私たちは、正しいか間違っているか、賛成か反対かという対立に、つい夢中になります。けれど、その対立の土俵そのものは、誰が、何のためにつくったのでしょうか。60年前の小学校の授業、運動会の玉入れ、テレビドラマ、政治や戦争、そして孫悟空の物語。身近な出来事から観測点を広げていくと、善悪の対立の向こう側に、思いがけない景色が見えてきます。一次元で善悪を見て、二次元で関係性を見て、三次元で構造を見て、四次元で歴史を見る。対立の勝ち負けを超えて、共に未来をつくるための「出口」を考えます。

今日のひとこと・正義の戦いに夢中になるほど、その戦いを仕掛けた者の姿が見えなくなる。

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正義の戦いに夢中になるほど、その戦いを仕掛けた者の姿が見えなくなる。

私たちは、正しいことを大切にします。
間違っていることがあれば、それを正そうとするし、理不尽なことには怒りを感じます。
誰かが傷つけられていれば、その人を守ろうとします。
それは、人として大切なことです。

正義と正義がぶつかり合う場面も、世の中にはたくさんあります。
右と左、保守とリベラル、賛成派と反対派、国と国との争い。
それぞれが、自分たちの正しさを主張し、相手を間違っていると批判します。
そして、その戦いが激しくなればなるほど、人々は夢中になっていきます。

けれど、ここで少しだけ、観測点を変えてみたいと思います。
そもそも、その戦いの土俵は、誰がつくったのでしょうか。

今日は、そんなお話です。

第一章 60年前の教室で起きた大激論

もう60年ほど昔のことになります。
私が小学生だった頃、ある日の授業で、担任の先生がこんなテーマを出しました。

「幸せは、お金で買えますか?
 サァ、みんなで考えてみよう!」
そして、教室を賛成派と反対派に分けて、自由に意見を述べ合うことになりました。
いまでいうディベートです。

「お金があれば、好きなものが買えるじゃないか!」
「でも、お金があっても、友達がいなければ幸せじゃないわ!」
「病気になったら、お金がないと病院に行けないぞ!」
「だけど、お金があっても、病気が治らないことだってあるわ!」
こんな調子で、教室は大盛り上がりになりました。
普段はおとなしくて、あまり発言しない子供まで、顔を真っ赤にして大真面目に意見を述べていました。

私も含めて、みんな本気で戦いました。
賛成派は、なんとか反対派を論破しようとする。
反対派は、負けじと反論する。
教室は、ものすごく盛り上がりました。

ところが、ふと先生の顔を見ると、ニンマリしている。
そりゃあ、そうです。
先生にしてみれば、普段は発言の少ない子供たちまで、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べているのです。
まさに「してやったり!」だったのでしょう(笑)。

ここで、おもしろいことがあります。
子供たちは、「幸せはお金で買えるか」という問題について、賛成か反対かを必死で争っていました。
けれど、先生にとっては、賛成派が勝とうが、反対派が勝とうが、どちらでもよかった。
先生にとって大切なことは、教室の子供たちが、自分の頭で考え、発言し、議論することでした。

つまり、
子供たちは勝つために議論していたけれど、
先生は議論させるために対立をつくっていた
のです。

この違い、おもしろいと思いませんか。

第二章 運動会の玉入れは、誰が勝ってもよい

運動会の玉入れも、似たようなものです。
赤組と白組に分かれて、子供たちが一生懸命に玉を投げます。
「赤、頑張れ!」
「白、勝て〜!」
保護者も声を張り上げて応援します。

子供たちは真剣です。
赤組は、絶対に赤が勝つべきだと思っています。
白組は、絶対に白が勝つべきだと思っています。

ところが、運動会を企画した学校の先生方にしてみれば、どうでしょうか。

もちろん、子供たちが一生懸命に頑張ることは嬉しいことです。
けれど、学校側にとって大切なのは、赤が勝つことでも、白が勝つことでもありません。
子供たちが力いっぱい競技に取り組み、みんなで応援し、楽しい思い出をつくること。
そして、怪我人もなく、無事に運動会を終えることです。

