人は誰でも、誰かに助けられて生きています。そして、自分もまた、知らないうちに誰かを支えています。助ける側と助けられる側は、決して固定されたものではありません。今日受け取った親切が、明日は別の誰かへのやさしさになる。そうして支えが「まわりてめぐる」ことで、人と人は結ばれ、社会は世代を超えて続いていきます。
恩返しから恩送りへ。結びから循環へ。小さな親切から文明へ。そして文明から、また小さな親切へ。
今回は、日本古来の支え合いの文化と、未来へつながる「結び」の意味を考えます。

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助ける人と助けられる人。その役割は、いつか入れ替わる。支え合いとは、支えがめぐっていくこと。
1 人は誰でも助けられて生きている
あるスーパーで、高齢の女性が、棚の高いところにある商品を取ろうとして、困っていました。
そこに若い男性が通りかかり、「取りましょうか」と声をかけて、商品を取ってあげました。
女性は「ありがとう」と笑顔になりました。
男性が「どういたしまして」と笑顔になって、その場を離れました。
たまに見かけそうな、ほんの数秒の出来事です。
この場面だけを見れば、男性が「助ける人」で、女性が「助けられる人」です。
ところが、数日後。
今度はその男性が、仕事で失敗をして落ち込んでいた。
そんなとき、職場の年配の女性が、「そんなこともあるわよ。大丈夫よ」と声をかけてくれた。
そのひと言で、男性は少し元気を取り戻した。
今度は男性が「助けられる人」になっています。
そして、その年配の女性も、別の日には、誰かに助けられることがあるでしょう。
私たちはよく、人を「助ける側」と「助けられる側」に分けて考えます。
けれど、人の暮らしというのは、そもそも、そのような一方通行で成り立っているものではありません。
助ける人と助けられる人。
その役割は、日々の暮らしの中で、絶えず入れ替わっています。
考えてみれば、私たちは、生まれたときから誰かに助けられてきました。
赤ん坊の頃は、食事や着替えはおろか、オムツだって親や周囲の大人たちに助けてもらって育ちます。
やがて成長すると、自分でできることが増えていきますが、すると今度は、弟や妹の世話をしたり、友達を助けたり、親の仕事を手伝ったり。
大人になれば、仕事を通じて誰かの役に立つこともあるでしょう。
しかし、だからといって、もう誰の助けも必要なくなったわけではありません。
毎朝食べるご飯ひとつをとっても、お米を育てる人、運ぶ人、売る人がいる。
水道の蛇口をひねれば水が出るのも、電気のスイッチを入れれば明かりがつくのも、その仕組みを支え、守ってくれている人たちがいるからです。
私たちは、自分一人の力で生きているつもりでも、実際には数え切れないほど多くの人々に支えられています。
そして、自分自身もまた、誰かの暮らしを支える一人になっています。
つまり、人の社会は、もともと巨大な支え合いの仕組みです。
2 まわりてめぐる
カタカムナのウタヒの第5首に、こんな歌があります。
ひふみよい まわりてめぐる むなやこと
あうのすへしれ かたちさき
「ひふみよい」は、12345です。
それが「回りてめぐり」ます。そして
「むなやこと」は、6789 10です。
「あうのすべしれ」は、合うことのすべては。
「かたちさき」は、目に見える「形」として咲くのだと知りなさい。
ご専門に研究されている方には叱られそうですが、この歌をおもいきり単純化して要約すると、
「数字がはじまりから徐々に大きな数字になっていくように、
すべてのことは『まわりてめぐり』ながら、
目に見えないものが、見える形になっていくのだ」
といった意味になります。
目に見えていてもいなくても、すべては「まわりてめぐる」。
そのめぐりを、善意と良縁によるものにしていくのか、
悪意と憎悪に満ちたものにしていくのかもまた、御縁次第なのかもしれません。
ただ、どういう御縁を結んでいくのかは、自分で選ぶことができます。
3 恩返しと、恩送り
