大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災から、103年が経ちました。この震災をめぐっては、これまでさまざまな歴史認識が語られてきました。けれど歴史を学ぶ目的は、過去の誰かを裁くことだけではありません。当時、何が起きたのか。 どのような情報が流れ、人々はどう行動したのか。 混乱の中で何が壊れ、逆に何が人の命を守ったのか。そして何より大切なのは、「では、次に同じような災害が起きたとき、私たちはどうするのか」という問いです。
今回は、2009年に書いた記事をもとに、当時の新聞や行政記録、震災後の混乱、大川常吉署長の行動などを振り返りながら、関東大震災を「出口設計」という視点からあらためて考えてみたいと思います。

_
■foomii
https://foomii.com/00333/20260901103708157058
1 はじめに
9月1日は、関東大震災が起きた日です。
大正12(1923)年9月1日午前11時58分、関東地方を巨大地震が襲いました。
あれから一世紀以上が経ちました。
この記事の原型は2009年に書いたものです。
当時は、関東大震災をめぐって、日本人が朝鮮系の方々に残虐な振る舞いをしたという一方向の理解が強く流布していたため、私は別の史料を示すことに重点を置いて記事を書きました。今回は、その問題提起を残しつつ、さらに『では次の災害に向けて何を設計するのか?』という出口設計の視点から再構成して、この記事をアップします。とても大事なことです。
歴史を振り返るとき、私たちはつい、
「誰が悪かったのか」
「どちらの主張が正しいのか」
という問いに向かいがちです。
もちろん、事実を確かめることは大切です。
当時どのような記録が残され、新聞が何を報じ、政府や警察や軍がどのように動いたのか。
それらを、後世の都合に合わせて最初から無かったことにしてしまうべきではありません。
一方で、歴史資料に記録された出来事と、そこから導き出す評価とは、分けて考える必要があります。
この記事では、当時の新聞記事や公的な記録などに残された「朝鮮人」「不逞朝鮮人」といった表現も引用します。
しかし、それは朝鮮半島に出自を持つ人々全体を、ひとつの性質を持った集団として語るためではありません。
人は民族名や国籍という「記号」ではありません。
日本人にもさまざまな人がいるように、朝鮮人にも、中国人にも、アメリカ人にも、さまざまな人がいます。
一部の人間が行った行為を、その民族全体の性質として扱えば、歴史を学ぶことが、やがて新しい対立を生み出すことにもなりかねません。
それでは、過去から学ぶ意味がありません。
同時に、「差別につながるかもしれないから、過去の記録そのものを扱わない」という姿勢も、歴史を学ぶ態度とは違うと思います。
大切なことは、事実や記録から目を背けることでも、それを材料に誰かを憎むことでもありません。
「なぜ、そのような事態が起きたのか」
「極限状態のなかで、社会の何が壊れたのか」
「逆に、人々を守ったものは何だったのか」
「そして次の災害では、どうすれば同じ悲劇を防げるのか」
と問うことです。
これは、善悪を決めるための問いではありません。
未来の出口を考えるための問いです。
関東大震災から103年。
首都圏には、再び巨大地震が起きる可能性があります。
だとすれば、関東大震災は単なる昔話ではありません。
過去の出来事を振り返ることの本当の意味は、
「あのとき何が起きたか」を知ることによって、
「次に何を起こさないか」を考えること
にあるのではないでしょうか。
その観点から、今回は関東大震災を振り返ってみたいと思います。
2 関東大震災被害と火災

_
関東に周期的に地震が起きていることはよく知られていることです。
近いところでは、
1703年 元禄地震 死者 約1万名
1782年 天明地震 死者 少数
1855年 安政地震 死者 7,444名
1923年 関東地震 死者 約14万人
などが起きています。
次の地震までのサイクルは、
元禄ー天明 79年
天明ー安政 73年
安政ー関東 68年
関東〜現在 103年経過
であり、もはや関東にはいつ巨大地震がやってきてもおかしくはない状況にあることは、よく知られたことです。
前回の関東大震災は、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東地方で発生しました。
マグニチュード7.9の巨大地震です。
震源地は相模湾北西沖80kmでした。
ただ、被害規模については、前回の関東大震災の死者数が際立っています。
東京の人口は、元禄、天明、安政、関東とも、およそ200万人余で、ほとんど変化はありません。
変化がないのに、どうして元禄地震の14倍、安政地震の19倍もの死者が出たのかというと、これは震災後の火災のためです。
関東大震災においても、地震そのものによる当日の被害は、およそ1万人程度であったといわれています。
ところが、震災後に鎮火したはずの火災が、その翌日から大規模な火災となり、広大な敷地の避難所であっても、そこにいた数万人の人たちが巨大な火炎柱に襲われて、全員焼死しています。
