『古事記』の冒頭には、神々が「隠身」されたという不思議な言葉が三度も登場します。一般には「神々が姿を隠された」と解釈されますが、もしこれを「神々が万物を内に包み込まれた」と読んでみたら、どうでしょう。地中に隠れた木の根が、大きな木を支えているように、私たちの暮らしも、目には見えない数えきれない結びによって支えられています。『古事記』の「隠身」から、Entity(存在)、Relation(関係)、Circulation(循環)へ。見えないからといって、存在しないわけではない。古代の神話から、私たちが今日を生き、未来を育むための知恵を考えます。

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見えないからといって、存在しないわけではない。
目に見えない結びが、目に見える世界を支えている。
私たちは、目に見えるものを頼りに生きています。
人の顔、建物、道路、山や川。
目に見えれば、そこにあるとわかります。
けれど、目に見えないものはどうでしょう。
たとえば、一本の大きな木。
私たちの目には、幹や枝、葉が見えます。
春には若葉が芽吹き、夏には緑が茂り、秋には実を結びます。
けれど、その木を支えている根は、地面の下に隠れています。
根は見えません。
だからといって、根が存在しないわけではありません。
むしろ、目に見えない根があるからこそ、木は大地に立ち、枝を伸ばし、葉を茂らせることができます。
これは、私たちの暮らしにも通じることといえます。
今日は、『古事記』の冒頭に登場する「隠身(かくりみ)」という言葉から、このことを考えてみたいと思います。
『古事記』の冒頭にある不思議な言葉
『古事記』は、天地が初めて開けたときのお話から始まります。
最初に登場するのが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
そして、神産巣日神(かみむすひのかみ)。
この三柱の神々について、『古事記』には次のように記されています。
此三柱神者、並独神成坐而、隠身也。
読み下せば、
このみはしらの かみさまは 此三柱神者
ひとりかみにと なりまして 並独神成坐而
みにおかくしに なりませる 隠身也
となります。
ここにある「独神」とは、男女一対ではなく、それぞれ単独で成り出た神様のことと解されています。男女の区別がまだ現れていない、世界の始まりの神々として考えることもできそうです。
そして「隠身」。
一般には、「神々が身(を)隠された」と訳されます。
ところが、この「隠身」という言葉は、『古事記』の冒頭で三度も繰り返されています。
最初の三柱の神々。
次に現れる二柱の神々。
さらに、その次に現れる二柱の神々。
いずれも、独神として成り出て、身を隠されたと記されています。
どうして、天地の始まりに現れた神々が、次々に身を隠されるのでしょう。
せっかく登場したのに、すぐに隠れてしまう。
「えっ、もう退場ですか?」と言いたくなります。
というか、出てきてすぐに隠れたのなら、居ません!!
けれど、ここには、もう少し深い意味があると考えるわけです。
「隠身」は、消えてしまったということなのか
2018年に、私は「隠身という古代の知恵の凄み」という記事を書きました。
そのとき、ひとつの疑問を持ちました。
→ 天地の始まりに現れた神々が、みな姿を隠してしまったというのなら、その神々と、いま私たちが生きている世界とは、どのようにつながっているのだろう。
ここに登場する神々は、世界の成り立ちそのものに関わる存在であり、後世、天地創生の根源神とも位置づけられてきた神々です。
その神々が姿を隠されたからといって、世界そのものが消えてしまったわけではありません。
けれど、それならどうして『古事記』は、わざわざ「隠身」という言葉を繰り返しているのでしょうか。
そこで、漢字の成り立ちにも目を向けてみました。
「身」という漢字には、妊婦の姿をかたどったとする字源説があります。
お腹の中に、新しい命を宿している姿です。
そして「隠」という字には、外から見えないように覆う、隠すという意味があります。
この二つを重ねて考えたとき、ひとつのイメージが浮かびました。
「隠身」とは、単に姿を消したということではなく、母親が胎内に赤ちゃんを抱くように、万物を内に包み込んだ姿として読むこともできるのではないか。
