝあの顔で あの聲(こえ)で
  手柄頼むと 妻や子が
  ちぎれるほどに 振った旗
  遠い雲間に また浮かぶ

この曲は、当時の大ヒット曲となりました。
それは、出征兵士を送り出す女たちの想いと、
送られて戦地にやってきた男たちの両方の想いが、
まさに響き合った歌詞の歌であったからです。

5 戦後教育の歪みと、これからの清浄化

現代日本人の私たちが、
いまこうして「人として」生きていることができるのは、
他でもない、あの苦しい戦いを、見事に最後まで
戦い抜いてくださった先人たちがいてくれたおかげです。
その先人たちのおかげで、
世界の有色人種は、誰もが、最低限の努力さえすれば、
普通に背広にネクタイで世界に羽ばたくことができ、
女たちもまた、美しくお化粧をして
おしゃれを楽しんで生きることができるようになりました。

そのことに、いちばん感謝をしなければならないのは誰でしょうか。
それは、同胞である私たち日本人なのではないでしょうか。

そのことを忘れ、
戦後教育に染まり、
日本人が悪行を働いたとありもしない空想を歴史として教え込まれ、
そのただの空想に罪悪感を抱いて、
先人たちを悪しざまに言う。
そんな人は、たとえ良い大学を出たエリートであっても、
(ここまで読んでくださった方には伝わると思いますが)
私から見たら、人間のクズです。

戦後80年。
いま世界はようやく、
戦後という時代の歪(ひずみ)に気が付き始めました。
私たち日本人もまた、清浄化(正常化)するときが来ています。
なぜなら、響き合いは真実からしか生まれないものだからです。

追伸:
本論考は、欧米の白人種の人々や、
チャイナ国民党政権を責めることを目的としたものではありません。
誰が悪いと決めつけるのではなく、
時代にはその時代の「認知」があるという前提を踏まえたうえで、
これからの未来に――
誰もが豊かに、安全に、安心して生きられる社会を実現したい
という願いから書かせていただいています。

もちろん、異なるご意見をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
ただ、私は論争を望んでいるわけではありません。

描きたいのは、
当時の日本人が何を感じ、何を守ろうとしたのか。
その心の歴史、内なる歴史です。

歴史観は、百人いれば百通りあって良いのだと思います。
なぜなら――

歴史観が違っていても、
人は必ず、響き合うことができると信じているからです。

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