「あの人が変わってくれれば」と思うとき、問題は本当に「あの人」だけにあるのでしょうか。人ではなく、人と人との「あいだ」に観測点を移すと、違う景色が見えてきます。ただしRelationとは、何でも仲良くすることではありません。結ぶことも、距離を置くことも、断つことも、侵害を止めることもRelationです。大切なのは「誰が悪いか」だけで終わらず、そのRelationがどんな未来を生むのかを見ること。『古事記』と出口設計を手がかりに考えます。

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人を変えようとする前に、「あいだ」に何が起きているかを見てみる。
人が同じでも、Relationが変われば景色は変わります。
人間関係で困ったとき、私たちはつい、相手に変化を求めます。
夫婦なら、「もう少しこちらの気持ちをわかってくれれば」
親子なら、「もっとちゃんと言うことを聞いてくれれば」
嫁姑なら、「どうしてわかってくれないの?」
職場なら、「あの人がもう少し協力的なら」
なるほど、相手が変わってくれれば、問題は解決するかもしれません。
けれど、ここで少し観測点を動かしてみます。
問題は、本当に「あの人」にあるのでしょうか。
もしかすると、その人と自分のあいだに、何かが起きているのかもしれません。
無口な人は、誰の前でも無口なのか
職場に、無口な人がいたとします。
こちらが話しかけても、「はい」「わかりました」くらいしか返ってきません。
「無愛想な人だなあ」
「自分のことが嫌いなのかな」
ところが、その人が別の同僚とは楽しそうに話している。
「あれ? 無口な人じゃないじゃん(笑)」
同じ人です。性格が突然変わったわけでもありません。
違っているのは、その人と相手とのRelation(関係性)です。
ですから、「この人は無口な人だ」と決めてしまうと、見えなくなるものがあります。
「この人は、私とのあいだでは、なぜ無口になるのだろう?」
そう問い直したとき、景色が変わることがあります。
「あなたが悪い」では出口がなくなる
人間関係がこじれると、私たちは原因を「人」の中に探しがちです。
「あなたが頑固だから」
「あなたが冷たいから」
「あなたがわがままだから」
「あなたがわかってくれないから」
そうやって原因を相手の人格に置いてしまうと、解決方法はひとつしかなくなります。
相手を変えることです。
ところが、相手は変わりません!(笑)
そもそも、他人から「あなたは間違っているから変わりなさい」と言われて、
「はい、よろこんで!」
となる人は、まあ、滅多にいません(涙)。
むしろ身構え、自分を守ろうとし、こちらが相手を変えようとすればするほど、相手は防御を固めたり、逆に攻撃的になります。
するとこちらは、「ほら、やっぱり、あいつはゆがんでいる」と思います。
相手もまた、「ほら、やっぱりこの人は私を否定する」となります。
こうして「あいだ」に、小寒いRelationが出来上がっていきます。
お互いが相手を原因だと思い、結果として、互いの「あいだ」に生じているRelationが、同じ反応をループさせていることがあるのです。
人を変えなくても、景色は変えられる
では、どうしたらよいのでしょう。
そこで出てくるのが、
「人を変える」のではなく、「あいだ」を変えるという観測点です。
一昔前には、
「相手を変えるのではなく、相手に打ち勝つ自分になっていくのだ」とか、
「相手を変えるのではなく、自分が変わらなければ何も変わらないのだ」
などと、言われたものです。
もちろん、それはそれで大事なことだと思います。
けれど、そもそも相手とのあいだに、何が起きているのでしょうか。
それが、互いを攻撃し合い、相手をただ否定するだけの関係(Relation)であるならば、自分が変わったからといって、相手が良くなるわけではありません。
自分を変えて、相手に打ち勝ったとしても、それはむしろ、怒りの感情などが表面的には見えなくなっただけで、奥深いところで必ずくすぶり続けます。
それにそもそも、自分の成長というのは、「相手を打ち負かした」ら、それで終わりなのでしょうか。
出口は、相手を滅ぼすことだけなのでしょうか。
「下町ロケット」というテレビドラマがあります。
阿部寛さん主演で、たいへんよくできたドラマです。
原作は、同名の、池井戸潤さんの小説です。
