以下にお話しするこのお話は、このブログで2010年7月に初公開し、翌年、航空自衛隊の機関誌「翼」に掲載いただいたものです。
掲載のあと、翼の記事を読まれたというYさんという方からメールをいただきました。
Yさんはこの戦いに参加された第三龍虎隊のパイロットのひとりの息子さんです。
Yさんは、ご自宅の仏間に飾ってあるお写真のスキャン画像を一緒に送ってくださいました。
それが上の写真です。
この写真の裏にはお父様の字で、
「神風竜虎隊 別れの宴(台湾新竹基地)」
と書かれています。
撮影されたのが昭和二十年七月二十六日。
場所は台湾にあった新竹航空基地です。
まさに出撃直前の別れの宴のときのものです。
左から五番目が、第三龍虎隊を指揮され、見事散華された三村弘兵曹です。
お写真の三村兵曹は、飛行マフラーをしていません。このことに気付いたYさんのお父さんが、自分の絹のマフラーを渡してあげたそうです。
このとき、特攻人形も一緒に渡したと、日記に書かれてあるそうです。
「赤とんぼ」というのは、昭和九年に練習機として採用された複葉の飛行機です。正式名称は「九三式中間操縦練習機」で、鋼管フレームに躯体は木、翼は布張りでできていました。日頃は練習機として使われ、機体を視認しやすい「オレンジ色」に塗装していたことから、多くの国民から「赤とんぼ」の名称で親しまれた飛行機です。
飛行機としての性能は、当時使用されていた戦闘機などと比べて圧倒的に低く、たとえば当時の戦闘機は、だいたい時速六百キロくらいのスピードで飛んだのですが、「赤とんぼ」は特攻のための二百五十キロ爆弾を搭載すると、その飛行速度は最大で時速百三十キロくらいです。
しかも飛ぶためにはエンジンを全開にしたフルスロットル状態で、ようやく空に浮いているという状況でした。
その「赤とんぼ」が、見事、特攻作戦を成功させ、米駆逐艦キャラハンその他三隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げたのです。
そうはいっても、大東亜戦争の末期には、自動車で言ったらすでに十一年落ちです。当時としては、すでに軍用機としては、相当型落ちの旧式飛行機です。
ただ、いいところもあって、燃料のガソリンに、アルコールを混入した「八〇丙」という劣悪な燃料でも飛ぶことができました。
大東亜戦争末期の昭和二十年は、日本の石油輸入量はゼロです。
こうした機は、ある意味実に貴重な存在だったわけです。
昭和二十年七月二十四日、台湾の竜虎海軍基地で、この九三式中間操縦練習機で、夜間爆撃訓練をしていた三村弘上飛曹以下八名に、特攻命令が下りました。
七月二十六日早朝、台湾の新竹基地に到着した彼らに、「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。このときの模様が先ほどの写真です。
式が終わると、彼らはすぐに出発しました。
台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島に向かい、そこから先島諸島、宮古島へと移動するのです。
これは本来なら、台湾からひと飛びの距離です。
しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはありません。
燃料も持たなかったし、とにかく速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかるのです。
この移動だけでも九三式中間操縦練習機にとっては、たいへんなことでした。
実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しています。
しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着し、飛行不能となり、攻撃が中止されていたのです。
こういう機まで、特攻作戦に参加させる。特攻機の向かう先は、沖縄の海でした。
そこまでしてでも、日本は、沖縄を護ろうとしたのです。
二十八日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、二百五十キロ爆弾をくくりつけました。
これまた無茶な話です。
当時の戦闘機は2000馬力級です。
対する赤とんぼのエンジンは、わずか三百馬力しかありません。
爆弾をくくりつけたとたん、それだけで機の性能の限界に挑む飛行になるのです。
おかげで、宮古島を離陸してすぐに、八機の内の一機がエンジントラブルに見舞われてしまいました。
限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もありません。
やむをえず、その機は引き返しました。
引き返した機は、ようやく宮古島に到着したのですが、着陸までエンジンが持たず、機が大破しています。
残る七機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。
しかしやはりエンジンが不調となり、二機がいったん宮古島に引き返しています。
残る五機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。
沖縄までたどり着くだけでもリスキーな赤トンボです。
その沖縄の海には、見渡す限りの米軍、大艦隊がいます。
