(写真は金沢まいもん寿司)

半世紀前には、一時期、高級品だったお寿司。
回転寿司の普及と競争で、いまではすっかり庶民に人気の食べ物になりました。
このお寿司、来日する外国人にも大人気で、「日本食で何がお好きですか?」と聞くと、十中八九の外国人が「寿司」と答えます。

そのお寿司、お寿司そのものの歴史はとても古いのですが、昨今定番の江戸前寿司は、意外と歴史は浅くて、生まれたのはほんの200年ほど前です。
一方、寿司の名の由来となった「なれ寿司」の歴史は古くて、縄文時代には、すでに作られていたとか。

「なれ寿司」というのは、魚を米飯でくるんで発酵させた食品で、昔は魚の長期保存のために作られていました。
日本のように高温多湿の国では、食材がいたみやすいため、いざというときのために食品を長期保存する保存することは、まさに死活問題です。
とりわけ縄文時代は、貝塚が示すように、多くの人が海沿いの村で暮らしていましたが、台風の影響などで海が時化ったり、あるいは海水温の関係で、それまで獲れていた魚がまったく取れなくなったりなどに、生きのこれるかどうかは、まさに食料保存にすべてがかかっていたわけです。

日本に稲作が普及したのも、まさにそのためで、お米は玄米の状態にすれば、常温で20年経っても食べることができます。
冷蔵庫がなかった時代に、このことがどれだけ貴重なことであったのか。

日本で、いわゆる発酵食品が開発普及したことも、日本が高温多湿で食料保存がむつかしい国であることが、おおいに関係しているとみるべきです。
その発酵食品の、いわば代表格になるのが「なれ寿司」でもあるわけです。

ところが本当に近年、頭がどうかしているのかと思うのですが、そんな「なれ寿司」さえも、
「もともとの発祥は
 タイの北部から中国雲南省にかけての地域で、
 弥生時代に稲作が中国から伝わったのと
 同じルートでもたらされた」
というのが学者さんの説です。

ちょっと考えたらわかることですが、タイの北部というのは山岳地帯です。
そこでどうして海魚が常備食になるのでしょうか。
また中国から伝わったといいますが、中国の発酵食品で古くて有名なものが「腐乳」ですが、これは豆腐に中国の麹を入れて発行させたものです。
ところが豆腐を作るのに必要な「にがり」は、海水から天日採塩法で塩を得るときに、まだ湿気ている塩から滴るマグネシウムを大量に含む水のことです。
要するに、海に面していて塩田のあるところでしか採ることができません。

つまり豆腐が生まれるためには、大豆と塩田の両方が備わっていなければならないわけで、そうなると内陸部の広い中国で豆腐が生まれたとは、どうにも考えにくいし、ましてそれが朝鮮半島を経由して日本にもたらされたという論説は、普通にちょっと頭を働かせれば、誰でも「おかしい」とわかることです。

一方「なれ寿司」は、魚とお米があれば、生まれる可能性はいつでもあるわけで、日本においておそらくは縄文時代には、すでに食されていたと考えて、なんら不思議はありません。
「なれずし」で有名なのは、滋賀県琵琶湖の鮒寿司や、和歌山県の「サンマのなれ寿司」などで、なかでも和歌山県の「サンマのなれ寿司」は、30年も保存できる食品です。

加えて「なれ寿司」は栄養価抜群で、美肌効果、アンチエイジング効果があるだけでなく、一日一舐めするだけで、整腸、便秘解消、体内毒素の排出効果など、味のおいしさもさりながら、きわめて健康に良い。
あのね、美と健康は、現代人だけでなく、縄文弥生の時代にも、女性はいくつになっても美と健康を大事にしたと思うのですが、いかがでしょうか。
だって現実に縄文女性は、指輪にイアリング、アームリング、ブレス、ネックレスなど、ものすごくおしゃれで、縄文時代の女性の服装は、そのまま現代の原宿あたりを歩いても、とっても素敵な衣装です。

