5月3日、憲法記念日。私たちは「平和とは何か」を改めて考えます。しかし平和とは、ただ争わないことなのでしょうか。歴史を振り返ると、「争わない」だけでは守れなかった現実があります。済南事件は、その象徴的な出来事のひとつです。本記事では、この事件を「出口設計」という視点から読み直し、平和を現実の中でどう整えていくのかを考えていきます。

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その選択に、「出口」は見えているだろうか。
■ はじめに
5月3日は憲法記念日です。
私たちはこの日になると、「平和とは何か」をあらためて考えます。
けれど平和という言葉は、どこかで「争わないこと」「戦わないこと」と同義に捉えられがちです。
しかし本当にそれだけで、平和は保たれるのでしょうか。
歴史を振り返ると、「争わない」という姿勢だけでは、かえって混乱を招き、守るべき人々を守れなかった例が少なくありません。
問題は、戦うか戦わないかではなく、事態をどこに着地させるのか、つまり「出口」が見えているかどうかにあります。
今回取り上げる済南事件は、単なる一つの悲劇的な出来事ではありません。
そこには、平和を願いながらも、その先の出口を設計できなかったがゆえに、事態を悪化させてしまった現実があります。
平和とは、願うものではなく、整えるもの。
そしてそのためには、終わり方まで見通した「出口設計」という視点が欠かせません。
憲法記念日の今日、済南事件を通して、あらためてこのことを考えてみたいと思います。
■1 混乱する大陸と、出口を失った世界
大正6(1917)年、ロシア革命が起こりました。
これを契機に、世界には共産主義による世界革命の運動が広がりはじめました。
共産主義の特徴のひとつは、社会の対立を見つけ出し、それを拡大し、正当化していく点にあります。
不満があるところに火をつけ、その対立を原動力として社会を動かしていくのです。
当時のChinaは、まさにその影響を受けやすい状態にありました。
清王朝が倒れたのは明治44(1912)年。
この年、孫文が南京で中華民国臨時政府を樹立しましたが、国内の武闘勢力を統制する力を持たず、やがて北京軍閥の長である袁世凱に政権が移っていきました。
袁世凱は中華帝国の皇帝に即位しますが、その体制もわずか一年で崩壊。
Chinaは軍閥が各地で争う混乱の時代へと入っていきました。
国家としての統一的な秩序も、安定した統治も存在しない。
そこにあるのは、力と力がぶつかり合う、極めて不安定な社会でした。
このような環境において、いったん争いが起これば、それを収める仕組みがありません。
秩序がないということは、すなわち「出口がない」ということです。
さらにこの時代、尼港事件に見られるように、共産パルチザンによる暴力や略奪が各地で激化していきました。
こうした行動は単なる無秩序ではなく、対立を煽り、混乱を拡大させることで影響力を強めていく構造を持っています。
つまり当時の大陸は、対立が対立を呼び、混乱が混乱を増幅させる、いわば「出口を失った世界」だったのです。
このような場所において、平和や秩序を維持するためには、単に争いを避けるだけでは足りません。
どのように事態を収めるのか、どこに着地させるのか、あらかじめ出口を見据えた行動が求められます。
この視点を欠いたとき、善意や理想であっても、それは現実の混乱の中で力を持たなくなってしまう。
済南事件は、まさにそのことを示す歴史の一場面でもあるのです。
■2 居留民保護という目的
こうした混乱の中で、各国は自国民を守るために行動していました。
済南には当時、日本人をはじめ多くの外国人が居住しており、情勢の悪化に伴い、各国とも自国民の安全確保が重要な課題となっていました。
日本も例外ではありません。
昭和3(1928)年4月、日本は済南に部隊を派遣しています。
ただし、その目的はきわめて限定されたものでした。
それは「居留民の保護」です。
ここは大切な点です。
日本軍は、戦闘を拡大するために派兵されたのではありません。
あくまで現地に住む日本人の生命と財産を守るために派遣されたのです。
そのため、日本軍は済南城内に進出するのではなく、城外の商埠地(しょうほち・清末から中華民国初期の中国において、外国人の居住や営業活動のために清朝政府が自主的に指定・開放した商業地区)において防御線を築き、戦闘が居留民の居住区域に及ばないようにしていました。
いわば「巻き込まれないための防御」であり、「戦わないための配置」でもあったのです。
この時点での日本の「出口」は明確です。
すなわち「居留民を守り、被害を出さず、事態が収まるまで持ちこたえること」です。
当然ここには、いたずらに衝突を拡大させないという意思も含まれていました。
むしろ戦いを避けるための措置であり、平和を保つための行動だったといえます。
しかし同時に、このような行動には前提があります。
それは、現地の秩序が一定程度機能していること、あるいは、関係者の約束が守られるという信頼です。
