意見が違えば、つい「あなたが正しいのか、私が正しいのか」と考えてしまいます。けれど、本当に選択肢はその二つだけなのでしょうか。違いを消すのでも、妥協するのでもなく、その「あいだ」から、それまでなかった第三の可能性を生み出す。今日は、「私」でも「あなた」でもない「私たち」という新しい主語を生み出すRelationについて考えます。

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Relationが生まれると、「あなたか私か」だった世界に、「私たちなら」という新しい選択肢が生まれる。
私たちは、何か意見が対立すると、あなたの意見が正しいのか、私の意見が正しいのかと、つい「どちらが正しいのか」という対決モード(笑)になってしまいます。
あるいは、あなたの希望を通すのか、私の希望を通すのかと、対決する。
特に男性には、この傾向が強いかもしれません。
で、ダンナがいつもこの調子で「オレが決める」とばかりやっていると、奥さんの中に徐々にストレスが積み上がり、ある日、それが巨大噴火となってダンナを襲う!(笑)
まあ、冗談はさておき、
私たちはいつの間にか、「あなたか、私か」という二者択一をしているし、世界もまた、それぞれの対決を前提とした構造になっているようにも見えたりします。
けれど、そもそも選択肢って、本当にその二つしかないのでしょうか。
今日は、そこから少しだけ観測点を動かしてみたいと思います。
たとえば、二人で旅行に行くことになったとします。
子どもたちが「海に行きたい」と言う。
ママは、「山に行きたい」。
ここで、「どちらに行くか」を決めようとすると、話は海対山になります。
多数決なら、どちらかが勝つ。
話し合って妥協するなら、
「では今回は海にして、次回は山にしよう」となるかもしれません。
ここで爺ちゃんが、「ワシは呑みに行きたい」と言い出すと、話がややこしくなる🤣
けれど、ここで話を戻して、観測点をすこし移動してみます。
海か、山か
という二者択一ではなく、
「どうして海に行きたいの?」
「どうして山に行きたいの?」
と変えてみるのです。
海に行きたい人は、
「広い景色を見ながら、のんびりしたい」
と言うかもしれません。
山に行きたい人は、
「自然の中で、のんびりしたい」
と言うかもしれない。
すると、あれ?
二人が求めていたものは、ともに、のんびりしたい?!
そんなに違わなかったことに気づきます。
だったら、
海の見える高原の温泉に行こうか。
そんな第三の案が出てくるかもしれません(笑)。
最初の二人の頭の中にはなかった選択肢です。
(とりあえず爺ちゃんの「呑みに行きたい」も叶いそうだし🤣)
ここがおもしろいところです。
「海の見える高原の温泉」という案は、最初からあったわけではありません。
海に行きたいという思い。
山に行きたいという思い。
その二つが出会ったときに、互いにその理由(わけ)を聞いて、その「あいだ」に新しいものを生んだのです。
これが、ここでいうRelationです。
リレーション(Relation)は、一般には「関係」「関係性」などと訳されます。
もちろん英語のRelationも文法上は名詞です。
けれど、ここでは「関係がある」という「固定された状態」ではなく、
「あなたと私」の「あいだ」で起きる「動き」に観測点を置くために、あえてRelationという言葉を概念として使わせていただいています。
ですから、ここでいうRelationは、単に「仲良くしましょう」ではありません。
あなたと私が存在しているというだけなら、まだ二つのEntity(個体)です。
けれど、あなたの思いが私に届き、
私の思いがあなたに届き、
互いが互いによって少しずつ動き始める。
すると、そこに「あいだ」が生まれます。
そしてその「あいだ」から、ときに、
あなたにもなかった。
私にもなかった。
そんな新しい可能性が生まれます。
ここで大逆転が起こります。
主語が変わるのです。
「私はどうしたいか」
から、
「私たちは、どうしたらいいだろう」へ。
これは、自分を捨てることではありません。
相手に合わせることでもありません。
そうではなくて、
あなたがあなたのまま存在し、
私も私のまま存在する、という見方です。
違う意見も、違う経験も、違う願いも持っている。
そのお互いの違いを消さないまま、
