江戸時代に活躍した人物のひとりに、永田佐吉(ながたさきち)がいます。
赤穂浪士の討ち入りがあった元禄14年(1701)に生まれた人で、岐阜県羽島市の豪商だった人です。

たいへんな人徳者と言われ、人を大切にし、手広く商いをして儲けた富は、道路の整備、道標の設置、石橋の設置、神社仏閣への寄進など、社会奉仕活動にたずさわりました。
けれど、永田佐吉が人徳者と言われた理由は、彼が大金持ちであったことでも、社会奉仕をしたことでもありません。
寄進や寄付、寄贈に際して、いっさい自分の名前を使わず、常にそれらの貢献を、村人たち全員の意思として行ったことにあります。

みんなのおかげで儲けさせていただいたのです。
だからそのお金は自分のためではなく、みんなのために、みんなの名前で使う。
なかなかできることではありませんが、だから永田佐吉は偉人としていまなお称えられています。
それが日本人らしい生き方だと思います。

そんな永田佐吉について、昔の修身の教科書は小学三年生で教えていました。
その本文を漢字等を現代語に直してご紹介します。

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尋常小學修身書 巻三
十 恩を忘れるな

永田佐吉は、11のとき、田舎から出てきて、名古屋のある紙屋に奉公しました。
佐吉は正直者でよく働く上に、ひまがあると手習いをしたり、本を読んだりして楽しんでいましたから、たいそう主人に可愛がられました。
しかし仲間のものどもは佐吉をねたんで、店から出してしまうように、いくども主人に願い出ました。
主人は仕方なく佐吉にひまをやりました。

佐吉は家に帰ってから、綿の仲買いなどをして暮らしていましたが、主人を恨むようなことは少しもなく、いつも世話になった恩を忘れませんでした。
そうして買い出しに出た道のついでなどには、きっと紙屋へ行って主人のご機嫌を伺いました。

その後紙屋は、たいそう衰えて、見るのも気の毒なありさまになり、長い間世話になっていた奉公人も、誰一人出入りをしなくなりました。
しかし佐吉だけは、時々見舞いに行き、いろいろの物を贈って主人をなぐさめ、その暮らしをたすけました。
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修身教科書は、佐吉の偉業をたたえるのではなく、佐吉ほどの人物であっても、人から妬まれたり、イジメられたり、それでも決して人を裏切ることなく、主人の恩を忘れず、誠実の限りを尽くしたことを扱っています。
結論から言えば、そういうことが佐吉の人望をあげ、商いを成功に導き、さらに村全体の豊かさや安全や安心に貢献したのだと、昔の修身教科書は書いているのです。

いまでも特定宗教団体や会社や団体等で、大儲けをしている人がいます。
けれどそういう人たちが、ではどれだけ社会貢献活動をしているのか。
そしてそれらの活動を、みんなの名前で行っているのか。
佐吉が現代に生きていたなら、自分の顔写真をデカデカと看板にしたりすることはありますまい。

日本は古来、、誰もがそれぞれの役割を人生で果たしながら、神々の子として尊重されるという社会を築いてきました。
日本神話は、この世界が神々の胎内にあると説きます。
人々は神々のお腹の中にある胎児の細胞のひとつひとつです。

体の細胞は、そのひとつひとつに役割があります。
皮膚の細胞なら皮膚としての、心臓の細胞、血管の細胞、胃腸の細胞、大脳の細胞、それぞれに役割があります。
それら諸器官の中で、ひとつひとつの細胞の寿命は、短いもの(消化器官の上皮細胞)で24時間、赤血球なら3ヶ月、骨髄細胞は数年から十数年、最長の心筋細胞や脳細胞は、その人が死ぬまでのお付き合いになります。
長寿の細胞も、短命な細胞も、それぞれがそれぞれの役割をしっかりと果たすことで人の体はできあがっています。

そして最長寿命の心筋細胞であったとしても、そのひとつの細胞が果たす役割は、ごくわずかなものでしかありません。
それでもそのひとつが、たったひとつでも壊死すれば、心筋梗塞の原因になります。
細胞のひとつが、欲をかいて自分の果たすべき役割を果たさずに、周囲の細胞から栄養分を巻き上げれば、それは癌細胞と呼ばれます。
胎児の体の中で、そうした癌細胞が勢力を持てば、お腹の中の胎児は死にます。
そして胎児の死は、母体である母親、つまり神々の命さえも奪います。
つまり、癌細胞となることは、神をも殺す大罪だということです。

