「あの人は悪い人だ」と決めたとき、私たちはその人の何を見ているのでしょうか。悪い行為は、悪い。けれど、行為の善悪と、その人そのものを「悪」と決めることは、本当に同じなのでしょうか。「誰が悪いのか」という問いから、「何が起きたのだろう」という問いへ。観測点を少し動かすと、そこには人間だけでなく、家族、組織、社会、時代など、さまざまなRelationが見えてきます。善悪をなくすのではありません。善悪について、もっと丁寧に考える。
新しい木曜日のテーマ「善悪を考える」。その第一回です。

今日のひとこと・「悪い人」と決める前に、「何が起きたのだろう」と問い直すと、見える世界が変わってくる。

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「悪い人」と決める前に、「何が起きたのだろう」と問い直すと、見える世界が変わってくる。

昨今では、ニュースを見ても、SNSを見ても、「あいつが悪い」「こちらが正しい」という言葉があふれています。
もちろん世の中には、人を傷つける行為がありますし、人を騙したり、奪ったり、暴力を振るったりする事件もあります。
また私たちは、日常の中でも、よく「あの人は悪い人だ」という言葉を使います。

ですから、「善悪を考える必要がない」ということではありません。
善悪を決める前に、善悪について考えたいのです。

たとえば、誰かがひどいことをしたとします。
そのとき私たちは、「あの人は悪い人だ」と言います。

けれど、よく見ると、ここでひとつ、不思議なことが起きています。
最初にあったのは、その人が、ある行為をしたという「出来事」です。
ところがいつの間にか、その人は、悪い人であるという、その人自身についての「評価」に変わっています。
行為について語っていたはずなのに、いつの間にか、人間そのものを「悪」として規定しているのです。

すると、そこから先の景色が変わります。
「あの人は悪い人なのだから、話を聞く必要はない」
「悪い人なのだから、仲間から外してもいい」
「悪い人なのだから、多少ひどいことを言っても構わない」

こうして「悪」という言葉が、今度は「自分の側の行為を正当化する理由」になってしまうことがあります。

どこぞの国で「愛国無罪」という言葉が流行ったことがありました。
反日を国是とする国です。
だから、ありとあらゆる日本人に対する侮辱や暴行行為は、愛国心の発露なのだから無罪だという主張です。

相手を『悪』と規定し、その相手への暴力まで正当化してしまう。その先に、どれほど凄惨な出来事が起こり得るか。私たちは歴史の中に、その実例をいくつも見ることができます。
通州事件の惨劇も、そのひとつです。
これは、とても恐ろしいことです。

だから、ここで、観測点を少し動かしてみたいのです。
「あの人は悪い人だ」ではなく、
「いったい、何が起きたのだろう」と、問い直してみたいのです。

すると、それまで見えなかったものが見えてくることがあります。
なぜ、その人はそんなことをしたのだろう。
何を恐れていたのだろう。
何を守ろうとしていたのだろう。
どんな思い込みがあったのだろう。
その前に、
誰との間で何が起きていたのだろう。
そこには本人だけではなく、家族や仲間、組織、社会、時代、さまざまなRelationが関係していたかもしれません。

もちろん、悪い行ないを良い行為に言い換えているわけではありません。
人を傷つけてよい、という話でもありません。

けれど、天照大御神は、須佐之男命が高天原で暴行を働かれたとき、まさに「悪い行ないを良い行為に言い換えられて」おいでになられました。
これは暴行を善として肯定されたというより、ただちに須佐之男命を「悪者」として断罪するのではなく、その行為を別の観測点から受け止めようとなされた、と読むこともできます。

私たち日本人の考え方として、ここは、とても大切なところです。

まず第一に、理解することと、肯定することは違います。
けれど、理解しようとすることで初めて、同じことを繰り返さないための道が見えてくることがあります。

第二に、争っている人たちは、必ずしも「自分は悪いことをしてやろう」と思って争っているわけではない、ということです。
むしろ、「自分が正しい」「自分こそが正義だ」と思っている。