日本には、古くから「恩返し」という言葉があります。
助けてもらったら、その人に恩を返す。
それは立派なことです。
けれど、恩は、必ずしも直接お返しできるものばかりではありません。
たとえば、幼いころ、見知らぬ人に助けてもらった経験があったとしましょう。
その人の名前も、住所もわかりません。
もう二度と会うこともない。
では、その恩は返せないのでしょうか。
そこにあるのが、昔から言う「恩送り」です。
助けてもらった人に直接返すことができなくても、別の誰かを助けることはできます。
昔、困っていた自分を助けてくれた人がいた。
だから、今度は、困っている誰かに手を差し伸べる。
そうすると、その人がまた別の誰かを助けるかもしれません。
助けが、最初の二人の間だけで完結したら、それでオシマイです。
そうではなく、次の人へ、さらに次の人へと、送っていく。
これもまた、ひとつの「まわりてめぐる」です。
4 支え合いは、貸し借りではない
残念なことに、現代ではときに「支え合い」が、「貸し借り」であるかのように誤解されています。
「これだけ貸したのだから、利息を付けて返せ」というわけです。
助けてあげたのだから、その恩を返せ!
世話をしてあげたのだから、感謝しなさい!
あるいは、他人の善意を当然のように求める。
こうして、社会のあちこちで、恨みや不満が渦巻く。
あげくのはてが、どこぞの大学の高名な教授が、「日本の文化は恨みの文化である」などと広言してはばからない。
たいへん残念なことに思います。
誰だって、病気になることもあれば、怪我をすることもあります。
齢を重ねれば、若いころには簡単にできたことが、難しくなることだってある。
逆に、歳を重ねたからこそ、若い人にはできない助け方ができる場合だってあります。
力仕事を助けてもらう。
悩みを年長者の経験で助けてもらう。
ある人は知識で誰かを助け、別の人は笑顔で誰かを元気づける。
そこに、どちらが上で、どちらが下という関係はありません。
大切なことは、誰もが助ける側にも、助けられる側にもなれるということです。
そして、助けてもらうことは、人としての価値が下がることではない。
助けられるからこそ、助けることもできる。
だから「助け合い」なのです。
5 結びとは、違うものが互いを生かすこと
結びは、ただ人と人とが仲良くすることをいうのではないし、
同じ考え方の人が集まることでもありません。
それぞれに違う力を持ち、違う経験を重ねてきた人たちが、その違いを生かしながら、互いを支え合う。
それが結びです。
一人では持ち上げられない、重たい荷物。
二人で力を合わせれば、持ち上げられるかもしれません。
それだけではありません。
荷物を持つ人がいて、道を案内する人がいる。
行き先を考える人がいて、皆が疲れていないか気を配る人がいる。
それぞれの役割が違うからこそ、一人ではできなかったことが実現していきます。
ここで大切なことが、役割が固定されていないことです。
昨日、道を案内した人が、今日は荷物を持つかもしれません。
昨日、荷物を持った人が、今日は疲れて休むこともあるでしょう。
そのときには、別の誰かが荷物を持てばよいのです。
助ける側と助けられる側が固定されてしまうと、そこには、ともすれば上下関係が生まれます。
けれど、役割がめぐっていく関係では、人はそれぞれ、自分にできることを持ち寄ることができます。
これが、結びの持つ豊かさです。
こうした「違う力を持つ人々が、互いの違いを生かしながら、ひとつの目的に向かって協働する」という発想は、現代の経営手法にも見られます。
そのひとつが、日本のトヨタ自動車から生まれ、近年欧米でも注目されている「Obeya(大部屋方式)」です。
西洋の家屋では、ここはキッチンであるとか、リビングであるとか、寝室であるとか、部屋ごとに役割が別れて固定されています。
企業内でも同じで、Aの業務を行う人は、Aだけこなしていれば良いとする。
けれど日本には、もともと大部屋文化というものがあって、ひとつの大きな部屋が、リビングにもキッチンにも居間にも応接間にも会議室にもなる。