そして震災後の火災による住宅の焼失数は、およそ45万戸に及びます。
少し詳しく見ると、被害概況は次の通りです。
死者・行方不明者 14万2800人
負傷者 10万3733人
避難人数 190万人以上
住家全壊 12万8266戸
住家半壊 12万6233戸
住家焼失 44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他 868戸
大津波を伴った東日本大震災でさえ、死者・行方不明者数は18,456人であったのに、どうして関東大震災のときには14万名余が焼死したのか。
昭和20年3月10日の東京大空襲でも、死者はおよそ10万人余です。
つまり関東大震災における火災は、東京大空襲以上のものであったのです。
なぜ、これほどまでに被害が広がったのでしょうか。
一説によれば、当時の家屋が木造であったためだといいます。
ですが、元禄、天明、安政の頃だって、江戸の家屋は木造です。
人口が違うという人もいるかもしれません。
江戸時代の江戸の人口は(諸説ありますが)おおむね200万人から250万人であったといわれています。
手元に大正9年の東京市の人口の資料があるのですが、それによると、震災当時の東京市の人口は、217万3,201人です。江戸も東京も、人口は大差ありません。
また、地震の発生時刻がお昼どきの炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに折からの台風余波による大風が重なって被害を拡大させたという説もあります。
大風のときに、大火災が発生するということは、江戸時代にも数々あります。
振袖火事と呼ばれた明暦の大火(1657年)では、江戸城の天守閣まで焼失させるほどの大被害をもたらしました。
けれど、死者数は(諸説ありますが)ほぼ正確だと言われている史料でも3万人余。
かなり盛っていると言われている史料であっても、最大で10万人の死者数です。
関東大震災は、それらをはるかに上回る死者数であったわけです。
なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。
関東大震災では、地震による直接の被害としては、浅草の凌雲閣(浅草十二階)が大破、
当時建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊して作業員300余名が一瞬で圧死するなどの被害も発生しています。
また、震源に近い横浜では、官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが、石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊し、ここでも多くの死者が出ました。
日本の民家は木造ですが、これは地震などの災害の際に、
「天災によって家屋が倒壊するのは仕方がない。
その代わり、すぐに復興できるように木造で建築しよう」
という考え方によるものです。
ですから小規模な火災なら、辻ごとに設けられた消火桶で消し止めることができますし、大規模火災に至った場合でも、広大な敷地を持つ施設を近隣の指定避難所とし、日頃から避難訓練を施すことで、火災から生き残る知恵を身に着けていたのです。
過去における震災の死者が少ないのは、このことが理由です。
関東大震災では、震災発生直後に、ほぼ同時発生した139件の火災が史料でも確認されています。
しかしこの火災は、全部、地域の人々によって、震災直後に消し止められています。
つまり震災発生直後に、数千から1万人弱の死者は発生したものの、その時点では、死者はわずかなものであったはずなのです。
ところが、震災の翌日、避難所となっていた広大な敷地に、地震の「翌日」に火災のための火炎柱が襲い、避難していた人々を、まるで炭のように丸焼けにしてしまいました。
たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区内)にあった本所区被服廠は、2万430坪もある広大な敷地内に4万人近い人が避難していました。
ところがその避難所を火炎柱が襲ったのです。
ここだけで3万8千人も亡くなっています。
集まっていたのは、もちろん地震による家屋倒壊等によって避難を余儀なくされた人たちです。
安全だから、被服廠にいたのです。
そこを震災後に「消し止めて終わっていたはずの火災」が襲ったのです。
関東大震災による死者数が、著しく多いのは、これが理由です。
ではなぜ、鎮火したはずの火災が、火災が鎮火して住んでいる人たちも全員避難所に去ってしまったあとに人々を襲ったのでしょうか。
3 震災後の混乱と不逞朝鮮人に関する記録

_
実は、震災後、人々が避難所に逃げている間、誰もいないはずの街で、爆弾を使った建物破壊や放火が次々と起きています。
いったい誰がそんな不埒なことをしたのでしょうか。
以下に掲げるのは、当時実際に発行された新聞や行政文書に残された記録です。
もちろん、非常時の報道には誤報や未確認情報が含まれる可能性がありますから、新聞に書かれていることのすべてを、そのまま確定した事実とみなすことはできません。
