私たちは、問題が起きると「どちらが正しいのか」「誰が勝ったのか」を求めがちです。けれど、勝敗が決まっても、人と人との関係はその先も続いていきます。ならば本当に考えるべきなのは、誰を勝たせるかではなく、その出来事のあとに、どのようなRelationを残すのかではないでしょうか。負けた人にも次の一歩があり、勝った人にも次の責任がある。今回は、剣術や戦後の観戦文化も手がかりに、「みんなが次へ進める出口」とは何かを考えます。

今日のひとこと・良い出口は、誰かの敗北ではなく、みんなが次へ進める場所にある。

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良い出口は、誰かの敗北ではなく、みんなが次へ進める場所にある。

私たちは、何か問題が起きると、つい「どちらが正しいのか」を決めようとします。
こちらが正しい。
あちらが間違っている。
そして正しい側が勝ち、間違った側が負ければ、問題は解決したように思い込まされています。

けれど、本当にそれで問題が解決したのかというと、これがぜんぜん違う。
負けた側には、不満・悔しさ・屈辱が残ります。
度重なれば、それは恨みとなり、相互不信となり、やがて別な対立の種になります。

つまり、勝敗が決まったことと、問題が解決したことは、必ずしも同じではないのです。
「勝つこと」と「出口」は違うのです。

たとえば、家族で意見がぶつかったとします。
一方が相手を言い負かして、
「ほら、私の言った通りでしょう」
となれば、勝敗がついて、議論は終わりです。

けれど相手が、
「もう何を言っても無駄だ」
と心を閉ざしてしまったなら、その勝利は、家族の関係というもっと大切なものを傷つけています。

職場でも、学校でも、地域でも、国家間でも同じです。

目の前の勝敗だけを出口にすると、
勝った人は前へ進めても、負けた人はその場所に取り残されるのです。
すると、そこで生まれたしこりが、次の問題を生みます。

だから出口設計では、
「どちらを勝たせるか」だけではなく、
「この出来事のあと、みんながどうやって次へ進めるのか」
を考えます。

ここで大切なことは、
「全員の希望をかなえる」ことではありません。
そんなものは、現実の社会では、無理です。

誰かの提案が採用され、別の人の提案が採用されない。
試合なら、勝者と敗者があり、選挙なら、当選する人と落選する人がいます。

けれど、それらは提案や試合や選挙の結果であって、
敗れた人そのものを否定したものではありません。

「今回はこの案になった。
 でも、あなたの意見にも大切なところがあった。
 そこは次に活かそう」

そう言える関係性の維持が大事なのです。
そうすれば、意見が通らなかった人も次へ進むことができます。

勝った側も、
「自分たちが正しかった。だから相手は黙っていろ」ではありません。
「では、この結果から一緒に何をつくっていこうか」
と考えることが大事です。
ここに、勝敗を超えた出口があります。

江戸の昔、剣術でも柔術でも、試合がありました。
他流試合もありました。
いまでは、客席を盛り上げるために、試合前のインタビューから、互いに挑発行動を取り、また試合中は大勢の観客が声を枯らして大声で声援を送るのが常識です。
けれど江戸時代の試合では、試合前の挑発なんてなかったし、試合中も、両選手こそ声を出すことが許されましたが、見学者(ギャラリー)や控えの選手は、試合中、いっさい声を出すことは禁止でした。
応援は心のなかで行うものであって、声を出すことはむしろ試合の邪魔とされました。

試合ですから、もちろん勝敗はあります。
剣術の場合、試合の多くは木刀か竹刀で行われましたが、木刀の試合は真剣とは異なります。
これは、実際に道場に行って、真剣を手にすれば、誰でもわかることです。
木刀で勝っても、真剣で勝てるとは限らないのです。

もちろん、なかには真剣での勝負もありました。
この場合、敗れた側は死ぬことになります。
時代劇なら、ズバッと斬って、相手が倒れてオシマイですが、現実はそんなに甘くありません。