到着したとしても、速度の遅い赤とんぼに、猛烈な敵の対空砲火をかいくぐり、見事、特攻を成功させることができるのでしょうか。
三村隊長は、出発前の日記に、
「九三中練で死ぬとは思いもよらず」
「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」
と書いています。
どうみても、できるはずもない作戦だったのです。
ところが奇跡が起こりました。
まず赤とんぼ隊は、米軍のレーダーに発見されなかったのです。
いや正確には、レーダーに発見されたのですが、飛行機と思われなかったのです。
実は米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使って、赤とんぼ隊を百五十キロ手前で捕捉していました。
ところが、赤とんぼは、極めて操縦性能の良い練習機です。
夜の海を海上すれすれに飛んでいます。
そのためレーダーに捕捉されにくく、しかも機体は木と布です。
たまにレーダーに反応しても、光点は、点いたり消えたりだったのです。
しかもあまりに飛行速度が遅い。
このことは米艦隊の中でも、議論になりました。
レーダーに出たこの光点は、鳥か、飛行機か、誤反応か?
本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせました。
そして米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤とんぼ隊は、艦隊のわずか二十キロ、到着までわずか十分弱の距離まで近づいていたのです。
「敵機来襲!」
米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えました。
けれど、当時の艦船の戦闘準備というのは、そんなに何分でできるような簡単なものではありません。
艦上は大混乱に陥ります。
敵は、どこだ!?
見れば、もう目の前を超低空で日本機がやってきています。
しかもそれはなんと、古式ゆかしい二枚羽根の飛行機です。
当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた対空用の高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散し、弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるというものでした。
ところが、練習機赤トンボは、あまりの低空飛行です。
高性能高射砲を、その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまう。
それでも果敢に近距離砲を使って、米艦隊は全艦をあげて迎撃を行います。
滅茶苦茶に弾が飛んでくる。
赤とんぼは、低速です。
何発もの弾が、赤とんぼに命中しました。
いや、命中したはずでした。
ところが、赤トンボは、墜ちないのです。
対空砲火の弾は、敵機に当たると炸裂するようにつくられているのです。
ところが、赤トンボは、布張りです。
弾は、当たっても貫通してしまって炸裂しない。
エンジンか、燃料タンクか搭乗員に命中しない限り墜ちないのです。
三村隊長以下五機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫しました。
敵の輸送船には目もくれません。狙いはあくまで敵の軍艦です。
最初の一 機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャ ラハン」の右舷に体当たりしました。
赤とんぼは低速で、しかも機体も軽いから、艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。
通常これだけでは固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。
ところが赤とんぼが、やっとのこと で吊り下げてきた二五〇キロ爆弾は装甲弾です。
爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしました。
「キャラハン」の機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。
炎はこれに誘爆し、艦は大爆発炎上したのです。
そして午前二時三十五分に沈没してしまいました。
あっという間の得出来事でした。
米軍は、大東亜戦争当時の自軍の被害については、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した艦以外は「沈没」として発表していません。
たとえば大破炎上して数時間の後に沈んだ船は、それが敵である日本の船なら「撃沈」に加えられますが、自軍の船なら「大破」として発表しています。
戦いの場では沈んでいないというわけです。
けれどこのときの「キャラハン」は、どうにも誤魔化しようのないものでした。
まさに「沈没」とされました。
そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、 米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」となりました。
