相手が怒っている。わかってくれない。誠意を尽くしても態度が変わらない。そんなとき、私たちは相手を変えようとして苦しくなります。けれど、相手の姿勢は選べなくても、自分がどう向き合うかは選べます。思い通りにならない世界の中で、それでも自分の姿勢を自分で選ぶ。そこに、人間の自由があるのかもしれません。

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相手の姿勢は選べない。でも、その相手に向き合う自分の姿勢は選べる。そこに、自分の自由がある。
人との関係で、苦しむことといえば、
相手が怒っている、相手が自分を理解してくれない、こちらが誠意を尽くしているのに相手が冷たい、何度説明しても、わかってもらえないなどがあります。
そんなとき私たちは、「どうして、わかってくれないんだろう」「もっと普通に話してくれればいいのに」「どうして、そんな態度をとるんだろう」などと感じるものです。
けれど、ここにはひとつ、どうしても越えられない壁があります。
相手の姿勢は、私には選べない。
少し寂しいことですが、どれほど正しいことを言っても、どれほど誠実に接しても、どう受け取るかは、相手の側にあります。
けれど、ここに気づくことから、ひとつの「自由」が始まるのではないかと思います。
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私たちは、知らず知らずのうちに、相手に期待します。
「こう言えば、わかってくれるだろう」
「これだけやったのだから、感謝してくれるだろう」
「自分が謝ったのだから、相手も態度を変えるだろう」などなどです。
もちろん、そうなることもあります。
けれど、ならないこともあります。
こちらが頭を下げても、相手が怒り続けることもあれば、こちらが必死で笑顔を向けても、相手は不機嫌なままかもしれない。こちらが一生懸命説明しても「そんなことは知らない」と言われる。
そんなときに、「ここまでしたのに、どうしてわかってくれないの?」「どうして変わらないんだ」などと思い始めると、苦しさが増します。
あたりまえです。自分には決めることのできないものを、自分の思い通りにしようとしているからです。
では、私たちには何もできないのでしょうか。
それも違うと思います。
相手が怒っているとき、こちらも怒鳴り返すのか。
それとも、「この人は、なぜこんなに怒っているのだろう」と考えるのか。
相手から嫌なことを言われたとき、同じ言葉で傷つけ返すのか。
それとも、いったん言葉を飲み込んで、どう向き合うかを考えるのか。
相手が自分を嫌っているように見えたとき、こちらも相手を嫌うのか。
それとも、「それでも自分は、どういう自分でありたいのか」と自分に問い直すのか。
これらは、自分で選ぶことができることです。
相手がどうするかは相手の領域です。
けれど、自分がどう向き合うかは、自分の領域です。
ここに、「姿勢」の大切さがあるように思います。
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自由という言葉を聞くと、好きなことができること、誰にも邪魔されないこと、自分の思い通りになることなどを思い浮かべるかもしれません。
けれど、人と人が一緒に生きている以上、すべてを思い通りにすることなどできません。
家族であっても、友人であっても、職場の仲間であっても、夫婦であっても、
相手には相手の人生があり、相手の考えがあり、感情があり、経験があり、事情があります。
それをこちらの都合に合わせて変えることはできません。
だとすれば、本当の自由とは、
世界を自分の思い通りにすることではなく、
思い通りにならない世界の中で、自分の姿勢を選べること
なのかもしれません。
「あの人が怒るから、私も怒る」
「あの人が冷たいから、私も冷たくする」
「あの人が裏切ったから、私も誠実でいる必要はない」
そう考えれば、自分の行動の理由は、いつも相手になります。
それは、一見すると、自分で決めているように見えます。
けれど実際には、自分の姿勢を、相手に決めてもらっているとも言えます。
相手が怒れば、自分も怒る。
相手が笑えば、自分も笑う。
相手が優しければ優しくし、
相手が意地悪なら意地悪になる。
それって、自分の人生のハンドルを、相手に渡してしまっていることにはならないでしょうか。
朝、家族が不機嫌だった。
「なんだ、その態度は」と返すこともできる。
「何かあったの?」と声をかけることもできる。
黙って少し距離を置くこともできる。
相手が不機嫌であることは選べません。
けれど、その不機嫌にどう向き合うかには、いくつもの選択肢があります。
その選択肢が残されていることこそ、私たちの自由です。
あなたがどうするかは、あなたの自由。
でも、私には私の自由がある。
自分がどう向き合うかは、どんなときにも自分で選ぶことができます。
相手を突き放すのではありません。
むしろ、自分と相手を混同せず、相手をひとりの人間として尊重することです。
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おもしろいことがあります。
相手の姿勢を直接変えることはできません。
これは、これまでに述べてきた通りですが、
実際には、
こちらの姿勢が変わると、二人の「あいだ」は変わります。
怒りに怒りで返せば、「あいだ」に生まれるのは対立です。
怒りに対して、「何があったのだろう」と問いを置けば、「あいだ」に少し余白が生まれます。
相手を裁けば、「あいだ」には壁ができます。
相手の事情を知ろうとすれば、「あいだ」に対話の可能性が生まれます。
つまり、
相手を変えることはできなくても、Relationは変えられる可能性があるのです。
その最初の一歩が、自分の「姿勢」かな、と思います。
私たちは毎日、いろいろな人と出会います。
気の合う人もいれば、苦手な人もいます。
やさしい言葉をかけてくれる人もいれば、心ない言葉を投げてくる人もいます。
それらすべてを、自分で選ぶことはできません。
けれど、そのたびに、「では、自分はどう向き合おう」と問い直すことはできます。
相手の態度がどうであろうと、
その相手の前で、自分はどうありたいのか。
そこだけは、誰にも奪うことができません。
だから今日のひとことは、
相手の姿勢は選べない。
相手に向き合う自分の姿勢は選べる。
そこに自分の自由がある。
今日、誰かの態度に心が揺れたとき、
ほんの一瞬、この言葉を思い出してみたいと思います。
「相手の姿勢は選べない。でも、自分の姿勢は自分が選べる」
その小さな選択から、人と人との「あいだ」に、これまでとは違う未来が生まれるかもしれません。
——今日も良い一日を♪
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