目の前の出来事だけを見ていると、それが世界のすべてに見えてしまうことがあります。けれど、時間を置き、観測点を過去・現在・未来へ動かしてみると、同じ出来事からまったく別の景色が見えてきます。余白とは、単なる「心のゆとり」ではありません。いま立っている場所から一度離れ、観測点を動かし、まだ見えていない景色を見つけ、未来の出口を選び直すための空間です。では、その「余白」を持つことで、私たちの世界の見え方はどう変わるのでしょうか。

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余白があると、答えのなかった出来事にも、別の景色が見えてくる
生きていると、そのときには意味のわからない出来事ってあります。
どうしてあんなことが起きるのだろう。
どうしてあの人はあんなことを言ったのだろう。
どうして自分はあのとき、あんな選択をしたのだろう。
いくら考えても答えが出ないし、自分で納得もできない。
そんな出来事は、誰にでもあるものです。
ところが不思議なことに、何年か経ってから振り返ると、
「ああ、そういうことだったのか」と、まったく違う景色が見えてくることがあります。
出来事そのものが変わったわけではありません。
過去を書き換えたわけでもありません。
変わったのは、それを見る自分の立ち位置です。
「答えがなかった」のではなく、
そのときの自分が立っていた場所からは、まだ見えていなかったのです。
時間の経過で、余白が生まれて、観測点が動いたのです。
だから同じ出来事なのに、まったく違う景色が見えてきたのです。
日月神示に、「大洗濯(おおせんたく)」という言葉が出てきます。
これはこの世のただの破壊ではなく、世界をすり鉢に入れて練り直すような、激しい大変動なのだそうです。
そして「大洗濯」は、三つの洗濯が同時進行的に起きるとされています。
①日本国内の洗濯、②外国の洗濯、そして③世界全体をひっくるめた洗濯です。
何が起きるかというと、天と地が入り混じるような凄まじい自然災難が起き、旧来の仕組みや価値観が大きく揺さぶられ、陸が海になり、海が陸になるほど地形が変化する。
そしてこれが、日本人を含めて、一人ひとりの心が「神の心(調和・奉仕)」と「獣の心(エゴ・欲望)」に分かれる正念場とされます。
だから「この世は終わるのだ」と心配される方もおいでになります。
そこで立ち位置、つまり観測点を変えてみます。
いまの自分の財産といった執着を手放して、世界を10年単位、100年単位、千年単位で俯瞰してみるのです。
たとえば海面上昇について考えてみます。
南極の氷がすべて失われれば、世界平均海面を約58m、グリーンランドなら約7m押し上げるだけの氷があります。
こうした数字だけを見ると、途方もない恐怖を感じます。
そこで、観測点を「時間」の方向へ動かしてみます。
これらは今世紀中にすべて溶けるという話ではありません。
巨大氷床全体の変化は、千年、数千年、さらに長い時間を含む問題です。
IPCCが2100年までについて示している世界平均海面上昇は、排出量によって幅がありますが、おおむね数十センチです。
高排出シナリオの「可能性が高い範囲」の上端でも約1mです。
しかも海面が上昇したからといって、人類がただ黙って都市が沈むのを待つわけではありません。
オランダのように、堤防、水門、排水設備などによって、海面より低い土地に都市を維持している国もあります。
つまり、「海面が上昇する」という一枚の観測面だけでは、未来は決まらないのです。
観測点を未来に動かしてみれば、むしろ大切なことは、
自然がどう変化するか。 それに人間がどう応答するか。
この二つを重ねて考えることで、未来についても、少し余裕を持って考えられるようになります。
このことを日月神示に重ねて考えてみると、「大洗濯」をただちに地球上の人類が抹殺されるという意味に受け取る必要はないように思います。
もちろん、大洗濯は、水害だけではありません。
戦争などの人災もありますが、ただ単に恐怖に怯える必要はないのです。
だからこそ、ちゃんと冷静に考える必要があるのです。
けれど、出来事の真ん中にいると、いきおい、人の心から余白が消え失せます。
そりゃあそうです。
つらいし、悔しい。
どうして自分だけがって思います。
そうした思いで心がいっぱいになっていると、目の前にあるものだけが世界のすべてに見えてしまいます。
けれど時間が経ち、心に少し余白が生まれると、別のものが見えてきます。
あの失敗があったから、学べたこと。
あの別れがあったから、出会えた人。
あの遠回りがあったから、気づけたこと。
過去の「失敗」や「つらかったこと」が、いま思えば人生の大切な転換点になっている。
つまり、観測点を「いま」ではなく、「未来」に置くと、いま目の前にある「つらいこと」や「苦しいこと」が、違ったものに見えてくるのです。
政治活動でも同じです。
ある政党が街頭演説のたびに激しい妨害を受けているとします。
妨害や批判の渦中にいると、人はどうしても目の前の相手との勝ち負けに観測点を固定してしまいがちです。
罵声を浴びせられれば腹が立つ。
挑発されれば言い返したくなります。
けれど、そこで相手と同じ土俵に降りてしまえば、高い志から始めた活動まで、外からは同じ争いに見えてしまいます。
だから必要なのは、「どう言い返すか」ではありません。
自分たちは、どんな未来をつくろうとしているのか。
そこへ観測点を戻すことです。
目の前の挑発に勝つことが目的なのではない。
目指す未来へ到達することが目的なのです。
大切なことは、「いま」の苦しさだけで、出来事の意味を決めてしまわないことにあります。
ひとつの観測点から見えた、いまの「苦しい」景色だけが、世界のすべてではないのです。
少し離れて見る。
未来から見る。
観測点を動かすことで、同じ出来事の中に、それまで見えなかったものが現れてきます。
そのために必要なこと。
それが、心の「余白」です。
答えを急がない。
すぐに善悪を決めない。
わからないものを、「わからないまま」いったん置いておく。
それも、ひとつの知性です。
人生の出来事には、その場ですぐに答えが出るものばかりではありません。
むしろ、ずっと後になって初めて意味が見えてくることもあります。
だから、今日わからないことに、今日すべての答えを出さなくてもいい。
目の前の出来事に拘泥するのではなく、
そういうときにこそ、心に少し余白を残す。
そうすることで、いつか観測点が変わったとき、
「あの出来事には、こんな景色もあったのか」と気づく日が必ずやって来ます。
余白とは、何もない空間ではありません。
まだ見えていない景色が見えるようになるための場所です。
つまり余白とは、単なる「心のゆとり」ではなく、
観測点を過去・現在・未来のあいだに自由に移動するための空間なのです。
余白があるから、観測点を動かせるのです。 観測点を動かせるから、別の景色が見えるのです。 別の景色が見えるから、出口を選び直せるのです。
——今日も良い一日を♪
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