一日遅れになってしまいましたが、昨日9月13日は、明治天皇の大喪の儀が行われた日であり、乃木希典陸軍大将が奥様の静子様とともに自刃された日でした。
111年前のことになります。
乃木大将のご辞世です。
神あがり あがりましぬる 大君の
みあとはるかに をろがみまつる
(お亡くなりになられて神様となられた明治天皇の御跡を、はるかに拝んでいます)
うつ志世を 神去りましゝ 大君乃
みあと志たひて 我はゆくなり
(現世を神となって去っていかれた明治天皇の御跡を慕って、私も参ります)
特に2つ目の歌は、現世(うつしよ)を「うつ志世」、慕(下)ふを「志たひて」と書いています。
これは、陛下の御跡を慕うのは我が志であり、殉死もまた我が志であるとの意思です。
このように漢字の意味と大和言葉の音を重ねることで、言葉に深みをもたせることは、万葉集以来の日本の文化です。
さて、学習院の院長であった乃木希典大将は、明治天皇の御大葬の前々日(大正元年《1912年》9月11日)願い出て参内し、まだ幼年だった昭和天皇《当時は裕仁親王殿下(ひろひとしんのうでんか)》に、大切なところに朱点をした山鹿素行(やまがそこう)の『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』の御講義をなさいました。
このとき乃木のただならぬ気迫と様子に、裕仁親王殿下は、
「院長閣下は、
どこか
遠いところへ
行かれるのですか?」
とお尋ねになられたそうです。
それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。
そして翌々日、乃木閣下は奥様の静子とともに明治天皇のお側に旅立たれました。
享年六十二歳でした。
乃木大将といえば、戦前戦中までは神社まで建てられるほどの尊敬を集めた人物であり、戦後はまったく逆に無能・愚将であるとする主張が広まった人物でもあります。
無能。愚将との主張は、朝日新聞社の依頼を受けた司馬遼太郎が、小説『坂の上の雲』で描写したもので、いまでも意外と多くの人がこの愚将論に染まっているようです。
このような戦後の「ゼロかイチか」の思考がよろしくないのです。
どんな人物にも、肯定すべきところもあれば、よろしくないところもある。
後世の我々は、そこから何を学ぶかが大事だからです。
乃木大将は長州藩の武家の出で、生まれは江戸にある藩の上屋敷(かみやしき)でした。
幼名は「無人(なきと)」と言いましたが、虚弱で泣き虫だったため近所の子らから「泣き人(と)」とあだ名されました。
そんな我が子に、ある冬の朝、無人少年がひとこと「寒い」と言ったことから、父は彼を井戸端(いどばた)に連れていき、冷水を浴びせました。
戦前の国定教科書に載っていた話です。
乃木大将がまだ七歳だったときのことでした。
その父は藩の跡目(あとめ)相続紛争に巻き込まれて閉門(へいもん)減俸(げんぽう)処分となって国に帰らされるのですが、故郷に帰って元服しても無人少年は、相変わらず泣き虫であったといいます。
それでも無人少年は、学者になることを志(こころざ)して、家を出て藩校の明倫館(めいりんかん)に入り、一生懸命に努力して剣術も目録伝授の腕前にまで上達しました。
ちなみに人生というのは全部つながっていて、幼い頃、武家の家に生まれながら、泣き虫でいじめられっ子という最悪の状態にあって、だから悔しくて一生懸命に学問や武芸に励んだ。
けれど、泣き虫でいじめられっ子ということは、それだけ心に優しさがあったということでもあります。
それが要塞戦に生かされたし、明治天皇をして孫の昭和天皇の教育係に任じるという選択にも繋がっています。
たいせつなことは、常に精一杯の努力をし続けることであろうと思います。
乃木大将は明治維新の戊辰戦争を戦い、明治新政府の陸軍教官となり、明治四年に名を「希典(まれすけ)」と改めています。
そして福岡の秋月藩の反乱、西南戦争を戦ったあと、薩摩藩医の娘であった静子と結婚しています。
その後日清戦争では、当時の旅順要塞を一日で陥落させるという武功をあげ、戦後処理で台湾が日本の領土に編入されたときに三代目の台湾総督となり、明治三十七年《一九〇四年》、日露戦争の勃発(ぼっぱつ)により、第三軍の司令官《大将》として戦地に赴任(ふにん)しています。
そして担当したのが、日露戦争の旅順要塞戦《日清戦争のときの旅順要塞戦とは異なる》です。
この戦いで乃木大将は、およそ四ヶ月半という劇的な短期間で世界最恐と歌われた旅順要塞を陥落させました。
けれどこの戦いで1万5千を越える戦死者が出ました。
