人と意見が違うと、私たちはつい「わかってもらおう」とします。けれど、わかり合うことは、同じ考えになることなのでしょうか。二本の紐を結んでも、一本になるわけではありません。違うものが違うまま、つながる。人と人も同じなのかもしれません。どちらが正しいかを争うのではなく、違う二人の「あいだ」に、ともに渡れる橋を架ける。今日は、そんな「結び」について考えてみたいと思います。
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結びとは、相手を自分と同じにすることではなく、違うままでも、ともに歩ける道をつくること。
人と意見が違うと、つい相手を説得したくなります。
「いや、それは違うよ」
「こう考えたほうがいい」
「ちゃんとわかってもらわなければ」
だから、自分の考えを伝え、互いに話し合いをしようとします。
相手の考えを聞こうともします。
いずれも大事なことです。
けれど、それだけでしょうか。
人と人が結ばれることは、同じ考えになることでしょうか。
夫婦でも、親子でも、友人でも、考え方は違います。
男と女でも違います。
好きな食べ物も違います。
休日の過ごし方も違います。
同じ出来事を見ても、感じ方が違うことがあります。
育ってきた環境も、経験してきた人生も違います。
それなのに、「わかり合うとは、同じ考えになることだ」と思い込む。
話し合っていたはずが、いつの間にか、
「どちらの考えを採用するのか」という「勝負」になる。
そして、なぜか、片方が納得すれば解決する、片方が折れれば丸く収まると考えてしまう。
本当にそれで良いのでしょうか。
日本語の「結ぶ」という言葉は、おもしろい言葉です。
二本の紐を結んでも、一本の紐になるわけではありません。
二本は二本のまま、それぞれが別の存在でありながら、結び目によってつながります。
あなたはあなた、私は私。
考え方が違ってもいい。
感じ方が違ってもいい。
得意なことも、苦手なことも違っていい。
その違いを消して一つにするのではなく、
違う二人の「あいだ」に橋を架ける。
それが、「結び」です。
だから、意見や気持ちが対立するときに、観測点をすこし変えてみます。
「どちらが正しいのか」ではなく、
「ここから、どうすれば一緒に歩いていけるだろう」
と考えてみる。
すると相手を論破する必要がなくなります。
自分が折れる必要もなくなります。
お互いの違いを残したまま、
「ここまでは一緒にできるね」
「ここは違うけれど、それはそれでいいね」
「では、こういう形なら進めるかもしれないね」
と、新しい道を探すことができるようになります。
もちろん、かならずそんな道が見つかるとは限りません。
だから、探すのです。
時間はかかるかもしれない。
面倒かもしれない。
その間、ずっと答えの出ない時間を過ごさなければならないかもしれない。
だから、一緒に探すのです。
ここで大切なことは、
「違うままでいい」ということが、
「別々になればいい」ということではない、ということです。
違いを認めることは、Relationを諦めることではありません。
むしろ、そこからRelationをつくる仕事が始まるのです。
あなたはあなた。私は私。
だから好き勝手に生きればいい、ではなくて、
違いがあるからこそ、その「あいだ」に、どんな関係を築くことができるのかを一緒に探していく。
その過程で、自分の言葉や行動が相手を傷つけていたことに気づくこともあるでしょう。
そのときは、また、向きを変える。
それは、相手と同じになるために、自分を変えるのではありません。
お互いの関係性の中で、自分の行為が何を生んでいるのかに気づいたから、自分の姿勢を変えるのです。
「違い」と「間違い」は、同じではありません。
違いは、なくさなくていい。
だけど、間違いに気づいたなら、向きを変える。
そのどちらも、相手との「結びを大切にする姿勢」なのだと思います。
幕末に行われた勝海舟と西郷隆盛の江戸城明け渡し交渉。
対立する両者が、どこまでも互いの「正しさ」を主張したら、交渉は決裂していたことでしょう。
現に戦いが起き、そのさなかにいるのです。
戦いには理由があり、それぞれに言い分があります。
このことで両者がぶつかるなら、そもそも交渉の余地はありません。
けれどこの二人は、少なくとも交渉の出口を、互いの正しさを競うことではなく、
江戸を戦火から守ることのできる着地点へと動かしていきました。
人間は一人ひとり、思想も価値観も、立場も、見えている景色さえも、違います。
もし社会の安定のために、誰かが「正しい答え」を決め、みんながそれに合わせなければならないなら、
その社会はとても息苦しいものになります。
世の中を良くするためにと、現代の救世主の出現を求める人もいます。
人が何を思おうが、それは自由です。
救世主だけが「正しい答え」を持ち、みんながそれに従う。
全員が金太郎飴になる。
それが理想なのでしょうか。
そんな社会に、息苦しさはないでしょうか。
ひとりひとりが自由に羽ばたくことができる。
もちろん、自由には責任が付きまといます。
そんな責任を自覚しながら、ひとりひとりが努力し、輝いていく。
そんなひとりひとりが、互いに助け合い、協力し合い、一丸となって新たな未来を築いていく。
個人間だけの話ではありません。
それぞれの組織も、地方も、国家と国家の関係も同じです。
中央のために地方が衰退するのではなく、
それぞれに責任を持って輝く地方が、地方同士で、あるいは中央としっかりと結ばれていく。
それこそが本来の姿といえるのではないでしょうか。
これこそが、すべての民を八百万の神々とみなす「シラス国」の姿勢なのではないかと思っています。
すべてが同じなら、そもそも「結ぶ」必要すらありません。
違うからこそ、結ぶ。
違うままで、ともに渡れる橋を架けるのです。
そこに、ほんとうの意味での、未来が始まるのではないかと思うのです。
——今日も良い一日を♪

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