もしその前提が崩れれば、この「守るための配置」は、たちまち脆弱なものになります。
つまり、ここで必要になるのは、
「守る」という目的に対して、
その目的が達成できなくなった場合の次の手、すなわち「次の出口」まで設計されているかどうかにあります。
済南における日本陸軍の行動は、当初の目的においては極めて明確であり、理にかなったものです。
けれど、その後に起こる出来事は、この「出口」がいかに重要であるかを、私たちに突きつけることになります。
■3 バリケード撤去に見る出口設計の失敗
済南における日本軍は、居留民保護のため、商埠地にバリケードを築き、防御体制をとっていました。
これは戦闘を拡大させるためではなく、あくまで被害を防ぐための措置です。
ところがここで、国民党軍の総司令である蒋介石が、日本側に対して次のように要請してきました。
「治安は国民党軍が責任をもって確保する。
だからバリケードを撤去してほしい」
現場から見れば、これは受け入れがたい要請です。
なぜなら、治安が不安定であるからこそ、日本は防御体制を敷いているのです。
その防御を解除することは、居留民を無防備にさらすことになるからです。
当然、現地部隊はこれを拒否しました。
しかし、ここで問題が発生します。
日本の内地にある日本政府が、蒋介石との関係を重視して、現場の判断とは逆に、バリケードの撤去を命じたのです。
軍は政府の指揮下にあります。
この結果、5月2日、日本陸軍は防御線を取り払うことになりました。
ここに「出口設計の重大な欠落」があります。
問題は、蒋介石の約束を信じるかどうかにあるのではありません。
「もし約束が守られなかった場合、どうするのか」という出口の設計がなされていないのです。
当時の日本政府は、弾丸が飛んでくる危険地帯である現地の安全確保より、蒋介石との関係維持を優先しました。
けれど、その関係が破綻した場合の「出口設計」がまったくなされていなかったのです。
そして翌日である5月3日、事態は一気に崩れました。
国民党軍兵士による略奪と暴行が発生し、やがてそれが市内全域へと広がりました。
治安を保証すると言った側が、その秩序を維持できなかったのです。
ここで重要なのは、日本が「裏切られた」ということではありません。
秩序が崩れたときに、それを止めるための手段も、守るための構えも、政府の指令によって、すでに解除されていたという事実です。
日本政府は、出口を見据えず、前提を手放した。
この瞬間、善意も信頼も、現実の混乱の中で、人を守る力を持たなくなったのです。
バリケード撤去は、まさにその象徴的な出来事でした。
そしてこの判断が、次に起こる惨劇へとつながっていくのです。
■4 惨劇をどう語るか
5月3日、事態は一気に崩れました。
国民党軍の兵士による略奪が始まり、やがて市内各地で暴行や襲撃が広がっていきました。
駆けつけた日本人巡査にも暴行が加えられ、日本軍はやむなく救援部隊を派遣しましたが、事態は収まりません。
国民党軍は兵舎に逃げ込み、そこから銃撃を加え、市内では乱射、掠奪、暴行が連鎖的に発生しました。
日本側は停戦を呼びかけましたが、白旗を掲げた軍使にさえ銃撃が加えられ、もはや統制は完全に失われていました。
いったん火がついた混乱は、誰にも止められません。
いったん暴動となれば、兵も民も区別はなくなります。
ただ、暴力だけが支配する状態になるのです。
この事件では、多くの日本人居留民が犠牲となりました。
当時の記録には、目を覆うような残酷な被害の様子が記されています。
当時の外務省公電にある公式文書です。
「腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
事件後に現場を視察した南京駐在武官佐々木到一陸軍中佐の手記です。
「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
こうした事実は、決して忘れてはならないものです。
しかし同時に、この惨劇から何を学ぶかはさらに重要です。
ただ怒りや憎しみを喚起するために語るのであれば、それは新たな対立を生むだけです。
けれど、この出来事がなぜ起こり、なぜ防ぐことができなかったのかを見つめるならば、そこには学ぶべき現実があります。
◯ 守るために派遣された力が、守るべき瞬間に十分に機能しなかった。
◯ 約束に基づいて手放した防御が、結果として無防備な状態を生んでしまった。
惨劇は、突発的に起こるものではないのです。
そこに至るまでの積み重ねの中で、出口が見失われたときに、現実のものとなるのです。
済南事件の惨状は、そのことを私たちに問いかけます。
事実を直視しながらも、同じ過ちを繰り返さないために、どのように受け止めるのかが問われているのです。
■5 平和主義の落とし穴
昭和初期の日本は、大正デモクラシーの流れの中で、極端な平和主義と反軍の空気に包まれていました。
軍備を縮小し、軍事力に頼らず、国際協調によって平和を実現すべきだという考え方が、言論界や政界、そして世論の中に広がっていたのです。
「軍は縮小すべきだ」