このことから戦後、乃木大将は歴史上稀(まれ)に見る無能な将軍とのレッテルが張られることになったのですが、旅順要塞戦は、小説が規程(きてい)したような、生易(なまやさ)しい戦いではありません。
要塞(ようさい)は、戦略上重要な拠点を確保するために築く恒久的な軍事建造物です。
高度な耐久性と防御力を有し、まさに難攻不落に築城することから、「陣地」と区別して「要塞」と呼ばれます。もちろん「城」とも異なります。
城は行政機能を持つけれど、「要塞」はそれを持たないからです。
築かれる場所は戦略的要衝(ようしょう)でから、当然そこは激戦地となります。
「セヴァストポリ要塞」という有名な要塞があります。
ここは黒海の北側に面し、アゾフ海と分かつ戦略上の要衝地です。
この要塞は、安政元年《一八五四年》から安政三年《一八五六年》に行われた「クリミア戦争」と、昭和十六年《一九四一年》からはじまる第二次世界大戦と、二度に渡る大激戦が行われています。
まず「クリミア戦争」ですが、この戦争はヨーロッパでは、ナポレオン後に起こった第二次世界大戦に匹敵する大戦争とされています。
なにしろフランス、大英帝国、オスマン帝国、サルデーニャ王国と、とロシアが戦い、戦火は、ドナウ川周辺、クリミア半島、からカムチャツカ半島にまで及んだのです。
そしてこの戦争で最大の激戦が行われたのが「セヴァストポリ要塞戦」でした。
当時、ロシアの黒海艦隊は、セヴァストポリを根拠地としていました。
当時の戦闘艦隊は蒸気船です。海に出れば無敵の艦隊でも、港に停泊したら次に出航するまで、釜を焚(た)いてエンジンが暖まるまで、ものすごく時間がかかりました。
また当時の大砲にはジャイロスコープが付いていませんから、揺れる船からの砲撃は命中しにくい。
けれど陸上からの砲撃は正確です。
つまりロシアの黒海艦隊は、稼働中は超強力だけれど、停泊中に攻められたら、あっという間に艦隊が全滅してしまう危険があったのです。
そこでこの艦隊を守るためにロシアが築いたのが、難攻不落のセヴァストポリ要塞でした。
セヴァストポリ要塞は、要塞そのものがあらゆる砲撃に耐えうる堅牢な造(つく)りであることに加え、周囲に数千のトーチカがはりめぐらされ、万一敵がそのトーチカ群を突破して要塞に達したとしても、要塞内部にに二重の堀がめぐらされ、その掘には、上向きの槍を連ねた落とし穴まで用意されていました。
しかも要塞内部は迷路状になっていて、迷路に迷った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられるようになっていました。
つまり、セバストポリは、難攻不落の要塞だったのです。
安政元年《一八五四年》十月十七日に、英・仏・オスマン帝国の連合軍十七万五千が襲いかかりました。
ロシアの要塞守備隊は八万五千です。
背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は後背から補給を得ることができましたし、ロシアの黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返すことができました。
これに対し連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪い、徐々に要塞に迫りました。
そして戦いは、ほぼ一年にわたって続きました。
最終的に要塞が落ちたとき、
連合軍側の死者は、12万8千名、
ロシア側の死者は、10万2千です。
両軍合わせて、なんと23万人の死者が出ています。
繰り返しますが、要塞ひとつに23万人です。
青年期の男たち23万人の死というのは、百万都市ひとつの壊滅に等しい。
要塞戦というのは、それほどまでに過酷なものなのです。
二度目のセヴァストポリ要塞戦は、クリミア戦争の八十七年後の昭和十七年《一九四二年》六月、ナチス・ドイツと、ソビエト連邦との戦いとして行われました。
ソ連はセヴァストポリ要塞を、当時考えられるあらゆる方法を用いて、世界最強の要塞として防備を厚くしていました。
そこにナチス・ドイツのクリミア半島の制圧を任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる第十一軍がやってきました。
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥という人は、第二次世界大戦における世界の陸将の中で、最も有能な将帥の一人として知られている人です。
彼は西方電撃戦の立案者でもあり、クリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させている人物です。