続く二番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」に突入しました。
「プリチット」 の対空砲火開始は、なんと赤とんぼとの距離が千五百メートルに迫ったときでした。
それでもギリギリ、艦のわずか一・八メートル手前で、赤とんぼを撃墜しました。
しかしこの日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念だったのでしょうか。
赤とんぼは、海上に激突する寸前に、搭載した二百五十キロ爆弾を、機体から切り離したのです。
爆弾は海面に激突する赤とんぼを離れ、弧を描いて「プリチット」 に命中しました。
「プリチット」は、大破炎上します。
このことは、艦までわずか一・八メートルの距離にまでせまった赤とんぼの機体の中で、パイロットに意識が残っていたことを示しています。
死のほんの何秒の瞬間まで、その闘志が衰えていなかったのです。
おそらくその時点で、彼の全身には敵の重火器の砲火があたり、もしかしたら肉体の一部は飛ばされてなくなっていたかもしれません。
そういう、過酷な状況の中で、それでも彼は操縦桿をひき、爆弾投下スイッチを操作して、「ブリチット」に二百五十キロ爆弾を当てているのです。
まさに闘神そのものです。
「プリチット」の近くにいた、米駆艦「カシンヤング」は、「赤とんぼ」 二機を撃墜しました。
ところが、いったん宮古の基地に引き返した「赤とんぼ」 二機が、機体の整備を終え、すぐに後方から迫ってきていたのです。
この二機も、やはり米軍のレーダーに発見されずに飛来しました。
そして気付いたときに は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」 の目の前にこつ然と、その複葉の機体をあらわしていたのです。
「カシンヤング」は、迎撃準備をするヒマさえありませんでした。
超低空を飛行してきた二機の「赤とんぼ」は、仲間の敵討ちとばかり、「カシンヤング」 の右舷に激突しました。
「カシンヤング」 は、艦の中央部が大爆発し炎上します。
この戦闘で、「カシンヤング」は二十二人が戦死、四十五人が重傷を負っています。
さらにこの戦いで、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中しています。
タイミングからして、これも赤トンボの第三竜虎隊による戦果であるとしか考えられません。
結局、「第三竜虎隊」7機中五機が命中しています。
成功率七割です。
大戦果です。
いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。
そこには、次のように記載されています。
【建碑の由来】
もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。ああ途絶の死真に痛恨の極みなり
一九四五年七月二十九日夜半
神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹三村弘
一飛曹庵民男
同近藤清忠
同原優
同佐原正二郎
同松田昇三
同川平誠
義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
その武勇萬世に燦たり。願はくば御霊安らかに眠られよ。父母のみむねに
神風特別攻撃隊竜虎隊一同
一九九五年七月二十九日
神風特攻第四次竜虎隊員
滋賀県水口笹井敬三
【鎮魂の詩】
紺碧の海風亦清し
島人素朴にして
人情濃いなり
誰か思わん此の地激戦跡なるを
瘡偉飢餓将兵僵る
相図る戦友建碑の事
鎮魂痍悼安眠を祈る
幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
更に願う
島を守りて平和の全きを
昭和六三年十月吉日
この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。
「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、
極端に速度が遅く航続距離も短い複葉機や
固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、
敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。
だがまったく使えなかった訳でもなく、
僅かながらも戦果を挙げている
(九三式中間練習機による特攻は、
一九四五年七月二十九日出撃の
「第三龍虎隊」が駆逐艦一隻を撃沈している)」
悲しいことです。
「わずかばかり」とは何事でしょうか。
しかも、戦果は駆逐艦一隻のだけではないのです。
戦後、私たち日本人は、命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱め、貶めてきました。
でももう真実に目覚めるときです。
いつまでもお人よしで騙され続ける日本人ではいけない。
事実は事実として明確に主張し、断固として自存自衛を確立した日本を、感謝と希望で取り戻すときがやってきたのです。
すごい。の一言だけです。体育会系の人間ですが、言いようがないです。
懸命に死にに行かれたのですね、戦争は無い方が当然善いですが、たとえ葛藤があっても、真っ直ぐに死にに行かれた方には、その潔さに感動していまいます。合掌。