チャイナに「老師」という文化があります。
「老師」というのは、一般にお師匠さんとなる年寄りのことで、年輪を重ねた分、学徳があったり、世の中を知っていたり、あるいは武術に長けていたりします。
そうした人たちのことを「老師」と呼ぶわけですが、チャイナではこの「老師」というのが曲者で、とにかく威張る威張る(笑)
古来チャイナでは「老師」はしゃにむに尊敬しなければならないとされていて、「老師」に服従することが若者の勤めというのが彼らの文化です。
ですからある意味「老師」というのは絶対的な存在です。
「老師」の指示には逆ってはいけない。
それがいわば社会常識になっているし、「老師」の側もこのことを知っていて、やたらに威張ります。
チャイナ映画に、よく白ヒゲを長く伸ばした「老師」が登場しますが、ようするにあのような人たちです。
もちろん日本でも昔から老人は尊敬するものとされてきました。
もちろん日本にも老師という存在はあったりします。
けれど日本の老師は、まさしく老人で、ある意味、ヨボヨボ(笑)。
一方チャイナの「老師」は、どういうわけか元気が良い。
この違い・・・に秘密があります。
まず、これは日本もチャイナも、世界中同じことなのですが、ほんの百年ほど前までは、子供はよく死にました。
だいたい十歳まで生きることができる子というのは、特に男の子であれば、確率的に50%ほどです。
たとえば千人の男の子が生まれれば、そのうちの500人が、十歳に至らずに死んでいったのです。
女児も亡くなる子がありましたが、全体の1割位。
女子の方が、断然強い!!(笑)
ちなみに昔はどこの国のどこの民族でも一夫多妻制でしたが、これには理由があって、男子は成人する子が5割程度であることに加え、成人後にも事故や戦争でそのまた半分が死んだのです。
ですから、たとえば男1000人、女1000人で、合計千人の子が生まれでも、20年後くらいには、男子は子供のうちに半分、成人してからまた半分が死にますから、生き残っているのが250人程度。
これに対して女の子は、成人する子が900人であったわけです。
男が250人、女が900人。
つまり男二人につき、女が7人という社会構造でしたから、戦死した兄貴の嫁さんと子供を、弟が妻に娶って妻子を安なうなんてことはあたりまえのようにあったし、力のある大金持ちや権力者が側室を10人20人と置くこともまた、ごくあたりまえのことであったわけです。
これが現代では、医療の発達のおかげで、幼児の死亡率が限りなくゼロに近づき、ほとんど全員が晴れて成人できるようになりました。
幼児が病気や怪我などで死ぬと、逆に医療過誤の問題になったりと、一昔前までなら考えられないような社会にいまはなっているわけです。
このことは実に不思議なもので、五割が死ぬという時代では、子が事故や病気から助かると、それがお医者への感謝になりましたが、医療が発達して死亡者の割合が限りなくゼロに近づくと、逆に医者の責任が問われだし、医者への感謝さえもなくなるわけです。
人間の気質というのは、ある意味、悲しい。
さてこうして昔は、まず幼児の死亡率が五割近くもあって、その上、やっと成人になっても、食糧事情が悪くて、食材の衛生環境が劣悪だと、やはり病気や、栄養不足などで、死ぬケースがあります。
とりわけ一昔前までのチャイナでは、衛生環境がとびきり悪かったため、ほんの70年前まで、平均寿命が35歳です。(いまは77歳です)
どういうことかというと、栄養状態が悪いところに、衛生環境も劣悪。
城塞都市内では、糞尿が壺に捨てられ、それを農民が桶に入れて天秤棒で畑まで担いで運びます。
その桶は、洗いもせずに、出来た野菜等をその桶に入れて、城で売り歩く。
畑に持っていった糞尿は、素足で女性たちが土と捏ねてかき回す。
(このため、近代までのチャイナの平民女性の服装は、下が黒の半ズボンでした)
こうなると、感染症が広がったとき、村や城塞ごと全滅することが、ごくあたりまえのようにあったわけです。
もちろん、医療もありません・・・とこのように書くと、日本の昔の医療は中国生まれじゃなかったの?と思われる方もおいでかもしれませんが、もちろんチャイナでも一定の医療はありましたが、それらは政府高官たちだけのもの。
一般の庶民が死のうが病気になろうが、国はお構いなし、というのが国柄であったわけです。
そうした社会が二千年以上続いているわけですから、チャイニーズがいまだけ、カネだけ、自分だけという思考を発展させていったことも、ある意味、当然といえます。
こうしたチャイナ社会にあっては、40代も半ばをすぎれば、もはや老人です。
その年令に達することができる人自体が、めったに居なかったからです。
さりとて実年齢は、50歳前後です。
実際には、まだまだ若いし、覇気もあれば体力もある。
しかも、自分以外は、皆、若者たちばかりという環境ですから、老人が希少価値で「老師」と呼ばれ、歳を重ねていること自体が、価値を持ったわけです。
人生時計という言葉があります。
年齢を時計の文字盤になぞらえたものです。