つまり、ここでも、
戦っている当事者たちの目的と、その戦いを企画した人たちの目的は、違っているのです。

しかも、運動会では、赤と白の対立は最初から仕掛けられています。
子供たちは、自分たちで赤組と白組に分かれたわけではありません。
学校が、そういう仕組みをつくったのです。
そして、子供たちは、その仕組みの中で夢中になって戦っています。

もちろん、これは悪いことではありません。
むしろ、子供たちにとっては、とてもよい経験です。

ここで大切なことは、対立が仕掛けられていること自体が、必ずしも悪いわけではないということです。
むしろ問題は、その対立が、何のためにつくられているのかということにあります。

第三章 善玉と悪玉が戦うテレビドラマ

テレビドラマも同じです。
たとえば、時代劇。
善良な町人たちを苦しめる悪代官が登場します。
そこに正義の味方が現れて、悪代官を懲らしめる。
「助さんや、格さんや、懲らしめてやりなさい!」
「え〜い、静まれ、静まれーい。この紋所が目に入らぬか!」
となれば、視聴者は大喜びです(笑)。

悪代官が悪ければ悪いほど、最後に懲らしめられたときの爽快感は大きくなります。
つまり、ドラマでは、善玉と悪玉の対立が、視聴者を夢中にさせる大切な仕掛けになっているのです。

では、テレビ局や番組の制作者にとって、大切なことは何でしょうか。
もちろん、作品の質や、視聴者に伝えたいメッセージもあるでしょう。
けれど、番組が多くの人に見られ、人気を集めることも、重要な目的です。

善玉が勝つか、悪玉が勝つか、視聴者は、その行方に一喜一憂しますけれど、
番組をつくっている側にしてみれば、その一喜一憂そのものを、作品の魅力として設計しているわけです。

ここでも、観測点を変えると、まったく違う景色が見えてきます。

そして、この構造は、テレビドラマだけの話ではありません。

第四章 政治の論争は、誰のためにあるのか

国会の審議を見ていると、賛成派と反対派が激しく議論している場面があります。
与党と野党、保守とリベラル、右と左。
それぞれが、自分たちの正しさを主張します。

ときには、相手の発言の矛盾を追及し、失言を取り上げ、責任を問います。
その様子がニュースになり、テレビで繰り返し放送されます。
SNSでも、賛成派と反対派が激しく言い争います。

けれど、ここで考えてみたいことがあります。

その議論によって、私たちの暮らしは、どれだけよくなったのでしょうか。

もちろん、国会での議論には大切な役割があります。
政府の政策を検証すること、権力の行使を監視すること、異なる意見を国政に反映させること。
こうした働きは、民主主義に欠かせないこととされます。

けれど、本来の目的が国民の暮らしをよくすることにあるのなら、議論の勝ち負けだけで満足してよいはずはありません。
相手を論破した。
失言を引き出した。
支持者から拍手喝采を浴びた。
それで、国民の暮らしがよくなるのでしょうか。
国会でどれほど激しい論戦が行われても、それが具体的な政策や制度の改善につながらなければ、国民にとっての成果は限られます。

ところが、政治的な対立が激しくなればなるほど、注目を集める人々もいます。
対立を報じることで視聴率や閲覧数を得るメディア。
対立を強調することで支持者を結集する政治家。
怒りや不安を刺激することで、多くの人の関心を集める発信者。
もちろん、すべての政治家やメディアが、そうした意図で行動しているわけではありません。

しかし、対立が利益を生む仕組みがあることは、見落としてはならないと思います。

そして対立が続くことによって利益を得る人々がいるなら、その人々にとっては、対立が解消されることが、必ずしも望ましいとは限らない。

ここで、もう一つの問いが生まれます。

私たちは、本当に自分たちの未来のために議論しているのでしょうか。
それとも、誰かが用意した対立の土俵の上で、夢中になって戦っているだけなのでしょうか。

第五章 戦争という究極の正義の対立

この問題を、さらに大きく考えてみます。
戦争です。
戦争では、祖国を守るため、家族を守るため、自由を守るため、平和を守るためなど、双方が自分たちの正義を掲げることがあります。
兵士たちは、そうした大義を信じて戦場に向かいます。