もちろん、これが一般的な古語の解釈だとか、正しい解釈だとか言いたいのではありません。
漢字の字源から、そのまま『古事記』の語義が確定するわけでもない。
けれど、古典というものは、原文を大切にしながら、観測点を変えて読み直してみることで、思いがけない問いや発見があるものです。
「神々が姿を隠された」という読み方から、
「神々が、世界を内に包み込まれたのではないか」という読み方へ。
このように観測点を動かしてみると、『古事記』の冒頭が、少し違った姿で見えてくるのです。
胎内の赤ちゃんは、見えないけれど生きている
お母さんのお腹の中にいる赤ちゃんは、外からは直接見えません。
けれど、確かに生きています。
そして、お母さんから栄養を受け取り、少しずつ成長しています。
そして、やがて新しい命として、この世界に生まれてきます。
ここで大切なことは、赤ちゃんとお母さんは、同じ存在ではないということです。
赤ちゃんには赤ちゃんの命があります。
お母さんにはお母さんの命があります。
そしてこの両者は、違う命でありながら、深く結ばれています。
そして、目には見えないけれど、相互の「結び」によって、新しい命が育まれています。
このことを、『古事記』の「隠身」に重ねてみると、どうでしょう。
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。
それぞれ独神として成り出た神々です。
つまり、一柱一柱が、それぞれ独立した存在です。
この三柱の神々は、後世「造化三神」と呼ばれ、世界の始まりと深く関わる神々として大切にされてきました。
独立していることと、結ばれていることは、矛盾しません。
むしろ、違うものが違うまま存在しながら、互いに関わり合うことで、新しい世界が生まれていく。
これは、昨日の「結び」のお話ともつながります。
結びは、違いを消すことではありません。
違うものが違うまま出会い、その「あいだ」に新しいものが生まれることです。
そこで「隠身」を、万物を内に包み込む姿として読んでみると、そこには、世界の始まりから働いている「結び」の姿が見えてくるように思えます。
見えないところから、世界は芽吹いていく
『古事記』の冒頭には、もうひとつ興味深い描写があります。
最初の三柱の神々が登場したあと、まだ国土が若く、浮いた脂のように漂っていたときのことです。
そこに、如葦牙、因萌騰之物而成神名という言葉が書かれています。
「葦牙(あしかび)」は、葦の若芽(新芽)のことです。
葦の芽が、地面や水辺から、ぐんぐん伸びていく。
その萌え上がるような強烈な生命力で、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)が成り出たと記されています。
ここで、最初にお話しした木の根を思い出してみてください。
木の根は、土の中にあって見えません。
けれど、その根に支えられて、地上には若芽が現れます。
芽が伸び、葉が開き、やがて大きな木になります。
目に見える成長の背後には、目に見えない働きがあります。
『古事記』の「隠身」と「葦牙」を、このように重ねて読んでみると、世界の始まりを描いた物語が、まるで生命の成長を描いているようにも見えてきます。
見えないところで命が育まれ、やがて目に見える世界へと現れてくる。
これは、たいへん美しい世界の見方であるように思います。
人もまた、見えない結びに支えられている
人も、また同じです。
いま、自分が生きています。
けれど、自分一人の力で生まれてきた人は、誰もいません。
父がいて、母がいて、そのまた父母がいて、さらにその前の世代がいる。
何代もさかのぼれば、数えきれない人々の命が、いまの自分につながっています。
その人たちの顔を、私たちはほとんど知りません。
名前さえ、わからない人がたくさんいます。
けれど、その人たちが生きていたからこそ、いまの自分があります。
これは、目には見えないけれど、確かに存在している結びです。
このことは血縁だけのお話ではありません。
私たちが毎日食べているお米も、誰かが田を耕し、苗を植え、育て、収穫してくださったものです。
道路をつくった人がいる。
水道を整えた人がいる。
電気を届ける人がいる。
学校で学んだ知識も、先生が教えてくださったものであり、その先生も、さらに前の世代から学んできたものです。