そのシーズン3の物語で、某大手企業によって倒産に追い込まれた社長と、同大手企業を追い出された社員が手を握り、そのきっかけを作った同大手企業の重役を滅ぼそうとして奮闘する様子が描かれています。
努力の結果、それは成功しました。
けれど、そのために無理を重ねた結果、開発製品の不備を見すごし、自分たちもまた経営破綻に追い込まれていく様子が描かれています。
相手を倒す、リベンジだ!それだけでは、実は何の解決にもならないのです。
だから、質問に変えてみたいのです。
「これをやって」ではなく、「どうしたらうまくいくだろうか?」
「どちらが正しいか」ではなく、「互いにとって、どんな出口ならうれしいと感じられるか」
と考えてみたいのです。
「話を聞いてもらえない」
それなら、まずこちらから相手の話を聞いてみる。
ほんの少し、言葉を変えてみる。
問いを変えてみる。
立つ位置を変えてみる。
すると、相手そのものは同じなのに、「あいだ」で起きることが変わってくることがあります。
なぜなら、Relationが変わるからです。
Relationが変わると、不思議なことに、相手の違う一面が見えてきます。
「この人、こんなことを考えていたんだ」
「意外とやさしいところがあるんだな」
「自分とは違うけれど、そういう見方もあるのか」
相手が別な人になったのではありません。
Relationが変わったことで、それまで見えなかったものが見えるようになったのです。
「人間」は、もともと「あいだ」に生きている
日本語の「人間」とは、おもしろい言葉です。
「人」だけではなく、「間」があるから、「人間」です。
私たちは、一人だけで存在しているのではありません。
親と子。夫と妻。先生と生徒。上司と部下。友人と友人など、さまざまな「あいだ」の中で生きています。
しかも私たちは、誰といるのか、その相手によって、少しずつ違う自分になります。
子供の前では親である自分がいます。
親の前では子である自分がいます。
職場では責任者であっても、家に帰れば粗大ごみ(アッ!、ごめんなさい)、いえ、家族の一員です。
同じ一人の人間なのに、Relationによって現れる姿が違います。
だとすれば、人間を理解するためには、その人だけを見ていても足りません。
その人が、あるいは自分が、いま、どんな「あいだ」に置かれているのか。
そこまで見て、はじめて人の姿が立体的に見えてきます。
社会もまたRelationでできている
個人の人間関係だけではありません。
会社でも、地域でも、国家でも同じです。
問題が起きたとき、「誰が悪いのか」だけを探すなら、最後に必ず「悪い人」をつくらなければならなくなります。
もちろん、責任を明らかにすることは必要です。
けれど、処罰すれば、同じ問題が再び起こらなくなるとは限りません。
むしろ、相手国との「あいだ」に、何が起きていたのか。
人と制度の「あいだ」はどうなっていたのか。
組織と社会の「あいだ」には、どんなRelationがあったのか。
そこを見なければ、人物だけ入れ替えても、また同じことが起こります。
だから文明を考えるときにも、「どんな人をつくるか」だけではなく、
「どんなRelationをつくるか」という観測点が必要なのだと思います。
それでも、戦わなければならないときがある
ここで、ひとつ大切なことがあります。
Relationを大切にするというと、
「では、どんな相手とも仲良くしなければならないのか」
「悪いことをされても、相手を理解して許さなければならないのか」
と思われるかもしれません。
そうではありません。
「あいだ」を見ることと、何でも受け入れることは違います。
『古事記』を読んでいても、そこには争いがあります。
戦わなければならない場面もあります。
共同体の秩序を守るために、相手を退けなければならない場面も描かれています。
神武天皇の東征もそうです。
山幸彦と海幸彦の物語にも、単純な「仲直り」では終わらない厳しさがあります。
木之花咲耶毘売もまた、迩々芸命から疑いをかけられたとき、ただ黙って疑いを受け入れたのではありません。
自ら産屋に火を放ち、その身を賭して潔白を証明しました。
つまり、Relationを見るということは、
「何があっても仲良くしましょう」ということではない。
むしろ、「あいだ」に何が起きているのかを見るからこそ、
このRelationは結び直せるのか。
距離を置くべきなのか。
責任を明らかにすべきなのか。
あるいは、これ以上の侵害を止めるために戦わなければならないのか。
そこまで考えることになります。
たとえば、誰かが繰り返し人を傷つけているのに、