また総統のヒットラーに対してもはっきりと意見を開陳する数少ない将軍であり、その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく、常に毅然とした顔で表紙を飾り「我らの最も恐るべき敵」と評された、そういう人物です。
その世界の陸将のなかでもとびきり優秀とされるマンシュタイン元帥が、ナチス・ドイツの超精鋭である第十一軍を率いて、セヴァストポリ要塞を囲んだのです。
囲を受けたソ連軍は、セヴァストポリの防衛のため、黒海艦隊から海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させる。
ソ連上陸部隊は、クリミア半島東端のケルチにいたドイツ歩兵師団を包囲し、これに対して猛攻撃を加える。
放置しておいたらケルチ歩兵師団は全滅し、セヴァストポリ包囲隊は、退路を断たれてしまうからと、マンシュタイン元帥は、セヴァストポリの包囲を解いて反撃に出る《トラッペンヤクト作戦》。
ソ連軍は両側を海に挟まれた細長い地形を利用し、何重もの防衛線をひいて、これを阻止する。
八か月もの長きにわたって続いたこの戦いで、ソ連は17万の兵士を失いましたが、それでもここまでは通常の陸戦であり、セヴァストポリ要塞戦の前哨戦でしかなかったのです。
昭和十七年《一九四七年》六月七日、ドイツ軍は再びセヴァストポリを包囲します。
これを待ち構えたソ連軍は、要塞の守備のために多数の巨大砲塔を要塞北面の据え付けて待ち構えていました。
この砲塔は戦艦の主砲を陸上に設置したもので、地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられており、しかも周囲にはトーチカ群が設けられており、いっさいの敵を寄せ付けないつくりとなっていました。
砲弾の威力は、要するに艦砲射撃そのもので、人間の背より高い巨大な炸裂弾(さくれつだん)が、ドイツ軍に雨のように降り注ぎました。
しかも海上からの砲撃と異なり、固定した陸上からの砲撃は、狙いが正確です。
離れて包囲すれば巨大砲弾にやられ、近づいて爆破しようとすれば、群がるトーチカ群からの機銃攻撃によって射殺される。
マンシュタイン元帥は、近隣から新旧・大小問わず千三百門もの大砲をかき集めて猛砲撃を加えます。
さらにドイツ本国から八十cmの「列車砲(れっしゃほう)グスタフ」を持ち込む。
グスタフは鉄道のレールの上に設置する直径80センチ、口径40センチの巨大砲で、最大射程47キロです。列車砲ですから旋回できないという問題はあるけれど、マンシュタインは鉄道のレールそのものをゆるやかにカーブさせることで、射角を確保しています。
戦艦から取り外した主砲を陸上に備え付けた「巨大砲」対「グスタフ列車砲」の戦い。
巨大砲弾が飛び交う砲撃船で、砲塔の移動が可能なドイツ列車砲が、次第に威力を発揮します。
マンシュタイン元帥は、グスタフ砲で開けた突破口から、短射程の砲を突入させてトーチカを破壊、そこに歩兵を突入させるという方法で、しらみつぶしにひとつひとつの敵陣地を撃破します。
さらにロケット砲によるトーチカ攻撃、さらには急降下爆撃機による空襲も加え、周辺のソ連巨大砲塔軍に戦いを挑みます。
この攻撃はまる5日間も続き、これによってマンシュタインの第11軍は、セヴァストポリ要塞北面のソ連軍陣地を全て破壊します。
そしていよいよセヴァストポリ要塞に迫る。
戦うこと二週間、セヴァストポリ要塞は陥落しました。
この戦いに、ナチス・ドイツが投入した兵力は35万人以上です。
そして戦死者は、この戦いだけで10万人以上です。
35万人を投入して、兵の3分の1が死亡したのです。
要塞戦というものは、それほどまでに過酷なものなのです。
もうひとつ、忘れてはならない要塞戦をご紹介します。
フランスの「ベルダンの戦い」です。
この戦いは、第一次世界大戦の最中の大正五年《一九一六年》二月二十一日に始まり、両軍合わせて70万人以上の死者を出した戦いです。
戦ったのはナチスになる以前のドイツ帝国軍とフランス軍です。
ドイツ帝国軍は重砲八百八門、野砲三百門でベルダン要塞に猛烈な砲撃を加えました。
午前七時から始まったこの砲撃は、午後四時まで、まる十時間も続けられました。
それが一箇所の要塞に向けて行われたのです。
そして正面から歩兵が突撃しました。
通常、歩兵部隊の突撃は、敵前百メートルの位地から行います。
ところが、このときのドイツ帝国軍は、これを五百メートルの位地から行いました。
さらに横方向からも蚕食的な攻撃を行う。
