世界のはじまりは、完成された姿ではありませんでした。 『古事記』が描いたのは、「くらげなす、ただよへる」世界と、そこから力いっぱい萌え騰る「葦牙」です。まだ答えがない。まだ形も決まっていない。 けれど、だからこそ、そこには新しいものが芽吹く余地がある。宇摩志阿斯訶備比古遅神の姿から、古代の人々が世界のはじまりに見た生命力と、「何度でも始められる」という日本人の原点を考えます。

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古事記は、昔の答えを覚えるための物語ではない。
いまを生きる私たちが、新しい問いを見つけるための物語でもある。
『古事記』の冒頭には、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神という三柱の神々が登場します。
そしてそのあと、物語は次のように続きます。
つぎにはくにの わかくして 次国稚
うかぶあぶらの くらげなし 如浮脂而久羅下那州
ただよへるとき あしかびの 多陀用幣流之時 如葦牙
もえあがるもの なりませる 因萌騰之物而成
かみのなうまし あしかびの 神名宇摩志阿斯訶備
ひこじのかみと まをしたる 比古遅神
ここに出てくるのが、
「くらげなす」
「ただよへる」
という言葉です。
「くらげなす」は、海に浮かぶクラゲのように、という意味に読むことができます。
クラゲは、水の中を漂います。
自分で「こちらへ行こう」と決めて、力強く泳いでいるわけではありません。
潮がこちらへ流れればこちらへ行き、あちらへ流れればあちらへ行く。
「ただよへる」も同じです。
まだ形が定まらない。
どちらへ向かうのかも決まっていない。
つまり『古事記』が描く世界のはじまりは、最初から何もかもが完成していた世界ではありません。
まだ、何者になるのかさえ決まっていない世界だったと、古事記は書いているわけです。
これは、とてもおもしろいことだと思います。
なぜなら、人が生きるときにも、まさに、そういうときがあるからです。
これからどうしたらいいのか分からない。
何を選んだらよいのか分からない。
昨日まで信じていたものが崩れてしまって、どちらへ進めばよいのか分からない。
まるで水の上を漂うクラゲのように、行き先が見えなくなるときというのは、誰しもが経験することではないかと思います。
けれど『古事記』は、その状態をもって「終わり」とはしていません。
その「くらげなす、ただよへる」世界こそが、「はじまり」だと書いているのです。
ここで古事記には、「葦牙(あしかび)」が現れます。
「牙」という字は、ここでは「芽」のような意味です。
水辺の葦が、春になると泥の中から新しい芽を出します。
まだ何もないように見えるところから、小さな生命が、ぐっと上へ向かって伸びてくる。
『古事記』は、その様子を、「萌え騰(あ)がる」と表現しています。
私は、ここがとても好きです。
世界が漂っているからといって、そこに何もないわけではない。
まだ形になっていないだけで、その中にはすでに、「これから伸びようとする力」がある。
そして、その中から現れた神様が、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
です。
「うまし」は、「素晴らしい」「よい」「美しい」といった意味を持つ言葉です。
「あしかび」は、葦の芽。
そして「ひこぢ」には、若々しく力強い男性を思わせる響きがあります。
つまり、この神様のお名前から浮かんでくるのは、
しかめっ面をして威張っている神様でもなければ、
どこか遠いところから人間を裁いている神様でもありません。
泥の中から「よっしゃ、出るぞ〜!」とでも言うように、勢いよく顔を出す若くて力強い萌芽のような生命力です。
明るくて、元気がよくて、溌剌としている。
伸びようとしている。
そこには、若々しい生命の勢いがあります。
考えてみれば、不思議です。
日本最古の書物である『古事記』が、世界のはじまりを語るとき、その最初のほうに置いたものが、「完成」ではなく、「芽吹き」なのです。
完成された立派なものが、最初からドンと置かれているのではない。
まだ漂っている。
まだ定まっていない。
けれど、その中から小さな芽が生まれ、上へ上へと伸びていく。
ここから、ひとつの問いが生まれます。
「まだ何も決まっていない」ということは悪いことなのか?
私たちは、答えがないと不安になります。
進路が決まっていなかったり、仕事がうまくいかなかったり、人間関係の出口が見えない。
社会がどこへ向かうのか分からない。
そんなとき、「早く答えを出さなければ」と思います。
けれど『古事記』の世界観では、少し違った景色が見えてきます。
漂っているということは、まだ終わっていないということでもあります。
まだ形が決まっていないということは、これから新しい形が生まれる余地があるということでもあります。
大切なことは、漂っていることを責めることではない。
その中にある、
「これから芽を出そうとしているものは何だろう」と探してみることなのではないでしょうか。
人は誰でも失敗します。
失敗すれば落ち込みます。
何をやってもうまくいかない日だってある。
自分が嫌になることだってあります。
けれど、そんなときに『古事記』の冒頭へ戻ってみると、
世界そのものだって、最初は「くらげなす、ただよへる」状態だったというのです。
そこから葦牙が出た。
ならば私たちだって、何度でも芽を出せばいい。
小さくてもいい。
昨日と同じ場所からでもいい。
また新しく始めればいい。
私は、宇摩志阿斯訶備比古遅神という神様に、古代の人々がそのような思いを重ねていたのではないかと思っています。
困ったら原点へ帰る。
その原点は、しかめっ面ではありません。
笑顔で、明るくて、元気いっぱい。
転んだら、「いやあ、転んじゃったよ」と笑って、また立ち上がる。
うまくいかなければ、「じゃあ、次はどうしよう」と前向きに考える。
何度でもやり直す。
何度でも芽を出す。
そんな底抜けの生命力が、日本人の原点に置かれているのだとしたら、これはとてもありがたいことだと思うのです。
そして、「今日のひとこと」です。
『古事記』を読むというと、
「宇摩志阿斯訶備比古遅神という神様がいました」
と神様のお名前を覚えることだと思われがちです。
けれど、それだけなら千三百年前の「答え」を記憶しているだけです。
そこから、どうして古代の人々は、世界のはじまりに「漂い」を描いたのだろう。
なぜ、その次に「芽吹き」を置いたのだろう。
なぜ最初から完成した世界を描かなかったのだろう。
そう問い始めた瞬間、『古事記』は昔話ではなくなります。
そしてさらに、
では、いまの自分の中で、まだ漂っているものは何だろう。
その中から、これから芽を出そうとしているものは何だろう。
という問いが生まれてきます。
ここまで来ると、『古事記』を読んでいるようで、実は私たちは、
いまを生きている自分自身を読んでいるのかもしれなくなります。
古典には、昔の人が残した言葉があります。
けれど、その言葉から生まれる「問い」は、いまを生きる私たちのものです。
そして、その問いから、まだこの世になかった未来が生まれていきます。
だから私は、『古事記』を「昔の答えが書かれた本」としてだけ読むのではなく、
未来へ向かうための問いが、たくさん埋まっている書として読みたいのです。
漂っていてもいい。
まだ答えがなくてもいい。
その中には、もしかすると、まだ姿を見せていない「葦牙」がある。
間違っていてもいい。
いつでも、何度でも、力いっぱい立ち上がる。
古事記は、昔の答えを覚えるための物語ではないと思います。
いまを生きる私たちが、新しい問いを見つけるための物語かもしれません。
さて、
あなたの中で、いま芽を出そうとしているものは何でしょうか。
——今日も良い一日を♪
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