人の持つ可能性も同じです。
それぞれの専門性や役割を大切にしながら、その壁を越えて協力し、一人ではできないことを実現していく。
これが「Obeya(大部屋方式)」の基本的な発想です。
もっとも逆にその日本では、戦後の住宅建築が洋風化して、この伝統的な住空間の柔軟な使い方は、以前ほど見られなくなりました。
でももともとは、大きな部屋を、屏風ひとつで区切って使っていたのが日本の文化です。
その屏風で仕切られた間のことを、昔は「町」と呼びました。
室内の小さな間なら、それが「小町」です。
小野小町の「小町」も、宮中の局町に由来するという説があります。
もちろん小野小町の出自や名前の由来には諸説があり、確定しているわけではありませんが。
6 めぐるからこそ、社会は続いていく
ここから、もう一歩考えてみましょう。
人間社会が長く続いていくためには、助け合いが一度きりで終わらないことが大切です。
ある人が、誰かを助ける。
助けられた人が元気になる。
元気になった人が、別の誰かを助ける。
その人がまた、次の誰かを支えていく。
こうして支えが「まわりてめぐる」ことで、最初の人がいなくなったあとも、助け合いの関係は続いていきます。
これが「継承」の文化です。
社会を支えているのは、個々の善意だけではありません。
その善意が、人と人との「あいだ」を通じて、次の人へと受け継がれていく。
その営みが、社会を支えているのです。
ここに、Relation(関係性)からCirculation(循環)へとつながる構造があります。
人と人が出会い、関係が生まれる。
その関係の中で、助け合いが生まれる。
そして、その助け合いが、別の関係へと受け継がれていく。
このような循環があるからこそ、社会は、世代を超えて続いていくことができます。
日本の古典でいえば、聖徳太子の十七条憲法、第十条の「如鐶无端(たまきのごとく、はしはなし)」という言葉も思い起こされます。
この言葉は、もともと他者の是非と自分の是非とを、単純に決めつけることへの戒めとして説かれたものですが、
この比喩には、人と人との関係を考えるうえでの大切な示唆があります。
誰かが一方的に与え続け、誰かが一方的に受け取り続けるのではない。
与えることと受け取ることが、さまざまな人々の「あいだ」をめぐっていく。
その循環(Circulation)の中に、一人ひとりの暮らしがあるということです。
7 今日、できる小さな結び
では、私たちは、今日から何をすればよいのでしょうか。
何か特別なことをする必要なんてないと思います。
困っている人を見かけたら、できる範囲で手を貸してみる。
誰かに助けてもらったら、素直に「ありがとう」と伝える。
そして、自分が困ったときには、無理をして何もかも一人で抱え込まず、誰かの力を借りてみる。
それだけで、人と人との「あいだ」は少しずつ変わっていきます。
助けることばかりが立派なのではありません。
助けてもらうことも、立派な支え合いです。
なぜなら、今日誰かに助けられたことで、明日は別の誰かを助けることができるかもしれない。
自分が助けた相手から、直接お返しなんて求めなくてよいのです。
その人が、いつか別の誰かを助けてくれたなら、そちらの方が、何十倍、何百倍にも広がる素晴らしいことになります。
人は、一人では生きていけません。
だからこそ、人と人が結ばれます。
そして、その結びが、次の結びを生み出していきます。
助ける人と助けられる人。その役割は、いつか入れ替わります。
だから、支え合いとは、支えがめぐること。
昨日受け取ったやさしさを、今日、別の誰かに渡してみる。
そこからまた、新しい結びが生まれていくのだと思います。
小さな親切から文明へ。そして文明から、また小さな親切へ。
それ自体が「まわりてめぐる」なのかもしれません。
今日も、誰かの笑顔につながる一日でありますように。
——今日も良い一日を♪
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