私たちは今、あらゆるものを「数字」で測る時代を生きています。GDP、生産性、効率、フォロワー数――。けれど、本当にそれだけで、人の価値や社会の豊かさは測れるのでしょうか。世界が効率と競争を極限まで押し進める中で、日本は「失われた30年」を経ながらも、不思議と社会が壊れきらずに踏みとどまってきました。その背景には、日本が長い歴史の中で育んできた「人を人として扱う」という、きわめて静かで、しかし揺るぎない思想があります。本稿では、「おほみたから」という日本独自の人間観と、現代の数字至上主義社会との対比を通して、私たちがいま、あらためて見つめ直すべき日本の原点を考えてみたいと思います。

序 効率という名の静かな浸食

私たちは今、あらゆるものが「数字」に置き換えられる時代を生きています。
GDPの成長率、企業の営業利益、SNSのフォロワー数、個人の生産性――。

本来、人の営みとは、もっと手触りのある生活や物語の積み重ねであったはずです。
ところが現代のグローバル経済は、それらを冷徹な「機能」や「資源」へと還元していきました。

世界を牛耳るグローバリストも、オレオレ詐欺の実行犯も、発想の根は同じです。
「自分が儲かるなら、何をしてもいい」。
人を人として見る視点が失われたところに、この思想は生まれます。

一方で、日本を訪れる多くの欧米人は、日本を「進んだ国」としてではなく、
「人々がやさしく、穏やかに暮らしている国」
「精神的に豊かな国」
として見ていると言います。

失われた30年を経て、
 経済的に確かに貧しくなったはずの日本が、
 なぜ諸外国人から「豊かな国」と映るのか。
このギャップの中にこそ、日本が長い歴史の中で守ってきた価値が隠れているように思うのです。

1「おほみたから」の思想――支配ではなく、宝としての民

世界史の多くは、「支配者と被支配者」の構図で描かれてきました。
強者が弱者を征服し、領土を広げ、敗者を労働力という「機能」として消費する。
そこにあるのは、強固なヒエラルキーと、冷酷な合理性です。

しかし、日本の歴史をたどると、そこにはまったく異なる思想が流れています。
歴代の天皇が民を「おほみたから(大御宝)」と呼んできたという事実です。

日本では、民は、支配の対象でも、国家運営のための資源でもなく、
国そのものを形づくる、かけがえのない「宝」として捉えられてきたのです。

この思想は、武士の時代にも受け継がれました。
武士が戦場で命を落とした際、その死は「個人の犠牲」で終わることなく、
残された家族、すなわち「家」に対して、きちんと報酬や保障が与えられたのです。

これは、社会全体で命を引き受けるという、明確な覚悟の表れでした。

ここで重要なことがあります。
女性の位置づけです。

女性は諸外国のような「子を産むための存在」でも、「労働力」でもない。
家の財産と未来を預かり、夫の死後も家を維持する責任主体とされてきたのです。

人を数字や機能として扱うのではなく、
家という物語の中で、役割と尊厳を与える。
これこそが、日本が守り続けてきた人間観の核心です。

2 「失われた30年」の再解釈――踏みとどまった日本人の精神

日本はこの30年、経済成長が止まり、「停滞国家」と呼ばれてきました。
効率と競争を絶対視するグローバル・スタンダードから見れば、これは敗者です。
そして敗者からは、取れるだけ取る。
それが、弱肉強食を前提とした世界の標準(グローバル・スタンダード)でもあります。

ところが気がつくと、日本はこの30年、
 日本が日本であり続けるために、
 ぎりぎりのところで踏みとどまって
きたのです。

世界が過剰な競争に走り、格差を拡大させ、分断を深める中で、
日本社会は貧しくなりながらも、「お互い様」という感覚を失わず、より一層、お客様との関係性を深めたり、顧客の満足を追求したり、他社と決定的に差別化できる技術を磨いてきたのです。

さらに、道端にゴミが落ちなくなりました。
30年前のバブルの頃なら、早朝、夜が明けた頃の東京新宿歌舞伎町は、街中ゴミだらけでした。
でも、いまはきれいなものです。
災害時にも、整然と並んで、助け合いました。
他者の痛みに、言葉なく気づこうとすることがあたりまえになりました。

これらは、数字には表れません。
しかし、人を「機能」としてしか見ない社会では、育まれ得ない、不思議な価値でもあります。

現状における経済的な停滞や、現内閣以前までの日本の政治の残念さ加減は、目を覆うばかりです。
けれど、その一方で、我が国はたしかに、
「やさしさ」や「引き受け合う感覚」を取り戻し続けてきていたのです。

3 いま、私たちに問われていること

私たちは、排他的なナショナリズムを求めているのではありません。
先人たちが築いてきた
「人を数字や記号として扱わず、
 命と責任を引き受ける仕組み」を、
現代の中でどう更新していくか、という創造的な問いを求めています。

先日来アップさせていただいた夫婦別姓の議論も、一見すれば個人の権利の問題です。
しかしその背後には、
「家」という単位が担ってきた歴史の連続性と、
社会全体で責任を分かち合うという思想を、
どう評価するのかという問題があるのです。

名字が、単なる識別番号に過ぎないのであれば、
別姓であろうと、番号であろうと、違いはありません。

しかし名字が、
先祖から子孫へと続く「命のバトン」なら、
社会がその家族を、「責任主体として認める証」なら、
その扱いは慎重でなければなりません。
合理性の名の下に、形のない「大切なもの」を切り売りしてはならないからです。

結び 誇りある原点回帰へ

私たちは、「人を人として扱う」社会を取り戻す必要があります。
経済成長を否定しているのではありません。

経済成長の数字が目的ではなく、
あくまでそこに生きる「おほみたから」である一人ひとりが、
誇りと安心をもって暮らせるようにしていくことが、目的です。
数字は、単にそのための指標のひとつにすぎません。

日本には、「和」と「責任」の文化があります。
孤立した個人が砂のように散らばる社会ではなく、
家や地域の中で、互いの人生を引き受け合う社会を築いた歴史があります。

効率は悪いかもしれません。
しかしそこには、数字では測れない「生きる意味」があります。

夫婦別姓の議論もそうですが、
どうも、何事につけ、賛成か反対かという、1次元の左右からの「綱引き合戦」ばかりが目立つように思います。
たとえば、「儲かるか、儲からないか」なら綱引きですが、
そこに、「豊かさとはなにか」のような軸がもう一本加わったら、左右の対立が、二次元上のマトリックスとなって視野が広がります。

私たちがどのような日本を次の世代に手渡したいのか、
その根っこを語り合うことこそが、いま必要だと思います。

日本が日本であるために。
人を数字にしないために。
私たちはいま、この国の足元に眠る精神の土壌を、
もう一度、掘り起こす時を迎えています。

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