「では、そこから、何ができるだろう」と考えてみることです。
そこではじめて、「私たち」という新しい主語が生まれます。
これは旅行先を決めるような小さな話だけではありません。
職場でも同じです。
「部長は私のことをわかってくれない」
「いや、君こそ私のことをわかっていない」
となれば、世界は「あなた対私」になります。
残された解決方法は、力関係だけになります。
上司対部下だけではありません。営業対製造といった部署間でも同じ、
都会対地方、若者対高齢者、多数派対少数派。
みんな同じです。
私たちは、いつの間にか世界を二つに分けて考える習慣を、常識化してしまっています。
そしていつも、「どちらが正しいのか」を決めようとしています。
最近のSNSなんて、まさにそんな正義であふれています。
けれど、Relationという観測点から見ると、別の問いが生まれます。
「違いがある。だからそのRelationから何がつくれるだろう」
すると対立していた二つのEntityが、単なる敵同士ではなくなります。
違いそのものが、新しいものを生み出す材料になるからです。
ここで大切になることは、
「私たちなら」は、「妥協ではない」ということです。
あなたが100を求めている。
私も別の100を求めている。
だから50ずつ我慢して、真ん中の50にしましょう。
これが妥協です。
けれどRelationは、あなたの100と私の100を持ち寄った結果、
それまで存在しなかった、まったく別の120を生もうという考え方です。
ハイ。欲張りなのです(笑)
異なるものが出会い、
その「あいだ」から、
新しい宝を得ようとしているのです。
そもそも、違いは個性です。
個性は消すべきものではありません。
むしろ違う個性があるからこそ、新しいものが生まれるのです。
男ばかりでは、子は産まれません(笑)
これは、人間とAIの関係についても同じことが言えるかもしれません。
「人間か、AIか」
という問いにしてしまえば、
AIが人間の仕事を奪うのか。
人間がAIを支配するのか、という話になります。
なかには、AIは人類の敵だ!と言い出す人もいます。
あるいは、AIを使うと判断力を奪われるから、人間がバカになるという意見もあります。
さらに、AIによって人類は滅びるまでいくと、まだはじまって26年しか経っていない21世紀が、早々ともう世紀末思想です。
けれど、Relationで観ると、すこし観測点が変わります。
「人間とAIなら、何ができるだろう」
と問いが変わるからです。
すると、景色が変わります。
人には、人にしか持てない経験があります。
問いがあります。
願いがあります。
AIには、大量の情報を扱ったり、異なるものを素早く結びつけたりする力があります。
その違いを競わせるのではなく、結んでみる。
すると、人だけでも、AIだけでも見えなかったものが、その「あいだ」から生まれます。
そして、最後の責任は、人が取る。
それなら主語は、「人か、AIか」ではなく、「私たち」になります。
意見がぶつかったり、相手の言葉に腹が立ったとき。
あるいは、「どうしてわかってくれないんだ」と思ったとき。
そんなとき、ほんの少しだけ立ち止まって、
「私"たち"なら、どうしたらいいだろう」と問いかけてみたい。
答えは、すぐには出ないかもしれません。
けれど、その問いを置いた瞬間、
「あなたか私か」という二つしかなかった世界に、小さな余白が生まれます。
その余白が、新しいRelationが生まれる場所です。
文明もまた、そうやってつくられてきたのではないでしょうか。
違う人がいて、違う考えがあって、違う経験があって、それらが結びついて生まれたのが人類の文明です。
だからRelationとは、単なる人間関係の話ではありません。
それは、
「あなたか私か」しかなかった世界に、
「私たちなら」という第三の可能性をつくること。
です。
Relationは、ただの「仲良し」を求めるものではありません。
「あなた」と「私」の違いを消さず、その「あいだ」から「私たち」という新しい主語を生み出す。
新しい主語、新しい選択肢、新しい未来を生成する、
古くて新しい道具なのです。
——今日も良い一日を♪
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