しかし同時に、当時どのような情報が流れ、それを受けて政府・警察・軍・住民がどのように行動したのかを知るうえで、これらが重要な歴史資料であることも間違いありません。
「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」(小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
「朝鮮人、各所暴動検束数千名」(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
「朝鮮人、横浜~王子放火」(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)
「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」(荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」(新愛知 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」(名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)
「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」(小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)
「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。
軍隊が治安維持に出動したため、
不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」(九州日報 大正12年9月4日号外第三)
「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)
関東の地震なのに、報道は地方のものばかりですが、これには理由があります。
当時、新聞社は、東京に一極集中していました。
この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞を印刷していました。
地震のとき、東京にあった新聞社では活版印刷のための活字ケースが地震で倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまったのです。
加えて、東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13あった新聞社が、すべて社屋を焼失してしまいました。
このため、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付の夕刊を発行するまで、首都の報道機能は、印刷という工程において完全に麻痺してしまっていたのです。
そこで大手新聞社の記者や、地方新聞の東京、横浜などの支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある新聞社に連絡し、それを印刷機能が残っていた地方の新聞社が印刷して、各地での号外となっていたわけです。
当時の新聞記事には、震災後の混乱の中で、一部の朝鮮人による連続放火、略奪、暴行、婦人凌辱、さらには爆弾を用いた犯罪までが起きていたとの報道が数多く残されています。
なかには、爆弾まで使って放火や略奪、窃盗をしていた者まであり、これにはやむなく陸軍が出動して鎮圧を行ったという記事まであります。
これらすべてをそのまま確定した事実とすることはできませんが、少なくとも当時、そのような事態が治安上の重大問題として認識されていたことは読み取れます。
このときの内閣は、山本権兵衛内閣です。
山本総理は震災の翌々日に「公式発表」を行っています。
「不逞な朝鮮人については、
三々五々群を為して放火を遂行、
また未遂の事実があるが、
既に軍隊の警備が完成に近づきつつあり。
国民のみなさんは、恐れないでください。」
これは政府による公式発表です。
少なくとも当時の政府が、単なる風説としてではなく、治安上の実在する問題として認識し、軍や警察を動かしていたことは確認できます。
最近では関東大震災において「朝鮮人による凶行はデマであった」という風説がまかり通っています。
けれど、それらすべてがデマだったと一括して処理することにも慎重であるべきです。
「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」
「不逞ではない朝鮮人保護のため、
警視庁は取締りを完全に遂行せよとの急告通達を出した」(大阪毎日新聞)などの報道があります。
実際に当時、軍も警察も暴動の鎮圧に乗り出しているのです。
現代日本人よりも、はるかに日本人の徳性が高かった時代です。
その時代に、東日本大震災に匹敵する大地震が起きたとして、普通の日本人がそこで暴行や傷害、窃盗、放火、強姦、殺戮などの凶行をするでしょうか。
軍隊を出動させなければならないほどの凶行を日本人が起こすでしょうか。