人の人生においてなしえることは、精一杯頑張っても小さなことにすぎないかもしれない。
このことも細胞と同じです。
ひとつの細胞がなしうる仕事は、わずかなことでしかない。
けれど、それでも誠実に役割を果たしていくことが、人の人生にとって最も重要なこととだというのが、日本神話の精神です。
そして何億何兆という細胞は、すべてつながって生きています。

商売も同じです。
すべてがつながっている。
明治のはじめに、財政破綻状態にあった貧乏国の日本が、数十年で欧米列強に匹敵する大国に成長することができたのも、戦後に焼け野原となった日本が、わずか二十年でオリンピックの開催国になれるまでに復興できたのも、そうした、ひとりひとりがつながっているという国家としての紐帯を、日本人が大切にしてきたからではないでしょうか。
逆にこの30年間の不況は、そうした紐帯の崩壊によって招かれたはいえないでしょうか。

ひとりひとりがかがやく世界と、よく言われます。
ひとりひとりがかがやくというのは、ひとりひとりが身勝手に生きる社会という意味ではないはずです。
ひとりひとりが人生の役割をしっかりと果たして生きていく。
そうした考え方は、教育から生まれます。

戦前戦中までは、小学校卒業時に、その子の生涯の人生の方向が決定づけられていました。
現代日本人の感覚からすると、それは人の可能性を決めつけるものだと言われてしまいそうです。
しかし、その子の傾向性というのは、12歳位までには、ほぼ完全に決定されてしまうものです。
逆に言えば、小学教育がどれだけ大切か、ということです。

たとえば、
「鎌倉に幕府を作ることになりました。
 君はそのとき、どうやって
 幕府のお役に立とうとしますか?」

という質問があります。
人によって、すぐに思いつくことは、自分なら立派な幕府の建物を造りたいとか、街区の設計をしたい、あるいは工事に携わるみんなのために栄養のある食事をつくりたい、その食事に使う野菜や魚をとって来たい、人々の着物を作りたい、礼儀作法の教育に携わりたい等々、児童それぞれごとにみんな違います。
それがその子の、持って生まれた傾向性です。
その傾向性に沿った進路を児童に与える。
児童たちは、自分の好きな、そして自分の持って生まれた傾向性に合った進路へと進むことになるのです。
小中高と、すべての児童が同じ教育を受けるという戦後の学制と、それ以前の学制では、実は全く異なっていたのです。

そういうことなら、現代においても「職業適性検査」をしているではないかという声も聞こえてきそうです。
しかし、たとえば仮に「君は警察官になる適正が最も高い」と言われたとしても、警察官には、経理職から管理職、警察行政職、企画職、捜査員、科学捜査研究、記録等の保管事務等々、ひとくちに警察官といっても、その巨大な組織の中には、実に様々な職種があるわけです。
果たして、その職業適性検査の言う「警察官」というのは、警察官の何の職種に適正があると言っているのでしょうか。
「オレは警官には向いてないんだ」なんて言っていた新入り警官も、30年もしたらどこから見ても警官です。
適性というのは、自然と形作られるものでもあるのです。

戦後、反日国家として特定アジア三国が誕生しました。
それら国々では、史実を捻じ曲げた反日教育が行われています。
馬鹿なことだと、多くの人が言います。私もそう思います。
しかし、このことは日本も同じです。
現代日本の教育が、しっかりとしたものとは、まったく言えないと思います。
すくなくとも、教えてくれる教師(昔は師匠と呼びました)への尊敬を育まない教育は、その時点で教育の名に値しないのではないか。そのように思います。

教育を変えるのは、文科省の役割ではありません。
文科省は、決められたことを実行する行政機関です。
変えることができるのは、国会です。
そして国会議員たちを変えるのは、私たち国民です。

国民の民度が下がれば、教育も政治もレベルが下がります。
国民の民度が上がれば、教育も政治のレベルも上がります。

いまは、国民自身が学び考え、行動するときです。
そして永田佐吉までとはいえないまでも、すこしでも近づけるように意図して努力し続けること。
たいへんなようですが、それが最大の近道であると思います。

※この記事は2020年9月のねずブロ記事のリニューアルです。

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