家庭でも、職場でも、社会でも、国家と国家の間でも、これは起こることです。
双方が、「こちらが正しい。だから相手が間違っている」と思う。
こうなると、対話がいちじるしく難しくなります。

第三に、相手を「悪」と決めてしまえば、
「悪を倒すことは善である」という論理が生まれます。
すると、普段なら絶対にしないようなひどいことまで、「正義のため」という理由で行えるようになってしまう。

人類の歴史には、そのような出来事が何度も何度もありました。

この問題をさらに難しくしているのが、悪意ではなく善意から苦しみが生まれることです。
このあたりは、youtube動画で、東郷潤先生の動画を是非ご覧いただきたいところですが、文章でご紹介します。

「みんな仲良くしようね。」
これは、とても良い言葉ですよね?

けれど、ひとりで本を読むのが好きな子がいたとします。
他の子はお昼休みに、グランドでサッカーをすることになった。

そこで本好きのその子に向かって、
「ひとりでいるなんてダメだよ。
 みんな仲良くしなきゃ」と、無理にグランドへ連れていってしまったらどうでしょう。

連れていった側には善意があります。
けれど、本好きの子にとっては苦痛かもしれません。

つまり、善いことを願ったかどうかだけに答えはないのです。

その善意が、相手とのRelationの中で何を生み出したのか。
そこまで見なければ、善悪について考えたことにはならないのです。

「善悪なんてない」と言いたいのではありません。
むしろ逆です。
事の善悪は、「ある」のです。
ただ、善悪について、もうすこし丁寧に考えたいのです。

「これは善だ」
「これは悪だ」
とラベルを貼って思考停止に陥るのではなく、

どうして、そうなったのか。
その結果、誰に何が起きたのか。
そして、これからどうすればよいのか。
みんな笑顔になれるのか。

そこまで考えてみる。

善悪を考えるとは、
誰かを「裁くための答え」を急いで出すことではなく、
より良い未来へ進むために問い続けること
なのかもしれないと思うのです。

出口設計(Exit Design)という視点から考えると、さらに景色が変わります。
「誰が悪かったのか」
という問いは、明らかに過去への「問い」です。
もちろん責任を明らかにする必要がある場合もあります。

けれど、責任を明らかにしたところで、それだけでは未来はつくれないのです。

そこで、もうひとつ問いを加えます。
「では、これからどうしたら、同じことが起きないだろう」
すると視線が未来へ向きます。

誰かを悪者にして終わるのではなく、
人と人とのRelationをどう変えるのか。
仕組みをどう変えるのか。
自分自身の姿勢をどう変えるのか。

ここから出口設計が始まります。

人というのは、とても複雑な存在だと思うのです。
良いこともするし、間違えることもあります。
誰かを助けることもあれば、知らないうちに誰かを傷つけていることもあります。
100点満点の人なんていないのです。

その複雑な人間を、たった二文字の「善人」と「悪人」に閉じ込めてしまったら、
本当に大切なものが見えなくなってしまうと思うのです。

だから、「悪い人」と決める前に、ほんの少しだけ立ち止まって、
「何が起きたのだろうか」と問い直してみたいのです。

すると、「悪い人」という一枚のラベルの向こう側に、それまで見えていなかった人間の姿や、その人を取り巻くさまざまなRelationが見えてくることがあります。

そして、そこから初めて、
「では、これからどうしよう」という、未来への問いが生まれるのです。

善悪を考えるということは、善悪をなくすことではありません。
人を裁くために善悪を考えるのではなく、
人と人が、より良い未来へ進むために善悪を考えたい
、と思うのです。

今日のひとこと。

 「悪い人」と決める前に、
 「何が起きたのだろう」と問い直すと、
  見える世界が変わってくる。

——今日も良い一日を♪

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善悪という怪物: それは脳で繁殖し、人を支配し、世界を破壊する

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