AIは人間を支配するのか。それとも使いこなせるのか。そのヒントは、実は仏教の歴史の中にありました。

AIが進化すると、人間は支配される。
そんな言葉をよく耳にします。
けれど私は、少し違う見方をしています。
AIというのは、例えて言えば「酒屋」のようなものではないかと思うのです。

酒屋さんは、時代とともに大きくなり、品揃えが増え、珍しいお酒や高級なお酒、あるいは強いお酒まで、なんでも揃うようになります。
最近では、こちらの好みに合わせて「こんなお酒はいかがですか」とおすすめまでしてくれる。

AIの進化は、これと同じです。
知識は増え、できることは広がり、提案の精度もどんどん高くなっていく。
けれど、どんなに酒屋が立派になっても、「どの酒を手に取るか」は、あくまでお客である人間の側にあります。
ここが、とても大事なところです。

では、なぜ「支配される」と感じる人が出てくるのでしょうか。
それは、酒屋に並んだお酒の中から、自分で選ばずに「おすすめ」だけをそのまま受け取るようになったときです。
気がつけば、自分の意思ではなく、外からの提案に流されて選んでいる。

AIが人間を支配するのではありません。
選ばなくなった人が、結果として流されていくのです。

ここで、少し歴史の話をしてみます。

かつて仏教が東アジアに広がったとき、膨大な数の経典が整えられました。
その数、六千余巻とも言われます。
そこには、人生や社会、宇宙に至るまで、あらゆる知識が詰め込まれていました。
さらに、多くの僧侶たちが生涯をかけて研究を重ね、その解釈や理解は、時代とともにどんどん深められていきました。
いわば、当時の「知の体系」は、爆発的に拡大していったのです。

本来、どれほど教典が充実しても、「どの教えを学ぶか」は、あくまで人間の側にあるはずです。
ところが、その知識があまりにも広大で立派であったがために、次第に「教典を学ぶことそのもの」が目的となる人々も現れてきました。
そして気がつけば、人が教えを使うのではなく、教えに人が使われるような状態が生まれていったのです。

ところが日本は、少し違いました。
日本には、神話があり、「かんながらの道」と呼ばれる在り方がありました。
つまり、日本は日本としての基準を持っていたのです。
そのため仏教が入ってきても、それを丸ごと受け入れるのではなく、
・自分にとって何が必要か
・どこまで取り入れるか
・何を選び、何を選ばないか
そうした選択が、それぞれの人の側で行われました。

たしかに混乱はありました。
仏教を中心に据えようとする蘇我氏が実力を持ち、ご皇室の在り方にまで影響力を持つようになりました。
聖徳太子もまた、蘇我氏の影響のもとに、推古2年(594年)、推古天皇の名で「仏教興隆の詔」を発せられています。
これは、「三宝(仏・法・僧)を敬い、仏教を興隆せよ」という命令です。
これによりその後、国家政策として寺院建立や教えの普及が推進され、飛鳥文化の発展と仏教国家への転換点となったと言われています。

ところが重要なことは、同じく聖徳太子が、その13年後の推古15年(607年)、神道の神々を厚く崇敬するように命じた「敬神の詔」を発せられたことです。
これにより、仏教興隆の政策と並行して、古くからの神道の信仰を大切にすることが公式に宣言されました。
宮中の祭りごとは完全に神道となり、これが「神仏習合」の基礎となって現代に到っています。

どうして教典を持たない神道が、膨大な経典を持つ仏教に飲み込まれなかったのでしょうか。
その理由は、日本には日本独自の基準があったからです。
膨大な経典は、いわば当時の「知の最高級銘柄」が並ぶ陳列棚のようなものだったのかもしれません。
けれど日本人は、その前で立ち止まり、自分の基準で選び取っていったのです。

そしてこの構造は、現代のAIにも、そのまま重なります。
AIは、巨大な酒屋のように、あらゆる知識と選択肢を並べてくれます。
しかし、
・何を選ぶのか
・どこまで取り入れるのか
・何を選ばないのか
これを決めるのは、あくまでAIを使う人間の側にあります。

自分の基準を持って選べる人は、支配されません。
けれど、選ぶことをやめたとき、人は外からの圧力に流されてしまう。
その状態こそが、「支配される」ということなのです。

それは、現代のSNSのレコメンドに身を委ねきっている姿とも重なります。
自分の物差しを失ったとき、人は情報に触れるのではなく、情報に動かされるようになります。

ここで問われているのが「姿勢」です。
何を選ぶかという判断も、どれだけ取り入れるかという節度も、
すべてはその人の在り方から生まれるのです。
AIが進化すればするほど、能力の差ではなく、「在り方の差」が結果を分けるようになります。

AIは、神ではありません。
ただ、巨大で賢くなり続ける「酒屋」に過ぎません。
別な言い方をするなら、膨大な知識と解釈が積み重なった、巨大な教典群のようなものです。
それらとどう向き合うかは、酒屋でどの酒を選ぶかと同じです。

何を選び、どう生きるのか。
問われているのは、AIではありません。
私たち自身の姿勢です。

そしてもうひとつ。
ここで大切になるのが、「何を選ぶか」だけではなく、
「何のために選ぶのか」という視点です。

そのとき重要になるのが、目的を定め、結末を描く「出口の設計(EXIT Design)」です。

迷って門を叩くとき、ただ入ること自体が目的になると、人はかならず流されます。
それは、どんな酒を買うかも決めずに酒屋に入り、勧められるままに選ぶのと同じです。
けれど、出口が定まっている人は迷いません。
日本料理を作りたいなら料理酒、肉料理にするならワイン。
あとは、自分の意思で選ぶだけです。

人生も同じです。
どこへ向かうのか。
何を大切にするのか。
どんな関係を築いていくのか。

出口が定まっている人は、流されません。
むしろ、あらゆる知識や教えを使いこなし、自分の足で立ちながら、目的に向かって進んでいきます。
だからこそ、日本を学ぶことには意味があるのです。
私たちが倭塾を通じて「和の心」や「古典」を学ぶ理由がここにあります。
日本を学ぶことがそのまま現代における最強の「出口設計」の一助になるからです。

AIも、まったく同じです。
何を選び、どう使うのか。
どこへ向かうのか。
それを決めるのは、AIではありません。

私たち自身の「姿勢」であり、
そして「出口」なのです。

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