100点でなければてほんと?!
得ることが幸せってほんと?

そんなことを『古事記』を通じて考えてみたいと思います。
先に答えを申し上げますと、それらは戦後の刷り込みにすぎない。

大祓詞に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊祓しましき」という言葉があります。
『古事記』にそのまま載っている言葉です。

「禊(みそぎ)祓(はら)い」というのは、
「禊(みそぎ)」が「身を削ぐ」、つまりあらゆる欲を捨てること。
「祓(はら)い」が「払い」で、汚れを落とすこと、といわれます。

この言葉が出るのは、イザナギ神が黄泉の国から戻ったシーンで、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に戻られたイザナギ神は、そこでまず「禊(みそぎ)」をされます。
どのようなことをされ、どのような欲が捨てられたのか。
『古事記』は次のように書いています。

まず、杖、帯、囊(ふくろ)、衣、 褌(ふんどし)、冠(かんむり)、 左手の手纒(たまき)、右手の手纒を次々に投げ捨てられました。
すると、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)や、道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)など、ここで12柱の神様がお生まれになっています。

その生まれた神々の名前をみると、衝立船戸は様々な障害物、道之長乳歯は長い道のり、時量師はすごした時間、和豆良比能宇斯は様々な患(わずら)い、道俣は道の分かれ目、飽咋之宇斯神は飽食、奧疎は疎(うと)んじてきたこと、奧津那芸佐は心の平穏と思っていたこと、奧津甲斐弁羅はやり甲斐と思っていたこと、辺疎はそれらの周囲のこと、辺津那芸佐は周囲の平穏、辺津甲斐弁羅は周囲の取り替えです。
要するに、身の回りのすべてを投げ捨てられたという意味です。

さらに中の瀬に潜ってすすがれることで、八十禍津(さまざまな禍(わざわ)い)、大禍津(おおきな禍い)、それらの禍いを治そうとされたときの、神直毘(神々による立て直し)、大直毘(おおいなる立て直し)、伊豆能売(それらによって起きたこと)を捨てられます。

それだけではなく、水の中に深く潜って底津綿津見(そこつわたつみ)、底筒之男(なかつつのを)、つまり深層心理まで潜ってその中にあるすべてを捨てられ、水の中では中津綿津見(なかつわたつみ)、中筒之男(なかつつのを)、つまり中層意識にあるすべてを捨てられ、水の上では上津綿津見(うわつわたつみ)、筒之男命(うはつつを)、すなわち表層意識にあるすべてを捨てられます。

要するに、何もかも全部、深層心理にまでをも捨て去られるのです。

そこまでされたとき、左目から天照大御神、右目から月読命、鼻から建速須佐之男命がお生まれになられたとあります。

西洋のディープステイトと呼ばれる大金持ちさんたちがそうですが、一生かかっても使い切れないほどのお金を持ち、この世のありとあらゆる贅沢を独占していながら、さらにもっと彼らは欲しがっています。
彼らにとっては、得ることが、幸せなのかもしれません。

けれど日本では、神話の昔から、身を削ぎ、穢(けがれ)を祓いなさいと教えます。
そして身を削ぐ(禊)は、イザナギの大神さえも、それまでに身に着けたすべてを捨て、さらに深層心理にまで立ち入って、あらゆるものを捨てています。
そしてそのときに、かけがえのない最高神を得られています。

つまり、かけがえのない最高のものは、何もかも捨てた先にある、ということです。

このことは、まずは、得るために努力が必要であるということでもあります。
若いうちから壮年期に至るまでは、あらゆるものを手に入れるために、精一杯の努力を重ねる。
それは必要なことだというのです。

けれど、そうした努力の果てに、すべてを捨てる。
いちばん大切なものは、そうして「何もかも捨てた先にある」のだと『古事記』は書いているわけです。

このことを「元々本々(もともとをもととす)」といいます。
何もかも捨てた先にあるのは、もともとある大切なことだというのです。

人として生まれ、いま生きているということは、生まれたときの母の愛、育ててくれた父の愛によります。
我々は愛によって、いまこうして生かされています。
あらためてその自覚を得たとき、世界が変わる。

あるいは、何もかも捨てたとき、最後に残るのは「人」であり「仲間たち」であるのかもしれません。
あるいはそれは、もしかしたら「知識」や「知恵」なのかもしれない。

何もかも捨てた先にあるものは、人によって違います。
けれど、その「先にある」本当にたいせつなものを、あらためて自分の中心に置く。
これが大事だよ、というのが『古事記』の教えかもしれません。

※この記事は2022年9月の記事の再掲です。

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