日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
彼女たちは、編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールまで行き、そこから陸路でマレー半島を北上して、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院に配属となりました。

この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んだのです。

けれどもこの時期から、戦況は日に日に悪化していきました。
翌昭和19年4月、病院長の笠原軍医中佐が転勤となり、後任として、松村長義軍医少佐が着任しました。
戦況の情況を憂慮した松村病院長は、4月26日、重症患者330名を30両のトラックに乗せて、南にあるラングーン(現ヤンゴン)に後送しました。
重症患者たちは、そこからさらに数隻の船に乗って海路モールメンの病院に収容されています。

一方、残った看護婦ら約300人と、患者たち約800人は、二日後の4月28日、護衛部隊のないまま、徒歩でペグー山脈を目指しました。
このとき、日赤新和歌山救護班の看護婦たちは、全員カーキ色の開襟シャツにモンペを穿き、胸には赤十字のブローチを付け、頭は三角巾でしばり、足にはズックを履いていました。

患者たちのなかで、自立歩行が困難な者は、牛車に乗せたのですが、悪路のため、牛車は舌を噛み切りそうなほどの揺れでした。
病院部隊の一行は、ペグーの山中でいったん集結し、第54師団との合流を待ちました。
けれど、一週間待機しても、師団は現れません。
松村病院長は、患者たちとともに、軍隊の護衛のないまま、マンダレー街道を突破してモールメンに向かうことを決意しました。
このとき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、そこからそれぞれの故郷に帰らせています。

このモールメンに向かう途中のことを、病院付けだった堀江政太郎曹長が手記に書いています。

 *

我々がパウンデーを出発したのは、私の記憶によれば26日の未明だった。
この日もどんよりとした、いまにも降ってきそうな、うっとうしい朝だった。
ペグー山系に入ると同時に、連日の雨で、泥には多くの将兵、入院患者が悩まされた。

急坂は滑る。何回転んだことか。
やっと平地になったと思ったら、今度は泥沼化し、思うように歩けない。
スネまでも埋まり、軍靴の底を剥がした者もだいぶいた様だった。

こんなときに、ある入院患者が大腿部切断で、松葉杖をついて懸命についてきていたが、元気な我々でさえ、泥沼に軍靴を取られて歩けないくらいなのに、この患者は、土中に深くめり込んだ杖を抜くのに必死だった。
見かねて、
「おい頑張れよ」と励ますと、「ハイッ!」と返事はしていたが、おそらく内地には帰っていないであろう。
(中略)

雨の中をペグー山系にさしかかると、牛車の通行は不可能となり、(具合の悪かった看護婦の小上さんは腰に紐を付けて前からひっぱり、二人が脇から支え、ひとりが後ろから押し上げるという難行軍にみるみる衰弱し、5月9日に同僚らの見守る涙のうちに、病没した。

 *

5月18日、やっとのことでペグー山中を踏破した一行は、マンダレー街道を密かに横切り、シッタン河の東方のワダン村に終結しました。
ところがその日の午後4時頃、突然、銃撃を浴びます。
銃を撃っていたのは、英国人兵たちでした。
引きつった顔や、銃を撃つ手の動きまで見えるほどの至近距離でした。
英国人達は、自動小銃や戦車砲を撃ちこんできました。

このとき松村病院長は、白刀を振りかざして英国軍めがけて突進し、これに軍医、衛生兵らが続きました。
突進した全員が還らぬ人となるなか、その隙に、患者たちと看護婦たちは、村外れの田んぼに隠れました。
けれどこのとき、23名いた彼女たちは、18名に減ってしまいました。
5名は、この銃撃で還らぬ人となったのです。

せっかく田んぼに隠れたのも束の間、空から爆音が聞こえてきました。
このままでは敵に見つかってしまいます。
中尾敏子婦長は、とっさの判断で一行を前方の芦の原っぱへと走らせました。
けれどこのとき、婦長の一団と、児玉よし子副婦長の一団と、二つに別れてしまいました。

原っぱへと走る途中で、森下千代子さんが右肘を撃たれて重症を負いました。
中尾婦長は同行の男性に手榴弾で皆を殺してくれるように頼みました。
男性は、ためらいました。婦長は言いました。
「御国のため、敵に辱めを受ける前に潔く自決しましょう。捕虜になんかなりなさるな」
言い終わらないうちに、婦長は腹部を撃たれました。
まもなく出血多量で苦しい息となり、小さくて低いけれど、はっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命しました。

敵は草むらから、さかんに撃ってきました。
石橋澄子さんは、左大腿部を撃たれて意識を失い、池田八重さんも撃たれて死亡、狩野重子さん、原すみ枝さん、田中君代さんの三人は、腰のベルトを外し、首にまきつけて自決しました。
中原忠子さんは、そばにいた男性と飛び出していって行方不明となりました。