「内需にこそ資金を回すべきだ」
「対外的には波風を立てない外交を行うべきだ」
こうした主張は、一見すれば理想的であり、誰もが望む方向にも思えます。
しかし問題は、その先にどのような出口を描いていたのか、という点にあります。
平和を願うことと、平和を実現することは同じではありません。
争いを避けたいという思いがあっても、
現実に「争いが起きたときに、それをどう収めるのか」が設計されていなければ、
平和への思いは人を守る力にはなりません。
当時の日本は、まさにその状態にありました。
当時の政党政治もまた、対立の構造に陥っていました。
政友会と民政党は、互いの主張を是々非々で判断するのではなく、相手の主張であるというだけで否定するという関係にありました。
政策の一貫性よりも、党利党略が優先され、国家としての意思が定まりにくい状況でした。
このような中では、海外で何が起きているのか、そこに住む日本人がどのような状況に置かれているのかが、十分に顧みられません。
国内の政治の駆け引きにばかり関心が集中し、現実の危機に対する備えが後回しにされてしまうのです。
結果として、当時の日本は、守るための力は持ちながら、それをどう有効に使い、どう事態を収めるのかという出口が設計されない。
この状態では、平和主義は現実の中で機能しません。
むしろ、「何も起きないこと」を前提にした平和は、ひとたびその前提が崩れたとき、最も脆いものとなります。これが現実です。
平和とは、争いを避けることだけではなく、
争いが起きたときにも、被害を最小限に抑え、事態を収めるための「力と設計を持つ」ことです。
出口を見据えない平和主義は、ときに守るべきものを守れなくなる。
済南事件は、そのことを私たちに現実として、示してくれています。
■6 恨みを増幅させる構造
済南事件やその前後に起きた出来事を見ていると、ひとつの特徴が浮かび上がります。
それは、対立は単発で終わらないということです。
それどころか、連鎖し、増幅していくという点です。
誰かが被害を受ける。
その被害が怒りとなり、やがて報復へとつながる。
報復はさらに新たな被害を生み、そこにまた怒りが生まれる。
この循環が始まると、もはやどこが出発点であったのかも見えなくなり、ただ対立だけが拡大していきます。
当時の大陸において、まさにこの構造がありました。
個々の事件や犯罪が積み重なり、それに対する不信や怒りが広がり、やがてそれが民族や国家への感情へと変わっていったのです。
このため、本来であれば個別に処理されるべき問題が、やがて『誰と誰』という対立へと姿を変えていきます。
このような状況においては、そこにさらに対立を煽る動きが加わることで、事態は一気に拡大します。
火に油を注ぐように、感情が増幅されていくのです。
重要なのは、ここに「出口」がないことです。
恨みは、それ自体では自然に消えるものではありません。
放置すれば蓄積し、やがてどこかで噴き出します。
そしてその噴き出しは、往々にして、より大きな被害を生む形で現れるのです。
だからこそ、必要なことは、実際の対立や被害が生じたときに、それを「どう収めるか」という視点です。
それは、誰かを一方的に悪と決めつけることでも、感情に任せて応じることでもありません。
どのようにして恨みや対立の連鎖を断ち切るかを考えることです。
これが出口設計です。
済南事件に至る流れの中でも、小さな対立や不信が積み重なり、それが整理されることなく拡大していきました。
そしてついに、誰にも止められない形で噴き出してしまったのです。
対立は、自然に解決するものではありません。
意識して整えなければ、増幅していくものです。
この構造を理解することが、同じ過ちを繰り返さないための第一歩です。
■ 結び
済南事件は、忘れてはならない出来事です。 けれどそれは、過去の悲劇として記憶するためだけではありません。
守るべき人々を守れなかった現実。
その背後にあった判断の積み重ね。
そして、出口を見失ったときに何が起こるのか。
これらは、決して過去の出来事にとどまるものではありません。
いまの日本でも 「対立を避けること」ばかりが目的になり、 その先にどう収めるのかが曖昧なままの議論は少なくありません。
判断を先送りにし、波風を立てないことを優先する。
けれど、その先にある出口が見えていなければ、 いざというときに、何も守れません。
現にいま、ホルムズ海峡封鎖に伴い、石油備蓄の問題が浮上しています。
しかし、有事に備えた出口設計がないまま、議論が先送りされていると言わざるを得ません。
平和は、ただ願っていれば実現するものではありません。 整え続けるものです。
そして整えるとは、 どのように収めていくのかという出口を見据えて、 いまの選択を積み重ねていくことです。
5月3日、憲法記念日。
「守る」とは何か。
「平和」とは何か。
その答えは、場当たり的な対応の中にはなく、
出口を見据えた積み重ねの中にこそ、あるのです。

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