「相手にも事情があるから」と放置したらどうなるでしょう。
傷つけられる人は、これからも傷つけられ続けます。
それでは、「あいだ」を見たことにはなりません。
加害する側と、傷つけられる側。
その「あいだ」に起きていることを正面から見るなら、むしろ、その行為を止めなければなりません。
そのためには、
処罰が必要な場合もあるでしょう。
距離を置くことが必要な場合もあるでしょう。
場合によっては、共同体から退いてもらう必要さえあります。
これもまた、Relationの設計なのです。
神武天皇は、共同体を守るために侵害を止められました。
山幸彦は、壊れた兄弟Relationに決着をつけました。
木之花咲耶毘売は、不当な疑いに迎合せず、自らの尊厳と真実を守られました。
つまりRelationは、ただ「結ぶ」だけではありません。
健全なRelationとは、自分を犠牲にして関係を維持することでもありません。
これは夫婦、親子、職場など現代の人間関係を考えるうえでも、かなり重要な線引きです。
Relationは、「正す」「離す」「断つ」「止める」までを含むのです。
そのために必要なことは、
「あいつは悪い人間だから排除する」という人格への判決と、
「このままのRelationを続ければ、誰かが傷つき続ける。だから、このRelationを終わらせる」
という判断を、明確に「区別」することです。
前者は「人」を裁いています。
後者は「未来」を見ています。
もちろん、未来を守るために、現在の行為を止め、責任を問い、処罰しなければならないこともあります。
けれど、処罰は出口ではありません。
処罰したあとに、何が残るのか。
距離を置いたあとに、それぞれがどう生きていくのか。
争いを終えたあとに、どのような秩序をつくるのか。
そこまで考えて、はじめて出口設計(Exit Design)になります。
出口設計は、何が何でも全員を同じ場所に置いて仲良くさせることではありません。
最後に、どのようなRelationが残れば、人々が生きていけるのか。
そのために、結び直すこともある。距離を置くこともある。責任を問うこともある。
そして、ときには戦ってでも止めなければならないこともある。
大切なことは、そこで終わらないことです。
戦ったあとに何をつくるのか。処罰したあとに何を残すのか。Relationを断ったあとにどんな未来へつなぐのか。
だからこそ「誰が悪いか」だけで終わらせたくないのです。
「このままでは、どんな未来になるのか」そして「その先に、どんな未来をつくるのか」までを見たい。
『古事記』を読み直してみると、そこにも同じ問いが繰り返し現れているように、私には思えるのです。
「この人は変わらない」で終わらせない
人は、そう簡単には変わりません。
けれど、「あいだ」は変えることができます。
そして「あいだ」が変わることで、それまで現れなかった相手の姿が現れることがあります。
自分自身の違う姿が現れることもあります。
だから、人間関係で行き詰まったとき、
「あの人はどうして変わらないんだろう」
と考える前に、ひとつだけ問いを置いてみたいのです。
「いま、私たちの“あいだ”に、何が起きているのだろう?」
この問いを持つだけで、観測点が「人」から「Relation」へ移ります。
すると、「誰を変えるか」ではなく、
「このRelationを、どんな未来につないでいこうか」
という新しい問いが生まれます。
人ではなく「あいだ」を見るのです。
そして「あいだ」を見た結果、結ぶこともあれば、断つこともある。
断つことも、Relationなのです。
Relationというと「関係をつくる・深める」という方向だけに思われがちですが、
実際には、どんな距離を置くか、どこで境界線を引くか、何を許容しないかもRelationです。
結ぶこともRelation。
距離を置くこともRelation。
境界線を引くこともRelation。
断つこともRelation。
侵害を止めることもRelation。
そして、
それらを選ぶ基準は、「誰が悪いか」ではありません。
「そのRelationがどんな未来を生むか」です。
人が同じでも、Relationが変われば、見える景色は変わります。
そしてもしかすると、
人が変わるということさえ、実は「あいだ」が変わるところから始まるのかもしれません。
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