芦の原っぱの向こうはシッタン川でした。
一部はビルマ人の小舟に乗せてもらうことができましたが、このとき山入貞子さんと、射場房子さんの二名が濁流にのまれてしまいました。
出発当時男女合わせて30名いた救護班は、川を渡り終えたときには6名に減っていました。

一行は、まる4日、山の中をさまよいました。
看護婦達は、疲労と空腹のため一歩も歩けなくなり、山の上に座り込んでしまいました。
「拳銃でひとおもいに殺して!」と言いました。
もちろん男性たちは、彼女たちを殺すことなどできません。
彼らは、彼女たちを山に残したまま、進むしかありませんでした。

この戦闘のあと、英国軍には、10名の看護婦が保護されました。
松山越子さん、西浦春江さん、肘に重症を受けた森下千代子さん、山本日出子さん、大腿部を撃たれた石橋澄子さんの5人は、まもなくインドに送られて、日本人抑留所で赤十字看護婦として勤務させられ、昭和21年7月に日本に復員することができました。

児玉よし子さんと丸沢定美さんの二人は、ラングーンの英国軍の収容所の中で、隠し持っていた青酸カリをあおって自決しました。

そのときの様子を、同じ収容所にいた田中博厚参謀が手記に残しています。

 *

この監獄で白衣の天使が二人自決しました。
敗走千里の途中、トングー付近の野戦病院に、最後まで将兵を看護していた白衣の天使のなか二人は、不幸にも逃げ遅れ、白衣も汚れてヨレヨレのまま、この監獄に収容されました。

血に飢えた肉にかつえた英兵達は、5,6人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女たちの下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪(どんらん)の瞳で見据えるのです。
これが2日も続いたその夜、乙女たちは隠し持っていた青酸カリで、神の御国へと旅立って行きました。

遺書には、切々と英人の暴虐を訴え、このままでは、いつどんな目に遭うやらわからない。
野戦病院で、母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
一生涯・・・短い20年の生涯でしたが、清く美しく生きられたことを、せめてもの慰めにします。
ただ、もういちどお父さんに会えなかったのが心残りです、と結んでありました。

*****

ひとつ、はっきりさせておかなければならないことがあります。
それは、日本以外の諸国では、程度の差こそあれ「軍と暴徒とヤクザは同じもの」だ、ということです。

日本では、古来、軍人は規律を守り、どこまでも民のために戦うという姿勢が貫かれています。
なぜなら、日本では、民は、敵味方関係なく天皇の「おおみたから」であり、その「おおみたから」を護るためにこそ武人は存在している、という自覚があるからです。
これは日本人にとっては、まさに骨肉に染み込んだ自覚です。

けれども、諸外国では、「軍と暴徒とヤクザは同じもの」です。
程度の差はあります。
まさに鬼畜そのもののソ連やChinaやKorea兵もあれば、ある程度は規律の保たれた英米のような軍もあります。
けれど、その英米ですら、あきらかに女とわかる、あきらかに看護婦と傷病兵の一団とわかりながら、平気で銃撃を加え、捕まえた女性たちに恥辱を与えています。

歴史、伝統が違うのです。
そのことは、当ブログの過去記事「国民国家と三十年戦争」で、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』を紹介していますので、ご一読いただければと思います。

人類史を振り返れば、戦いは現実に「ある」のです。
多くの人々は、いつの時代にあっても平和を願っていますが、それでも戦争は、現実にあるのです。
そして一昨日の根本博陸軍中将のお話に書かせていただきましたが、「武装がなければ女子供が蹂躙される」のです。
だからこそ、そうならないように武装する。
これが世界の現実なのです。

良いとか悪いとかの問題ではないのです。
「蹂躙されない」
そのためには、現実の問題として武装が必要だし、その武装は世界最強の武装でなければならないし、一国だけで守りきれない危険を避けるためには、諸外国と軍事同盟を結んで集団的自衛権を行使しなければならないのです。

そしてこういう過去の事実を知れば、国を護ることがどれだけ大事なことなのか、安保法案反対が、いかに世迷いごとなのかをご理解いただけようかと思います。

今日の記事・・・冒頭の写真は、本来なら、この事件の犠牲となられた看護婦さん達の写真(二段目に掲載)を冒頭にもってくるべきだったのかもしれません。
けれど、季節の花の白い百合にしました。
白百合の花言葉は「純潔」「威厳」です。
まさに白衣の天使たちそのものです。慰霊の意味をこめて冒頭は白百合にしました。
彼女たち、生まれ変わって今生では、きっとお幸せな人生をお過ごしのことと信じたいです。

参考図書:永田竜太郎著『紅染めし―従軍看護婦の手記』(1977年)

※この記事は2015年6月のねずブロ記事の再掲です。

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シッタン河畔に全滅した日赤新和歌山班ー従軍看護婦の悲劇” に対して1件のコメントがあります。

  1. 川浪郁美 より:

    小名木先生いつもありがとうございます。本当に勉強になります。

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