肩からへそにかけて、見事に袈裟斬りに斬る。
あるいは、胴を横に払う。
それでも、斬られた瞬間に相手の身体が完全に動かなくなるとは限りません。
最後の一撃を返される可能性があるのです。
すると、相打ちになります。
斬った自分も命がないのです。

もちろん、大上段から相手の脳を真っ二つに割れば、相手は即死します。
けれど、そのとき相手が胴を払ってきたら・・・。
近接戦なのです。
この場合も、相打ちになります。

要するに、試合は試合でしかないのです。
あくまでも自分の技量を磨くためのものであり、そこで勝ったからといって強いということではないのです。

少なくとも私が知るかぎり、昭和20年代頃までの剣道や柔道では、いまのスポーツ観戦のように、試合場で観客が大声をあげて応援する光景は一般的ではありませんでした。
それが戦後、力道山らのプロレスや野球がテレビ中継されるようになると、「みんなで声をあげて応援する」という新しい「観戦文化」が、急速に広がっていきました。
むしろ初期の頃は、この「観戦文化」そのものが、多くの日本人にとってまだ馴染みの薄いもので、コンサートやプロレス会場でさえも、最後までシンと静まり返った中で試合が進められ、外国人選手が「日本人はどうして静かなのか」と不思議がったほどでした。

これが変化したのが、テレビの普及からです。
初期の頃は、テレビは一家に一台ではなく、蕎麦屋さんや食堂の店内に一台でした。
ですから、野球やプロレスの試合の日には、大勢のお客さんたちがお店に集まってきて、みんなでテレビの前で応援しました。
もちろん一杯飲みながらですし、そこではいくら大声で声援しても、中継ですから選手の邪魔になることはありません。
だからみんなで大声で声援を送りました。

日頃からの常連さんたちの集いです。
そうした声援は、常連さんたちの関係性の良好化にもつながるものでした。

ここで面白いのは、同じ「大声で応援する」という行為でも、
道場では試合を妨げるものとなり、
テレビの前では人と人を結ぶものになったことです。
行為そのものに意味が固定されているのではありません。
どのような「あいだ」に置かれるかによって、その意味が変わるのです。

人間の社会では、出来事が終わっても、人と人との関係は続きます。

だから本当は、
「誰が勝ったか」
だけではなく、
「その出来事のあとに、どのようなRelationが残るのか」

が大事だし、そこまで考えて行動しなければなりません。

勝者と敗者、賛成派と反対派、多数派と少数派など、
Entityだけを見れば、世界は対立して見えます。

けれど「人間」というのは、「人の間」と書きます。
観測点を「あいだ」に移すと、
「この人たちは、この先どんな関係を築いていくのだろう」
という別の問いが見えてきます。

すると出口も変わります。

相手を倒すことではない。従わせることでもない。
違いを残したままで、
それでも次へ進める道をつくる。

そこが大事になります。
それが、Relationから考える出口設計です。

「争いのない社会を」なんて言葉があります。
コピーとしては、たいへんに印象深い言葉ですが、そのような社会は、おそらく未来永劫、つくることはできません。

なぜなら、人には、それぞれ違う考えがあるからです。
経験も、立場も、願いも異なるのです。
だから、意見の衝突そのものがなくなることは、絶対にありません。

大切なことは、衝突が起きたときに、

誰かを叩き潰して終わるのか。
それとも、その先へみんなが進める出口を探すのか。

その違いです。

良い出口とは、全員が同じになる場所ではありません。
全員が同じ意見になる場所でもありません。

それぞれが違ったままで、
「では、ここから先へ行こう」
と言える場所です。

勝者だけが未来へ進み、敗者を過去に置き去りにするのではないのです。
負けた人にも次の一歩があり、
勝った人にも次の責任がある。

そんな出口を考えることができたとき、対立は「終わり」ではなく、新しい関係をつくる出発点になります。

良い出口は、誰かの敗北の先にあるのではありません。
みんなが、それぞれの次の一歩を踏み出せる場所にある。

それこそが、最後にみんなが笑顔になれる未来へ向けた「出口設計」なのだと思います。

——今日も良い一日を♪

出口設計、良い出口

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