もし、日本人の習性に、そのような凶暴性があるのなら、東日本大震災や阪神淡路大震災においても、掠奪、放火、強盗、強姦などの事件が多発したはずです。
けれどもそれがない。
少なくとも、「震災時の混乱だから自然に起きた」とだけ説明して終えるには、なお検討すべき記録が多く残されているといえます。
当時、警察には、繰り返し多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。
一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成しました。
不逞朝鮮人たちによる暴行に備えたのです。
一方、山本権兵衛内閣は、「不逞鮮人では無い朝鮮人」の保護を閣議決定し、彼らの収容を決定しました。
警察では、警視総監の赤池濃(あつし)氏が、
「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、水野錬太郎内務大臣に「戒厳令の発布」まで建言しています。
戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。
「東京付近の震災を利用し、
朝鮮人は各地に放火し、
不逞の目的を遂行せんとし、
現に東京市内に於て爆弾を所持し、
石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、
各地に於て充分周密なる視察を加え、
朝鮮人の行動に対しては
厳密なる取締を加えられたし。」
更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「朝鮮人の中の不逞の挙について、
放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、
現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして
警戒上違算無きを期せられたし。」
と打電しています。
暴徒と化した不逞朝鮮人を、日本人は恐れました。
そして自然発生的に若者たちを中心とした自警団が生まれました。
そして自警団は、町に「関所」を設けて、町内や、避難所の安全を確保しました。
関所では、朝鮮語に語頭に濁音が来ないことから、「十五円五十銭」とか「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払ったりしています。
なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者まで追い払われてしまったという不幸な出来事も起こりました。
そして発音のできない者たちが、集団で関所を強硬突破しようとして、争いが起こったり、関所を避けて避難所内に侵入した凶行犯と、自警団がもみ合いになったりという事件が、そこここで起こっています。
以前にも書きましたが、世界中どこの都市でも、何事もない平時においては、人々は普通に仲良く暮らしています。
町には笑顔があり、歌や音楽があり、買い物客があふれ、ビジネスマンが忙しそうに働いています。
そんな光景や姿は、世界中、どこも同じです。
問題は、震災などが起きた異常時です。
大規模災害では、世界各地で治安悪化や略奪などが問題となった例があります。
一方、日本では大災害時にも、比較的秩序だった助け合いが見られてきました。
ところがそんな日本で、略奪暴行傷害強盗強姦放火が多数起こったのです。
そして平時には秩序を重んじる日本人が、自警団まで組んでいます。
これは、震災直後の日本人が、そうしなければならないほどまで「追いつめられていた」ということです。
4 対立の間で

_
横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。
普通なら、警察がいっぺんに300人も保護するなどということはあり得ません。
1 一部の不逞朝鮮人が悪行を働いた。
2 やむなく日本人が自警団を組んだ。
3 朝鮮人居留区への報復攻撃が行われると、事態がさらに混乱する虞れがある。
4 だからやむをえず警察が朝鮮人を保護した、という流れです。
案の定、警察が保護したことを知った地元の自警団約1000人が、犯行を行った朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきました。
署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。
この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり私が諸君らと命の続く限り戦う」とまで言って自警団の人たちを追い返しています。
さらに大川署長は、
「毒を入れたというなら、その井戸水を持ってこい。その井戸水を俺が飲んでみせよう」
とまで言って、その場で一升ビンの水を飲み干したりもしています。
こうして署長は、朝鮮人たちを守りました。
たとえ、同胞が殺されたとしても、あくまでもそれは個人の犯罪であり、民族で十把一絡げにしてはいけない・・・これは古来変わらぬ日本人社会の姿勢です。
軍隊も多くの朝鮮人を保護しています。