さて、こうして奈良平安、鎌倉室町江戸時代と食され続けてきた「なれ寿司」ですが、これに大きな変化があったのが、江戸時代の文化文政年間のことです。

文化文政年間というのは、江戸の街に人口が集中し、まさに江戸の庶民文化が花開いた時代で、ですから江戸時代を描く時代劇では、たいていこの時代が舞台になります。
たとえば銭形平次や、火盗改方の鬼平さん、大岡越前守や遠山の金さん、浮世絵や歌舞伎が世の人気をさらったりする時代が、まさに江戸の文化文政年間です。

これより少し前には元禄時代がありましたが、こちらはどちらかというと上方(大阪)文化が花開いた時代で、大阪の豪商、淀屋辰五郎が大名をもしのぐ大金持ちとなって天井に水槽を築き、そこで魚を飼ったなどという逸話が残されました。
赤穂浪士の物語が、この元禄時代の物語ですが、討ち入りは江戸ですけれど、大石内蔵助の芸者遊びなどは、京都での出来事です。

文化文政年間は、元禄より100年ほどあとの時代で、第11代将軍の徳川家斉(いえなり)が、将軍職を引退して大御所となって権勢をふるった時代だったことから、大御所時代とも呼ばれています。

将軍家斉というのは、とかく賛否両論のある人で、将軍としての職務と責任は12代将軍の家慶(いえよし)に全部まかせ、自分は贅沢三昧して遊び暮らしたという豪傑です。
おかげで江戸市中にお金がよくまわり、結果、江戸の景気がものすごく良くなって、江戸の町人文化が花開いた・・・というわけです。

 ***
※ このこと、歴史を学ぶ上でとっても貴重です。
事の良し悪しは別として、政府がお金を【国内で】いっぱい遣うと、都市部の景気が良くなって庶民生活が向上するということだからです。
よく「マリー・アントワネットが贅沢三昧をしたからパリ市民の生活が貧しくなってフランス革命が起きたのだ」と言われますが、マリー・アントワネットは、バリの洋装店から衣服を買っていたし、宮中に集う貴族たちも市中で大枚をはたいて贅沢な衣服を買い、美容師に髪を結ってもらっていたのです。
ということは、パリの景気はものすごく良くなったわけで、それがパリ市民の怒りになったというなら、別な理由をちゃんと考えなければ、理屈が合わなくなるのです。
同様に現代日本の30年の不況も、国会やメディアがやたらに緊縮を叫ぶようになってきてから起きた事象といえます。
政府は国内でお金を遣うと叩かれるから、海外にお金を撒き散らすようになり、結果日本は対外債権世界一(419兆円)を持つ国になっています。
その419兆円が、内需に向けられていたら、単純計算すれば国民一人当たり400万円の所得増。
4人家族なら1600万円の所得増になっていたことになります。
 ***

文化文政時代に出た有名人としては、東海道五十三次の安藤広重、世界的に有名な歌麿、北斎、東海道中膝栗毛を書いた十返舎一九、天才歌舞伎役者として有名な七代目市川団十郎。
学問の世界では、35年がかりで古事記全巻の通訳本を出した本居宣長、解体新書を出した蘭学の杉田玄白などがいます。

そして、この時代に生まれたのが、「酢」と「江戸前寿司」なのです。
「なれ寿司」を簡素化して生まれたのが、大阪のバッテラ、いわゆる押し寿司ですが、この押し寿司が、大きく変化したのが、文化文政時代の江戸だったのです。

最近では、大阪の押し寿司も酢飯を使いますが、もともとは米を使って発酵させて作るものだったようです。
ところが、発酵食品というのはどれもそうですが、出来上がるまでにものすごく時間がかかります。
魚を仕入れて、米に漬けて発酵させて、いざ食べれるようになるまでには、早くて1~2週間、長いものでは一年以上かかるわけです。

気の短い江戸っ子が、そんなに待ってなんていられねえ!とばかり、炊きたてのご飯に「酢」を混ぜることで、発酵米もどきの味をつけ、そこに新鮮な魚をちょいと乗せ、わさびを加えて、
「ハイ、お待ち!」
お客さんは、これをちょいと醤油に浸して、ポンと口に入れていただく。
これが江戸前寿司で、手軽に作れて、すぐに、しかも早く食べれることから、気の短い江戸っ子にぴったり!ということで大評判になり、いっきに江戸の町で普及しました。
あまりの人気に、江戸前寿司は関西にも流れ出て、押し寿司の大阪寿司まで酢飯が用いられるようになったわけです。