たとえば、30歳なら、24時間表示の人生時計で、まだ午前10時です。
社会人なら、今日の仕事に取り掛かり、仕事に集中している時間帯です。
50歳なら17時、つまり午後5時で、さあ、いよいよアフター5です。
60歳だと、夜の8時。夜のお楽しみタイム、つまり人生のお楽しみタイムは、これから。
66歳だと、午後10時(22時)で、勉強や今日一日の反省のの時間。
69歳になると、午後11時(23時)で、そろそろおネム。
72歳で24時で、その先は午前様のサービスタイム、というわけです。
要するにチャイナの昔の「老師」というのは、人生時計ならアフター5が始まったばかりです。
これからがお楽しみタイムですから、まだまだ現役年齢そのものであるわけです。
けれどそういう年齢の人が、社会的には希少価値を持ち、「老師」と呼ばれた。
ちなみに、チャイナの平均年齢の35歳(1949年当時)は、明治初期の頃のコリアの平均年齢(25歳)と比べると、はるかにご長寿です。
コリアの場合は、チャイナ以上に栄養状態や食糧事情が悪かったことを示します。
もっとも、そんなチャイナも、日本で言う江戸時代頃までの平均寿命は、24歳前後であったといいますから、チャイナもコリアもあまり変わらない。
では日本はというと、明治大正期の平均寿命が44歳で、これは江戸時代、あるいはそれ以前の時代から、実はほとんど変わっていません。
幼児の死亡率は、チャイナ、コリア、日本とも変わりはありません。
ところが日本では、ひとたび成人してしまうと、その後の寿命がたいへんに長かったのです。
このことは3世紀末に書かれた魏志倭人伝にも見ることができます。
次のように書かれています。
【原文】其人壽考 或百年或八九十年
【現代語訳】
人々の寿命は、百年あるいは八、九十年です。
3世紀頃の日本人の寿命を、魏志倭人伝は80〜90歳だと書いているわけです。
これは昔のほうが寿命が長かったのかというわけではありません。
世界中、どこでも幼児の死亡率は変わりませんから、その危機を乗り越えて成人となった者がどれだけ生きるかということを表しています。
そして幼児の死亡率が5割あり、その後の寿命が80〜90年になるとどうなるのかというと、全体の平均寿命が、その半分、つまり45歳前後となります。
つまり統計的に明らかになっている明治大正期の日本人の平均寿命と、ほぼ一致します。
どうして日本人がこんなに長寿だったのかと言うと、これはチャイナの逆です。
食糧事情が良くて、安全で安心で栄養価の高い食べ物が供給され、食糧事情が良かったのです。
ちなみに、同じく3世紀の西洋の状況をみると、ローマ時代のエジプトの統計が残っているのですが、その平均寿命が24歳です。
14~15世紀のイングランドが24歳、18世紀のフランスが25歳です。
要するに世界中、どこもかしこも、平均寿命は24〜35歳くらいでしかなかったわけで、それだけ成人の死亡率が高かったし、簡単にいえば50歳を過ぎれば、もう人生も最後の老人であったわけです。
ところが日本は、世界の諸国と同じように幼児の死亡率は変わらないのに、成人すると80〜90歳くらいまで生きる。
平均寿命は世界の諸国よりも20年も長い45歳前後です。
このため日本は、古代において、不老長寿の国、扶桑の国、蓬莱山と呼ばれました。
道教における神仙の国というのも、実は日本のことだと言います。
実際、単純にチャイナやコリアと比べて、平均寿命が倍ともなれば、不老長寿と言われてもおかしくないかもしれません。
そしてもともと長寿国であった日本では、チャイナで「老師」と呼ばれる50代は、まだまだ普通に現役です。
とりわけお坊さんの世界などでは、50代60代は、はまだ若者扱いです。
70代でようやく壮年、80代、90代になって、ようやく年寄りで、老境に至って老師と呼ばれるようになるのは100歳を越えてからです。
その意味で、チャイナの50代で「老師」というのは、まだまだ香具師のような側面があるわけで、若者の前でふんぞり返って、あれやこれやと指図し口出しをする。
「老師」とはいっても、実年齢が若いのです。
けれど、希少価値がある。
これが日本ですと、50代はまだまだ若者扱い。
「老師」と呼ばれるのは、肉体も枯れてくる90代以降の話です。
90代ともなると、およそ「威張る」ということがなくなる。
しかも、昔は15〜16歳で結婚です。
17歳にもなれば、子もある。
その子が成人して、やはり15〜6で結婚して子を生むと、
90歳代にもなると、子、孫、曾孫、玄孫、来孫、崑孫、つまり曾孫のまた曾孫くらいまで会うことができました。
おばあちゃんのもとに集まると、おばあちゃんの曾孫の子が、そのまた孫を連れてくるなんてことまでありえる話になったわけです。
人物写真で、誰もが幸せを感じる写真は、年寄の周囲に親族一同が集まった集合写真なのだそうですが、そんな集いができた日本という国は、まさに幸せの国であり、蓬莱山そのものであったといえるのではないでしょうか。
※この記事は2022年9月のねずブロ記事のリニューアルです。