もちろん、戦争には侵略と自衛の違いがあり、国際法上の責任もあります。
双方が正義を主張しているからといって、双方の行為が同じように正しいということにはなりません。

けれど、ここでも観測点を変えてみたいのです。

戦場で命を懸けて戦っている人々と、その戦争によって経済的な利益を得る人々とでは、見ている景色が違うのではないでしょうか。
戦争が起これば、大量の武器や弾薬が必要になります。
軍需産業には、大きな需要が生まれます。
もちろん、兵器を製造する企業が、すべて戦争を望んでいるわけではありません。
また、戦争の原因を、武器を売る人々だけに求めることもできません。
国家間の安全保障、領土、資源、歴史的な対立など、戦争には複雑な背景があります。
それでも、戦争によって利益を得る人々が存在するという構造は、考えておく必要があります。

戦場で戦う人々は、自分たちの正義のために命を懸けています。
けれど、その戦いが長引くことで、利益を得る人々もいる。

ここに、恐ろしい構造があります。
戦っている人々が、どれほど本気であっても、その戦いが、別の誰かの利益につながっていることがあるのです。

だからこそ、戦争を考えるときには、どちらが正しいかという問いだけでは足りません。
その戦争は、なぜ始まったのか。
誰が、どのような判断をしたのか。
戦争が続くことで、誰が利益を得ているのか。
そして、何より、その戦争を終わらせ、人々が安心して暮らせる未来をつくるためには、何が必要なのか。

そこまで考える必要があるのではないかと思うのです。

第六章 孫悟空は、お釈迦様の手のひらの上にいた

ここで、『西遊記』のお話を思い出します。
孫悟空は、自分の力に絶対の自信を持っていました。

あるとき、お釈迦様から、手のひらの外まで飛んでみよと言われます。
孫悟空は、觔斗雲(きんとうん)に乗って、ひとっ飛び。
何万里も飛び続け、とうとう世界の果てと思われる場所にたどり着きます。
そこには、五本の柱が立っていました。
孫悟空は、自分がここまで来た証拠を残して、得意満面で戻ってきます。
ところが、お釈迦様は笑って、自分の手を見せました。
なんと、孫悟空が世界の果てだと思っていた五本の柱は、お釈迦様の五本の指だったのです。

孫悟空は、世界の果てまで飛んだつもりでいました。
けれど、実際には、最初から最後まで、お釈迦様の手のひらの上にいたのです。

このお話、現代社会にも通じるものがあるように思います。

右が勝つか。左が勝つか。
賛成派が勝つか。反対派が勝つか。
私たちは、そうした、いわば「わかりやすい争い」に夢中になります。
自分たちの正しさを主張し、相手を批判し、なんとか勝とうとします。

けれど、もしかしたら、その争いそのものが、誰かのつくった仕組みの中で行われているのかもしれません。
しかも、その仕組みの中では、どちらが勝っても、仕組みをつくった側の目的が達成されるようになっている場合さえあります。
孫悟空が、どれほど遠くまで飛んでも、お釈迦様の手のひらから出られなかったように、です。

私たちも、与えられた対立の中で、どれほど必死に戦っても、その対立の枠組みそのものからは抜け出せないことがあるのです。

第七章 善悪の対立を、もう一段上から見る

ここまでのお話を、少し整理してみたいと思います。

私たちは、これまで善悪を考えるとき、「どちらが正しいのか」という問いを立ててきました。
そして、Relation(関係性)という観測点から、「それぞれが何を守ろうとしているのか」という問いについても考えてきました。

けれど、今日のお話は、さらにその先にある、
「そもそも、その善悪の対立は、どのようにして生まれたのだろう?」という問いです。

誰が、その対立の土俵をつくったのか。
なぜ、賛成と反対の二つに分かれなければならないのか。
その対立によって、誰が利益を得ているのか。
そして、その対立が続くことで、誰が困っているのか。
ここまで観測点を広げると、それまで見えていなかったものが見えてきます。

ただし、ここで大切なことがあります。
それは、あらゆる対立の背後に、誰か特定の黒幕がいると考えることではありません。
対立には、誰かが意図的につくったものもあれば、異なる立場や利害から自然に生まれたものもあります。
また、最初は自然に生まれた対立であっても、それを利用して利益を得る人々が現れることもあります。