この酢飯誕生には、同じ文化文政の時代の「酢」の量産化が重要な要素となりました。
どういうことかというと、文化元(1804)年に、尾張名古屋の半田村で、造り酒屋を営んでいた中埜又左衛門(なかのまたざえもん)という人物が、「酢」を江戸で売ろうとしたのです。
これは、いわばお酒を作る際に捨てていた汁(もっと悪い言い方をするなら、お酒のおしっこみたいなもので、それまで廃棄物だった汁)を、人口の多い江戸で売ろうとしたのです。

それだけみたらずいぶんな話ですが、中埜又左衛門の頭の良かったのは、
「なれずしを作るには時間がかかりすぎるじゃねえか。
 炊きたてのご飯に酢を加え、
 食べやすい大きさにご飯を握って
 その上にネタを乗せて出したらどうか」
と、いわゆる「提案型営業」を江戸で行ったのです。

この提案に飛びついたのが「華屋(はなや)」という「なれ寿司店」を営んでいた与兵衛さんです。(つなげて、華屋与兵衛といいます)。
華屋与兵衛は、福井県南部の若狭の生まれの人で、早くに両親が病死したため、ひとりで江戸に出て、小さな【なれ寿司店」を開いていたのです。

そんな小さな「なれ寿司屋」に現れたのが、中埜又左衛門で、
「米をいちいち発酵させなくても、
 酢を加えれば、あっという間に酢飯ができますぜ」
「なるほど!
 こりゃ、楽でいい!」
と納得した華屋与兵衛さん。
さっそくこれに「江戸前握り寿司」と名前をつけて商品化したのです。
(ネーミングって大切ですね)。

するとこれが、大ヒット!

なにせ発酵食品と違って、手軽に作れる。
早いし、安いし、旨い!!

華屋はまたたく間に江戸っ子にもてはやされ、毎日長蛇の列ができるほどの繁盛ぶりとなりました。
こうなると次々に真似をする者も現れます。
おかげで、にぎり寿司屋は、瞬く間に江戸中に広がって、ついには江戸の名物になるのです。

江戸には、屋台で廉価な寿司を売る「屋台店」が市中にあふれ、料亭のような店舗を構えて寿司を握る者、あるいは持ち帰りや配達で寿司を売る者、宅配する者など、あっという間に江戸中に普及していきました。

そして箱寿司が主流であった大阪にも、江戸前寿司の店は広がり、天保年間には名古屋にも寿司店ができるようになりました。
こうして手軽な握り寿司は、あっと言う間に全国に広がったのです。

江戸前寿司が普及するにつれ、酢の需要もうなぎ上りに増大しました。
おかげで「酢」造りの中野又左衛門の造り酒屋も、またたく間に巨大なメーカーに育って行きます。

この中野又左衛門が創業した商店は、いまでも残っています。
その社名が「ミツカン」です。
そうです。あの「株式会社ミツカン」です。
ミツカンは伝統で、いまでも社長は中野又左衛門(中埜又左エ門)を名乗っています。

ちなみに、昨今関東で見かける「華屋の与兵衛」というファミレスは、これは関西資本のライフコーポレーションが設立したチェーン店で、寿司を始めた与兵衛さんとは関係はないそうです。

ちなみに、どうも戦後の歴史教科書というのは、とにもかくにも江戸時代は貧しい時代で、武家が贅沢三昧な王侯貴族のような暮らしをし、庶民は貧窮のどん底暮らしを余儀なくされていたという荒唐無稽な歴史観を無理矢理生徒たちに刷り込んでいますが、これは違います。

そもそも、武家しか米が食べられないような社会情勢だったのなら、江戸前寿司が江戸町民の間で普及するなんてことは、起こりえません。
それでも、武家に搾取されていたなどと、子供じみたデタラメを言うような教師や学者には、二度と君たちは寿司を食うな!と言いたいくらいです。

そもそも日本の歴史を、共産主義思想による階級闘争史観で図ろうとするところからして、無理があるのです。
日本の歴史は、支配するものと支配される者、収奪する者と収奪される者という二極化した階級闘争の歴史ではありません。

