「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の――」。百人一首三番歌、柿本人麻呂の有名な一首です。けれど、意味や文法を覚えるだけで、本当にこの歌を「読んだ」といえるのでしょうか。なぜ人麻呂は、この三十一文字を選んだのか。その人の観測点に立ってみると、千三百年前の「歌聖」が歩いた山道と、いまを生きる私たちの姿が、ふっと重なって見えてきます。

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昔の人の心を知ることは、昔の答えを覚えることではない。その人の観測点に立って、世界をもう一度見てみること。

百人一首の三番歌は、柿本人麻呂です。
 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
 ながながし夜を ひとりかも寝む

一般には、「山鳥の長く垂れた尾のように、秋の長い長い夜を、私はひとり寂しく寝るのだろうか」といった意味に解釈されます。
もちろん、そう読むこともできます。
けれど、ここで少しだけ観測点を動かしてみたいと思います。

この歌を詠んだ柿本人麻呂は、後世「歌聖」とまで呼ばれた人物です。
その人麻呂は、この歌を詠んだとき、いったい何を見ていたのでしょう。
そして、どんな心で、この三十一文字を選んだのでしょうか。

そこでまず初句です。
最初の「あしびきの」は、一般に「山」にかかる枕詞(まくらことば)とされます。
枕詞だから、特別な意味を考える必要はない・・・そう説明されることもあります。
けれど和歌は、わずか三十一文字です。
たった三十一文字しか使えない世界で、本当に五文字もの言葉を、意味もなく置くでしょうか。
そう考えてみると、「あしびきの」という言葉の景色が、少し違って見えてきます。

「あしびき」を「足引き」と見るなら、険しい山道を歩き続け、疲れて足を引きずる姿が浮かびます。
その先にいるのが「山鳥」です。
しかも、「山鳥の尾の しだり尾の」と、長く美しい尾が垂れている姿を、わざわざ重ねています。

険しい山道を、足を引きずりながら登っていく。
その深い山の中で、ふと、美しい山鳥に出会う。
そんな景色です。

では、これを人麻呂自身の世界に重ねたら、どうなるでしょうか。

人麻呂は、天才歌人と呼ばれた人です。
けれど、天才だからといって、歌が次々と苦もなく頭に浮かぶでしょうか。
私は、むしろ反対だったのではないかと思います。

ひとつの言葉を探す。違う。もう一度考える。これでもない。さらに考える。
まるで、足を引きずりながら深い山へ入っていくように、言葉の世界をさまよい続ける。
そして夜な夜な続く、長い思索の果てに、突然、
「あっ、これだ」という言葉に出会う。

それは、深い山奥で、思いがけず美しい山鳥に出会うような瞬間だったのではないか。
そんなふうに思うのです。

このように考えると、
 ながながし夜を ひとりかも寝む
も、単なる「ひとり寝の寂しさ」とは違って見えてきます。

夜が更けても、ひとり歌を考えている。
筆と硯を前にして、木簡に、書いては木の表面を削り、考えてはまた書く。
どこまで起きていたのか、いつ眠ってしまったのかも分からない。
それほどまでに、歌の世界へ入り込む。
人麻呂の観測点に立ってみると、そんな長い夜が見えてくるのです。

これは技術系の企業も同じです。
ジャンボジェット機に使われるリベットやネジの数は、一機あたりおよそ300万個です。
リベットやネジなどの締結部品には、飛行中の繰り返しの振動や気圧変動にも耐え、機体の構造を確実に保持することが求められます。
だから、すべての部品に、ミクロン単位の精度と耐久性が求められるのです。
そしてその中の、たった一個の部品に不具合があるだけで、ジャンボジェット機は飛ばないのです。

部品の性能を、ほんの0.01%向上させるために、技術者たちが夜な夜な明け方近くまで、頭を悩ませ続ける。
世の中の役に立つように、ユーザーに喜んでいただけるように。安全のために。
体力気力の限界まで、今日も、ひたすら考え続け、改善し続けています。
千三百年ほど前の柿本人麻呂もまた、これと同じ努力と精度を自覚していたのではないかと思うのです。

学校では、
 あしびきの=山にかかる枕詞
 ながながし=長い
 か=係助詞
 む=推量の助動詞
などと習います。
もちろん、それも大切なことでしょう。
けれど、それだけで古典を「読んだ」ことにはならないと思うのです。
だって、人麻呂は、文法のために和歌を詠んだのではない。

悩み、迷い、うまくいかなくて頭を抱え、それでも考え続けた。
それを何日も、何時間も続けているときに、ある瞬間にそれまで見えなかったものが見える。

人麻呂が本当にこの歌にそこまでの意味を込めたのか。
それは、人麻呂本人に聞いてみなければ分からないことです。
けれど、「だから古典はおもしろい」。
「この歌の正解はこれです」と覚えて終わりではなく、なぜこの言葉を選んだのだろう。この人には、どんな景色が見えていたのだろうと問いながら、その人の立っていた場所へ、自分の観測点を動かしてみたいのです。

すると、千年以上前の三十一文字が、突然、人間の体温を持ちはじめます。

これは、歌だけの話ではありません。
文章を書くとき、絵を描くとき、新しい商品を考えるとき、仕事の問題を解決するとき、人間関係の出口を探すとき。
あるいは、まだ存在しないものを生み出そうとしているとき、
私たちもまた「あしびきの山」を歩いているのではないでしょうか。

なかなか答えが見つからない。
足を引きずりたくなる。
それでも考える。
考えて、考えて、考え抜いた先で、ある瞬間、それまで見えなかったものが姿を現す。
その瞬間は、人麻呂が深い山の中で、美しい山鳥を見つけた瞬間と、どこか似ているのかもしれません。

世の中に「天才」と呼ばれる人がいます。
けれど「天才」と呼ばれる人もまた、最初から答えを持っている人ではないと思うのです。
「天才」と呼ばれるような人は、もしかすると、答えのない山の中を、誰よりも深く歩いた人なのかもしれない。
そう思うのです。

古典を読むということは、昔の人が残した「答え」を覚えることではありません。
その人が何を見ていたのか。
何に悩み、何を求め、どこへ向かおうとしていたのか。
その人の観測点に、かなわぬまでも、立とうと努力し続けることではないかと思うのです。

すると、古典は「昔の話」ではなくなります。
千年以上前の人麻呂が歩いた山道と、いま私たちが歩いている山道が重なるのです。

昔の人の心を知ることは、昔の答えを覚えることではない。
その人の観測点に立って、世界をもう一度見てみること。

百人一首は、昔の人の答えを百個集めた本ではありません。
もしかすると、百人の異なる観測点から、この世界をもう一度眺めてみるための百首なのかもしれません。

——今日も良い一日を♪

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