これにより、翌日にはドイツ軍はフランス軍第一陣地の三拠点を奪い、翌日には隣接する両翼の二拠点を奪い、四日目には第二陣地を突破し隣接する数拠点を占領しました。
そして第三陣地の一部であるドォーモン堡塁(ほるい)を占領する。
初戦の敗退に危機感を抱いたフランス軍は、二十二日、第二線師団を招いて逐次(ちくじ)第一線師団と交代(こうたい)させ、新鋭部隊でドイツ軍に対抗します。
さらにベテランのペタン将軍を招いて戦意を向上させ、徹底抗戦を図ります。
両軍はミューズ川をはさんで激しい争奪戦を行いました。
六月七日、ついにドイツ帝国軍がヴォー堡塁を占領するけれど、増援にやってきた英国軍がドイツ軍の背後をうかがうようになる。
八月にはいると、フランス軍が反転攻勢に出て、十月二十四日と十二月十五日の総攻撃で、フランスは、ドォーモン堡塁とヴォー堡塁などの失地を回復します。
このベルダンの戦いにおける死者は、
フランス軍36万2千人、
ドイツ軍 36万6千人
合わせて69万8千人です。
近代戦における要塞戦というものは、かくもすさまじい戦いなのです。
そして、ソ連のスターリンが、ご紹介した「セヴァストポリ要塞を六つ合わせたほどの堅牢な要塞」と評したのが、旅順要塞だったのです。
乃木大将はそんな旅順要塞を、わずか5万の兵力、1万5千の損耗で制圧したのです。
これは世界の陸戦史上、ありえない戦闘だったのです。
日本国内の戦後の小説がどうあれ、世界の陸戦史では、乃木大将は、間違いなく世界の陸戦史に残る名将なのです。
乃木大将の功績は、ただ戦いの勝利にとどまりません。
旅順要塞の降伏調印式に際して、破れた側のロシア側の将軍ステッセルに帯剣(たいけん)を許して、将軍の名誉の保持を図りました。
さらに一万五千の死者を追悼するために、全国の神社に「忠魂碑 希典」と書いた石碑を寄贈し、さらに石碑の後ろ側にはその地元で日露戦争で戦没した兵士たちの名を、全員刻(きざ)まれました。
さらに乃木大将は、自費で戦傷によって腕を失った兵のためにと、たいへんな義手をこしらえられています。
実は乃木大将ご自身が戦傷者でした。
左目は事情あって幼い頃に失っていましたが、激しい戦闘で片腕、片足に銃創を負い、不自由な体となっていました。
その乃木将軍は日露戦争のあと、
「私は片手、片足が残っているからまだ良い。
食事もできるし、タバコも吸える。
けれど戦争で両手を失った者は、
一服の清涼剤としてのタバコも吸えぬのは、
あまりに可愛そうだ」
と、ご自分の年金を担保に入れてお金をつくり、ご自身で試行錯誤の上、ついに、モノを掴んだり、持ち上げたり、食事やタバコまで吸うことができ、字や絵も描ける、そんな、まさに夢のような義手を完成させて、腕を失った元部下たちに無償で配っています。
このようなことを申し上げると、現代の最先端の医学でさえ困難なのに、そのような大昔に、そんなすごい義手などできるわけがない、とみなさんは思われると思います。
筆者も最初に話を聞いたときは、そう思いました。
ところがそのレプリカが、東京九段下の「しょうけい館」にあるという。
そして「本当かウソか、ご自分で実際にやって試して御覧なさい」というので、その「乃木式義手」を実際に装着させていただきました。
するとどうでしょう。
豆はつまめる。
モノは持てる。
そしてなんと、字や絵まで、付けた直後から書けてしまうのです。
これには驚きました。
現代の最先端の義手は、筋電義手(きんでんぎしゅ)といって、コンピューター制御によって、卵をつかんだり、握手をするまでは可能です。
けれど、文字を書いたり「タバコを吸ったり」といった、微細な動きは、まだできていないのです。
それを何と、百年以上もの昔に、しかも私費で作って配布していたのです。
原理は非常に簡単で、竹製のヘビのおもちゃの要領で左右には曲がるけど、上下には曲がらないという仕様を、上腕を動かすことで実現し、字を書いたり、豆を掴(つか)んだりすることができるようにしています。
これを機能式義手と言います。
そして機能式の義手や義足は、いまではパラリンピックの選手たちが用いています。
それらの義手義足は、見た目は健常者の姿と違いますが、健常者以上のパワーを発揮することができるような仕様になっています。
開発した乃木大将は、特段その道の専門家ではありません。
では、どうして乃木大将にそのようなことができたのかといえば、戦いで傷ついた部下たちに「タバコの一服が吸えるようにしてあげたい」という、あたたかな愛情があるがゆえのことです。
幼い頃、泣き虫のイジメられっ子だったがゆえに、乃木大将は逆に大人になったとき、弱い者、傷ついた者の気持ちがわかる大将軍となったのです。
※この記事は2009年からねずブロに毎年掲載している記事です。