天皇のもと、身分という社会的な役割の違いを互いに尊重することで秩序を築いてきた歴史を持つのが日本です。
従って、日本における身分制は、
「社会の秩序を保持するための制度」であって、チャイナやコリア、あるいは西洋にあるような
「富の収奪のための制度」ではありません。

そもそも武家の屋敷というのは、実に簡素で空っぽです。
西洋の王侯貴族のように、屋敷中に高価な宝玉がそこここに飾り立ててあるなんてこともありません。
ないということは、贅沢をしていなかった、ということです。

むしろ、士農工商という江戸身分制度は、富の順番からすれば「商工農士」の順で、自らの貧窮をかえりみず、民を豊にすることこそ武家の役割とされていたのです。

だからこそ、町民は「宵越しの銭」を持たなくたって、ちゃんと生活が成り立ったし、農家においては、祭りの際に豪華な屋台や御神輿を作れるくらいのゆとりさえあったのです。
そもそも歌舞伎だって、町人文化です。

そうそう。「握り」の話が出たので、もうひとつ。
世の中で一番美味い「おにぎり」って、なんだかわかりますか?

それは、母親が幼子の遠足のためにと作る「おにぎり」だったり、あるいは新婚ホヤホヤの新妻が愛する夫のために作る、すこし形のおかしな「おにぎり」だったりするのだそうです。
これは、愛情のこもったおにぎりが、その食材そのものの味わいよりも、もっと大きな味わいと美味しさを持つからだと言われています。
すべてのものは振動によって出来ているといいますが、その振動に愛情の波動が乗る、ということなのかもしれません。

料亭の板前さんや、寿司屋の職人さんというのは、単に最高級の食材を仕入れ、包丁の使い方から調理の仕方まで、その技術を鍛え上げるというだけでは、実は、本当に美味しい味を引き出すことはできないのだそうです。
だからこそ、何十年もかけて、母の愛に勝てる味わいを出せるように修行を積むのです。

昨今では、お寿司も廻り寿司で簡単に食べれるようになりましたが、一昔前までは、寿司はお寿司屋さんで握ってもらうのが常でした。
すると、同じお店で、同じ材料を使って握っているのに、親父さんが握るお寿司と、修行中の息子さんが握る寿司では、まるで味が違う、なんてことが、よくありました。
ですから、修行は、まさに消費者に直結していたのです。
単にネタがでかいとか、新鮮だとか、米や酢が良いとかいった物理的なものだけでない何かが、そこにあるのです。

味は心がつくるもの。
だからこそ板さんは、その心を鍛えるためにきびしい修行を積んだのです。

さて、その寿司ですが、近年、寿司や海鮮丼がたいへんな人気で、おかげで外国資本の寿司屋さんが、日本にも、米国にもたくさんできるようになりました。
看板は派手なんですよね。
ところが味はとみると、もう最悪。
店内は生臭く、ネタもただ解凍しただけの、氷状態であったり、水っぽかったり。
シャリと呼ばれるご飯も、酢飯の具合がわからないらしく、ただの普通のご飯であったり。

江戸前寿司というのは、ただシャリの上に刺身が乗っていれば寿司になるわけではなくて、すべてが活きの良さによって成り立つものなのであろうかと思うのですが、キムチなどの超辛い食品ばかりを口にしていると、微妙な味覚が崩れてわからなくなってしまうのかもしれません。

都内の高級寿司バーも、値段は張るのですが、味は素人のおばちゃんたちが造るスーパーのお寿司のお弁当のほうが、はるかにマシだったりすることがあったりします。
逆に、銀座の小さな回転寿司屋さんが、実に見事な味だったり。

もともと江戸前寿司は、ご飯を醗酵させるのではなく、単に酢を混ぜることで、手軽に誰でも簡単に作れるようにした食品です。
けれど、簡単で単純なだけに、奥がものすごく深い。
そういうことがちゃんと理解できる日本人の経営者が、しっかりとした味を追求し、かつ、修行を積んだ日本人の寿司職人さんが握るお店が、お寿司はやっぱり美味しいです。

日本食は、日本の文化のひとつです。
そして日本の文化は、だれでもわかる入り口の広さが特徴ですが、奥行きがものすごく深い。
ただのパクリでは、日本の味は真似できないのです。

※この記事は2012年12月のねずブロ記事のリニューアルです。

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