私たちは学校で、たくさんの「答え」を学んできました。けれど、まだ誰も経験していない未来には、覚えるべき正解そのものがありません。だからこそ必要になるのが「問い」です。「本当にそれだけだろうか?」「その先には何があるのだろう?」「もっと良い未来はつくれないだろうか?」――問いを持つことで観測点が動き、人との対立さえも、ともに答えを探すRelationへと変わっていきます。今日は、答えを集めることの先にある「未来を探求する知性」について考えてみたいと思います。

今日のひとこと・問いを持ち続ける人は、答えを集める人ではなく、未来を探求し続ける人。

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問いを持ち続ける人は、答えを集める人ではなく、未来を探求し続ける人。

学校では、「これは、どういう意味ですか?」と尋ねて、答えを教えてもらいます。
私たちはそうして育ってきました。
そして、足し算引き算からはじまって微分積分を習い、
公式を覚え、漢字の読み書きを覚え、
歴史の年号を覚えてきました。
そして、試験では正しい答えを書くことが求められました。

それらは、人類が長い歳月をかけて積み重ねてきた知識を受け取ることであり、私たちは先人たちが歩いたところから、その先へ進むための学びです。

けれど、ここでひとつ考えてみたいことがあるのです。
それは、
答えをたくさん知っていることと、
考える力があることは、果たして同じなのだろうか?

ということです。

たとえば、「鎌倉幕府を開いたのは誰ですか?」と聞かれれば、
「源頼朝です」と答えることができます。

そこで問いは、いったん閉じます。
けれど、
「そもそも、どうして武士の時代が生まれたのだろう?」
と問いを変えると、世界が広がります。

朝廷と地方の関係はどうだったのか。
土地を守っていた人々は何を求めていたのか。
貴族と武士のRelationは、どのように変化したのか。
そもそも「幕府」という仕組みは、どのような必要から生まれたのか。

ひとつの問いから、次々と新しい問いが生まれてきます。

おもしろいことに、良い問いほど、ひとつの答えでは終わりません。
ひとつの答えが、さらに新しい問いの入口になるからです。

人には、不思議なところがあって、何かについて答えを得ると、
「ああ、そういうことか」と安心します。

安心すること自体は悪いことではありません。
けれど、「もうわかった」と思った瞬間、そこから先を見なくなってしまうことがあります。

歴史についても、
「あの人が悪かった」
「あの国が悪かった」
「これが原因だった」
という答えをひとつ手に入れると、それですべてを説明できたような気持ちになることがあります。

たとえば近年では、どこかの国の影響か、日本国内にも「秀吉は極悪人だった」という答えに執着する人たちがいます。織豊時代を語るときには、どういうわけか、すべてそこが出発点になる。
あるいは、赤穂浪士の討入は、吉良上野介が悪党だったからという答え。
これには長い間、多くの人達がそう思い込まされてきました。

けれど現実の世界は、それほど単純ではありません。
人と人とのRelationがあり、時代背景があり、それぞれの立場があり、それぞれの事情があります。
観測点を動かせば、良い人にも悪い面があり、悪人にも良い面があったりします。
つまり、それまで見えていなかったものが見えてきます。

だから、歴史についても**「本当に、それだけだろうか?」**という問いをいつも残しておくのです。
その小さな問いが、世界を一枚の説明で閉じてしまわないための、とても大切な余白になります。

小さな子どもは、よく「なぜ?」と聞きます。
「どうして空は青いの?」
「どうして雨は上から降ってくるの?」
「どうして人はケンカするの?」
「どうして勉強しなきゃいけないの?」
大人はつい、答えを教えようとします。