また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
これにより、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名にも及びました。
これは、当然のことであろうと思います。
手を出せば、その手を出したことについて、取締がなされる。
これは治安を維持する上で、当然のことだからです。
ただし、それが有罪であるか否かは、また別な問題です。
毎度書いていることですが、「挑発」を受けて、つまり先に被害にあって、これに対応して武力を行使するのは、暴力ではなく、正当な生存権保持のための自衛行為です。
喧嘩を売られて、やむなく相手を殴り倒して怪我をさせたとしても、そもそも因縁つけて喧嘩を売ってきた方が悪いのです。あたりまえのことです。
本来、震災時にあっては、互いに助け合い、被災者の救助や火災の延焼をみんなで協力して防がなければなりません。
また怪我人を救出したり介抱したり、老人、婦女、子供たちの安全を確保し、食料や水の確保や、安心して用便ができる環境をつくったり、風呂などの用意をしたりと、互いに協力しあって、ひとりでも多くの人が救出され、また安全を確保できるようにしていかなければなりません。
けれど、そういうことがあたりまえに出来るということが、日本にとっては常識だけれど、これまた世界では非常識です。
さらにいえば、生き残った日本人が互いに助け合おうと努力しているところを、一緒に助け合うどころか、逆に暴徒となって日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦し、放火する。
あるまじき行為ですが、そういうことを、混乱時だからこそ、喜んでやってしまう人たちがいたということは、今後においても、しっかりと考え、対応しなければならないことだと思います。
横浜の鶴見警察では、大川署長の男気で、日本人自警団たちも、納得し解散しています。
大川署長が守ろうとしたのは、「日本人か朝鮮人か」という記号ではありません。
治安であり、そこにいる一人ひとりの人間の命です。
実に立派な行動であったと思います。
けれど、似たようなケースで、戦後の混乱期には、警察署そのものが襲撃され、放火されて丸焼けにされたというケースが何件もありました。
関東大震災の問題が再燃したのは、関東大震災から30年経って、人々の記憶から当時の不逞朝鮮人の凶行の記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。
タイミングとしては、ちょうど日本がサンフランシスコ講和条約によって主権を回復した翌年にあたります。
それまで占領統治の、というか植民地統治のセオリーである、「その国内にいる少数民族を手なずけ特権を与えることで、言葉の通じない当該国の民衆を支配する」という古来変わらぬ植民地統治の手法で、朝鮮人たちが厚遇され、また、この頃に終わった朝鮮戦争によって、大量の朝鮮人難民が日本にやってきていました。
難民たちは不法入国者ですが、朝鮮戦争当時の日本には主権はありません。
難民が押し寄せてきても、これを武力を用いて追い払うことも、逮捕投獄することもできません。
ですから、数十万人が日本に上陸していました。
そうした人たちは、本来であれば不法入国者ですから、朝鮮戦争が終わり、半島内の治安が回復した時点で、朝鮮本国に送り返さなければならない人たちでした。
ところが朝鮮半島は、身分差別の著しいところです。
帰れば、「こいつらは俺たちが戦っているときに敵前逃亡して逃げた奴らだ」とののしられるし、戦争が終わったと言っても、いつまた政府によって殺されるかわからない不安な状態にありました。
だからなんとかして日本に残りたかった。
そのために、自分たちはもとから日本にいて、日本人によって差別されてきた弱者だと、突然、本末転倒の主張を繰り広げ始めたのです。
それが当時の在日朝鮮人たちによる、
「関東大震災のときに朝鮮人たちがいわれなく6000人も殺された」と言うデマです。
そもそも6000人という人数自体、いきなり降ってわいたような何の根拠もない数字です。
それをいうなら、6000人という曖昧な数字ではなくて、具体的に何名が殺されたのか。
そのひとりひとりはいかなる状況で亡くなったのか、具体的に特定をしていただきたいものです。
そもそも当時、一部の朝鮮人による放火や暴行を伝える記録が存在するのです。
ただし、それらが震災後の火災全体にどこまで影響したのか、また犠牲者総数との因果関係をどこまで認めることができるのかは、別途慎重に検討しなければなりません。
人は、極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、同じパターンの行動をとります。
小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口で泥棒をします。
喧嘩でも、大声を出す人は必ず大声で怒鳴りちらすし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手をあげます。