ここで必要なのは、安易に黒幕を決めつけることではありません。
対立を生み出し、維持し、拡大させている構造そのものを見ることです。
これもまた、EntityからRelationへと観測点を移すことの、一つの大切な意味なのだと思います。

「善悪の対立を仕掛ける人」と「その対立に参加する人」では、そもそも見ている景色が違うのです。

人を善人と悪人に分けるだけでは、見えないものがあります。
善人と悪人が戦っているという物語の外側に立って、なぜその戦いが起きているのかを考えてみる。
すると、これまでとは違う景色が見えてくるのです。

おわりに 誰かの手のひらから、外へ出る

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小学生の頃、教室で行われた「幸せはお金で買えるか」という大激論。
あのときの先生の仕掛けは、子供たちの学びにつながる、よい仕掛けでした。

けれど、世の中の仕掛けが、すべてそんな「良い仕掛け」とばかりは限りません。
人々を対立させることで、利益を得ようとする仕組みもあります。
対立が激しくなるほど、得をする人々もいます。
そして、対立している当事者たちは、そのことに気づかないまま、自分たちの正義のために戦い続けることがあります。

だからこそ、正義の戦いに夢中になったときほど、少しだけ観測点を変えてみたいのです。

「そもそも、この戦いは、誰が仕掛けたのだろう?」
「この対立は、誰のためにあるのだろう?」
「私たちは、本当に、この二つの選択肢のどちらかを選ばなければならないのだろうか?」
そう問い直してみたいのです。

すると、赤か白か、右か左か、賛成か反対かという、それまで当たり前だと思っていた選択肢の外側に、まったく別の道が見えてくるかもしれません。

それは、相手に勝つための道ではありません。
誰かが用意した土俵の上で戦い続けるのでもありません。

自分たちが、どのような未来をつくりたいのか。そこから考え直す道です。

正義を持つことは、大切です。
けれど、自分の正義に夢中になるあまり、その正義を戦わせている仕組みが見えなくなってしまっては、元も子もありません。

孫悟空は、世界の果てまで飛んだつもりで、お釈迦様の手のひらの上にいました。
私たちもまた、知らず知らずのうちに、誰かがつくった対立の枠組みの中で、必死に戦っているのかもしれません。

だからこそ、ときには戦いの手を止めて、少し高いところから、その戦いそのものを眺めてみる。
そこから、初めて見えてくるものがあるのではないでしょうか。

誰かを悪者にして戦う前に、その戦いの土俵そのものを、ちょっと疑ってみる。

もしかすると、そこに、これからの未来が、見えてくるかもしれません。

今回のブログには、実は三つの観測点が登場しています。
第一の観測点:Entity
「誰が正しいのか。誰が悪いのか」
第二の観測点:Relation
「それぞれが何を守ろうとしているのか」
第三の観測点:対立を成立させる構造
「その対立は、誰が、何のためにつくったのか」

第一は、正しいか間違っているかという、一本の直線上の見方です。
これを、x軸だけの一次元の世界と考えてみます。
第二は、その直線に、もう一つの方向が加わる見方です。
x軸にy軸が加わり、物事を平面として見るようなものです。
第三は、さらにもう一つの方向が加わる見方です。
x軸とy軸がつくる平面にz軸が加わり、物事を立体として見るようなものです。

そして、この立体的な見方に、さらに時間軸が加わると、どうなるでしょうか。
その対立が、どのような過去から生まれ、いま、どのような構造の中にあり、これからどのような未来へ向かうのか。
そこまで見えてきます。

私は、これが歴史を学ぶことの、大切な意味の一つではないかと思っています。
歴史とは、過去の出来事を覚えることではありません。
時間という観測点を加えて、いま目の前にある世界を、立体的にもう一度見直すことでもあるのです。

そして、観測点を増やすことは、相手を否定することではありません。

相手を否定するのではなく、見える世界を広げていく。
その積み重ねの先に、争うことしかできなかった人々が、共に未来をつくる出口が見えてくるのかもしれません。

——今日も良い一日を♪

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