「こんなことを聞いたら、知らないと思われるのではないか」。そんな思いから、質問することをためらった経験はないでしょうか。けれど、「問い」が生まれるということは、知らないことの証ではありません。それまで当たり前に見過ごしていた何かに気づき、「もっと知りたい」「もっとわかりたい」と心が動き始めた証です。そして問いには、もうひとつ大切な働きがあります。それは、**自分がいま立っている場所から観測点を動かすこと。**相手の立場へ。過去へ。未来へ。「なぜだろう?」という小さな問いから、それまで見えなかった世界への扉が開いていきます。
今日は、「問いを持つ」ということの本当の意味について考えてみたいと思います。

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問いは、知らないことの証ではなく、知ろうとする心が動き始めた証。
学校では、先生が質問をして、生徒が答えます。
正解すれば○。
間違えれば×。
その経験を重ねているうちに、私たちはいつの間にか、
「答えを知っている人は賢い」
「知らない人は恥ずかしい」
と思うように刷り込まれています。
だから大人になっても、
「こんなことを聞いたら、知らないと思われるのではないか」
と、質問することをためらったりすることがあります。
けれど、本当は逆なのです。
「問い」が生まれるということは、そこに何かがあることに気づいたということです。
なぜなら、知らなければ、問いさえ生まれないからです。
たとえば毎日見ている空を見て、
「どうして空は青いのだろう?」
と思った瞬間、それまで何気なく見ていた空が、まったく違うものになります。
歴史も同じです。
「何年に、何が起きた」を覚えるだけなら、ただの知識です。
けれど、
「なぜ、その出来事は起きたのだろう」
「そのとき、人々は何を考えていたのだろう」
「相手の側から見たら、どんな景色だったのだろう」
「その結果、何が生まれたのだろう」
と問い始めた瞬間、歴史は暗記科目ではなく、私たちがいまを生きる知恵になります。
さらに、「問い」には、もうひとつ大切な働きがあります。
それが、「観測点を動かす」ということです。
「私は正しい」
と思っているうちは、自分の場所からしか世界を見ていません。
けれど、
「相手には、どう見えているのだろう?」
と「問い」を持った瞬間、観測点が自分から相手へと動きます。
「なぜ、こんなことになったのだろう?」
と問えば、観測点は現在から過去へ動きます。
「このまま進んだら、どんな未来になるのだろう?」
と問えば、観測点は未来へと動きます。
つまり「問い」は、単に答えを得るためのものではなく、
「いま自分が立っている場所から、一歩外へ出るための入口」でもあるのです。
だから「わかりません」と言えることは、決して恥ずかしいことではないし、
むしろ、「なぜだろう?」と感じることができたなら、そこからが学びの始まりなのです。
そして、本当に深い問いほど、すぐには答えが出ないものです。
人はなぜ生きるのか。
幸せとは何なのか。
平和とは何なのか。
人と人は、どうすればわかり合えるのか。
生命とは、魂とは。
これらは何千年もの間、人類が問い続けてきた「問い」です。
けれど、いまだ誰もが納得するひとつの答えにはたどり着いていません。
だからといって「問い」に意味がないわけではありません。
むしろ、問い続けてきたからこそ、人類は少しずつ世界を見る観測点を増やしてきたといえるのです。
大切なことは、早く正解にたどり着くことではありません。
「問いを持つこと」です。
そして、その問いを抱えながら、考え、学び、誰かと語り合うこと。
そこから新しい気づきが生まれます。
問いは、無知の印ではありません。
「もっと知りたい」
「もっとわかりたい」
と、心が動き始めた印です。
そして、その小さな心の動きから、昨日まで見えなかった新しい世界への扉が開いていくのです。
だから「問い」は、知識を増やす入口である以上に、自分の世界を広げる入口なのです。
——今日も良い一日を♪
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