けれど本当は、この「なぜ?」こそが、とても大切です。
なぜなら問いを持った瞬間、その子の前に、それまで存在していなかった世界が立ち上がるからです。

「どうしてだろう?」
と思わなければ、調べようとも、考えようともしません。

けれど問いが生まれると、
見て、聞いて、調べて、考えて、誰かと話してみたくなるのです。

そして、「もしかしたら、こうかもしれない」という自分なりの仮説が生まれます。
さらに、「でも、こっちから見たらどうだろう?」と、また新しい問いが生まれます。

そうして人は、まだ誰も見たことのない場所へ進んでいきます。

答えは、基本的に、人類が発見したこと、先人が考えたこと、過去に起きたことといった、過去の回答です。
それを学ぶことは、とても大切です。
数学の定理なんて、人類が何千年もかけて、しかもとびきり優秀な学者が生涯を捧げてようやくたどり着いた結論です。
それを我々の頭で行おうとしても、まず無理です。
だから、それらを使わせていただくためには、答えを覚えるしかありません。

だけど同時に、未来には、まだ答えがないのです。

十年後に、日本がどんな国になっているのか。
AIと人間は、どのようなRelationを築いているのか。
子どもたちは、どのような社会で暮らしているのか。
人口が減少する時代に、地域をどうつないでいくのか。
そして、どんな未来なら、みんなが笑顔になれるのか。

これらは、教科書に正解が載っていることではありません。

だからこそ、私たちは問いを持つのです。
それは、単に「未来はどうなるのだろう?」ということだけではありません。

もう一歩進んで、
「では、どんな未来をつくりたいのだろう?」
と問う。
そこから、出口設計が始まります。

そして問いには、もうひとつ大きな力があります。

答えを主張すると、
「私はこう思う」
「いや、私は違うと思う」と、対立的になることがあります。

けれど、「どうしたら、もっと良くなるだろう?」という問いを真ん中に置くと、人と人は同じ方向を向いて考えることができます。

このときに、
相手のことを、「ばーか」とか、「あなたは洗脳されている」と言い出すと、
それは観測点の交換ではなく、相手への人格攻撃になってしまいます。

ところが、人格というのは、その人に固有に備わったものではありません。
相手との関係性(Relation)の中で発露されるものです。
ということは、それらの言葉は、相手と自分との「間にあるもの」のことを言っていることになります。
そしてそれが自分に見えていた景色なら、それは自分自身のことを述べていることになってしまうのです。

最近よく耳にする「差別主義者だ」とか「レイシスト」といった言葉も同じです。
相手に貼ったレッテルが、本当に相手そのものを表しているのか。
それとも、自分が立っている観測点から、そう見えているだけなのか。
そこにも、ひとつ問いを残しておいた方がよいのかもしれません。

昔の人は、「人は己の鏡である」と言いました。
人の中に見えているものは、自分の姿なのかもしれません。

そういえば不良高校生の頃、相手が生意気に見えていた。
でも、そう見えている自分が、生意気そのものだった(笑)。

だから、自分にも見えていない答えを、相手と一緒に探してみるのです。
するとそこには、
「私 対 あなた」ではなく、「私とあなた 対 問い」
という新しいRelationが生まれます。

そして、ときにはその「あいだ」から、どちらも最初には持っていなかった答えが生まれます。
それこそが「結び」なのだと思います。

知識を持つことは大切です。
答えを学ぶことも大切です。

けれど、それ以上に大切なことがあります。
それは、
その答えを、最後の答えにしないこと。
です。

「なるほど」で終わらず、
「では、その先は?」
と、もう一歩進んでみる。
「本当にそうだろうか?」と、観測点を動かしてみる。
「もっと良い出口はないだろうか?」と、未来を見てみる。

倭塾の漫画に登場する「ともこさん」が、まさにこの役回りです。
ともこさんは「その先に何があるのかな?」という問いを発する役割です。

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問いを持ち続けるということは、いつまでも答えが出せないということではありません。
いまの時点での答えを持ちながらも、それを絶対化せず、さらに良い可能性へ向かって歩き続けることです。

だから思うのです。

問いを持ち続ける人は、答えを集める人ではありません。
まだ誰も見たことのない未来を、探求し続ける人です。

——今日も良い一日を♪

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