私たちは、目に見える自分の力だけで生きているのではありません。
目に見えない、数えきれない人々との結びに支えられて、生きています。
Entityだけでは、世界は見えない
ここで、観測点を少し変えてみます。
私たちは、ものごとを考えるとき、人や家族や、会社や国家など、つい一つひとつの存在に目を向けます。
それぞれを、独立した存在(Entity)として見ているわけです。
もちろん、間違いではありません。
けれど、それだけでは見えないものがあります。
それが、人と人との「あいだ」にあるものです。
親と子のあいだ。先生と生徒のあいだ。友人同士のあいだ。人と自然のあいだ。
そこには、目に見えない関係(Relation)があります。
そして、その関係の中から、新しいものが生まれていきます。
親から子へ、命が受け継がれ、先生から生徒へ、知識や智慧が伝えられます。
人と自然の関わりの中から、食べ物が育まれます。
そして、その営みが次の世代へと受け継がれていきます。
これが、私たちが考えるCirculation(循環)です。
Entityは、目に見える存在。
Relationは、その「あいだ」にある関係。
Circulationは、そこから生まれたものが、次の結びへと受け継がれていく働き。
この三つを重ねてみると、私たちが生きている世界が、これまでとは少し違った姿で見えてきます。
見えないものを大切にするということ
現代社会では、数字で示せるもの、形として残るもの、すぐに結果がわかるものなど、目に見える成果が重視されます。
もちろん、それらも大切です。
けれど、人にとって本当に大切なものは、必ずしも目に見えるものばかりではありません。
「信頼」は、目には見えません。
「思いやり」も、目には見えません。
人と人との「結び」も、形として取り出すことはできません。
けれど、信頼があるから、人は安心して協力できます。
思いやりがあるから、困っている人に手を差し伸べることができます。
結びがあるから、一人ではできなかったことが、みんなの力でできるようになります。
もちろん、見えないものを何でも信じればよいということではありません。
大切なことは、目に見えないからという理由だけで、その存在や働きを見落とさないことです。
ここでもう一度、『古事記』の冒頭にある「隠身」を見返してみます。
これを、神々が万物を内に包み込まれたとして読んでみると、私たちが普段見落としている大切なものに、気づかされるように思います。
世界は、目に見えるものだけで成り立っているのではない。
見えないところに、命を育む働きがある。
見えないところに、人を支える関係がある。
見えないところに、未来へと受け継がれていく結びがある。
そして、その結びの中から、次の世界が生まれていくことに、あらためて気付かされるのです。
今日の、小さな問い
毎日、私たちは、たくさんの人やものに出会います。
そのとき、目に見える姿や、目の前の言葉だけで、相手を判断していないでしょうか。
その人が、どんな経験を重ねてきたのか。どんな人々に支えられて、いまここにいるのか。
そして、自分との「あいだ」に、どんな可能性があるのか。
少しだけ、そんなことを考えてみたいのです。
なぜなら、それらは目に見えないからといって、存在していないわけではないからです。
目に見えない結びが、目に見える世界を支えています。
私たち自身もまた、誰かの目には見えないところで、その人を支える結びのひとつになっているのかもしれません。
今日の小さな思いやりが、明日の誰かの安心になる。
今日の小さな結びが、まだ生まれていない未来の誰かを支える力になる。
このように考えると、私たちの何気ない一日も、少し違ったものに見えてきます。
『古事記』の冒頭にある「隠身」。
それは、神々がどこかへ消えてしまったというお話として読むだけでなく、
目に見えないところで、世界を育み続ける働きについて考える入口にもなるのではないでしょうか。
私たちが今日、誰かと結ぶ小さな関係もまた、まだ見えない未来を育みます。
そう考えると、何気ない今日という一日が、少しだけ愛おしく思えてくるような気がします。
——今日も良い一日を♪
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