ところが日本人は、過酷な状況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
旧日本軍の軍人さんたちがそうでしたし、近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンがみられます。
むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりします。
教育とかそういう次元の問題ではなく、これは長い歴史の中で育まれてきた文化的な行動規範のひとつなのかもしれません。
5 関東大震災から私たちが学ぶべきこと

_
関東大震災について考えるとき、もっとも重要なことは、「誰が悪かったのか」だけで、この歴史を閉じないこと
です。
なぜなら、過去を裁くことはできても、それだけでは次の震災で誰ひとり救うことができないからです。
さらに出口設計では、もうひとつ先を問います。
「では、次に同じことが起きたとき、どうするのか」
地震を止めることはできません。
台風も、津波も、火山噴火も止められません。
けれど、
建物を強くすることはできます。
避難路を整えることもできます。
食料や水を備蓄することもできます。
情報が途絶えたときの連絡手段を準備することもできます。
行政、警察、消防、自衛隊、医療機関、地域住民の役割を、平時から決めておくこともできます。
そしてもうひとつ。
災害時に最も恐ろしいもののひとつが、社会そのものの混乱です。
通信が途絶えれば、情報が不足します。
情報が不足すれば、噂が生まれます。
噂に恐怖が結びつけば、人は他者を「危険な集団」として記号化しやすくなります。
逆に、実際に犯罪や暴力行為が発生した場合、それを「差別になるから」と曖昧に扱えば、今度は被害を受ける人を守れません。
つまり、この二つは、どちらか一方を選ぶ問題ではありません。
犯罪は、行為として厳正に取り締まる。
しかし、その犯罪を民族や国籍全体の属性にしない。
この二つを同時に成立させる社会を、平時から設計しておくことです。
それこそが出口設計です。
たとえば次の巨大地震が起きたとします。
そのとき、「外国人だから危険だ」ではなく、
「危険な行為をしている人には、誰であれ対処する」という仕組みがはたらく。
同時に、「外国人だから守らなくてよい」でもなく、助けを必要としている人は、国籍にかかわらず助ける。
そういう社会でありたいのです。
関東大震災の際、大川常吉・鶴見警察署長が示した姿勢は、その意味でも考えさせられます。
治安を守る。
犯罪があれば取り締まる。
しかし、集団への報復は許さない。
目の前にいる人間を、人間として守る。
極限状態だからこそ、その両方が必要になるのです。
そしてこれは、警察や政府だけの問題ではありません。
私たち一人ひとりにも関係します。
大災害が起きたとき、
隣の家のお年寄りは避難できるだろうか。
子供たちは安全だろうか。
水はあるだろうか。
トイレは使えるだろうか。
薬が必要な人はどうするのか。
スマートフォンが使えなくなったら、家族とどう連絡するのか。
避難所で外国語しか話せない人がいたら、どうするのか。
デマが流れたとき、何を根拠に判断するのか。
こうしたことは、震災が起きてから考えるのでは遅いのです。
日頃から、ちゃんと備えておかなければならないことです。
出口設計は、「そのとき何とかする」ことではありません。
「そのとき、どうなっていたいのか」を今から問うことです。
歴史は、未来を予言してくれるものではありません。
けれど、「こういう条件が重なると、人間社会ではこういうことが起こり得る」という経験を、私たちに残してくれています。
だから歴史を学ぶということは、過去の人を裁判にかけることではありません。
その経験を受け取り、
「では私たちは、次にどんな社会をつくるのか」と未来へ問いを返すことです。
関東大震災から103年。
次の巨大地震は、いつ起きるかわかりません。
明日かもしれないし、十年後かもしれない。もっと先かもしれない。
答えは誰にもわかりません。
しかし、問いはいま持つことができます。
大地震が起きても、人々が助け合える社会になっているか。
行政や警察や消防が、混乱のなかでも機能できる仕組みになっているか。
犯罪には毅然と対処しながら、無実の人を集団で敵視しない社会になっているか。
そして災害のあとにも、みんながもう一度立ち上がれる出口が用意されているか。
地震そのものは、防ぐことができません。
けれど、その後にどんな社会が現れるかは、今日の私たちの選択によって変えることができます。
だから9月1日に関東大震災を振り返る意味は、
恐怖を思い出すことでも、誰かへの憎しみを受け継ぐことでもありません。
過去から責任を受け取り、未来へ手渡すことにあります。
歴史から受け取った問いを、次の世代へ、悲劇ではなく知恵として手渡す。
それが、関東大震災という歴史に対して、いまを生きる私たちができる「出口設計」なのだと思います。
_
📘倭塾LINE
倭塾LINEには、本編だけでなく、ちょっと笑える「番外編」もあります。

_
■新刊 大好評発売中
これが私の集大成本です。
『思想の時代は終わった』
https://amzn.to/3P5D0lS

_


