人間関係がうまくいかないとき、私たちはつい「どうしたら相手を変えられるだろう」と考えてしまいます。けれど、日本人が古来大切にしてきた関係性の文化は、少し違うところに視点を置いてきました。相手を変えるのではなく、違う者同士の「あいだ」に何を育てるのか。古事記のイザナギとイザナミの物語から、Relationの本質を考えてみたいと思います。

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Relationは、相手を変えることではなく、互いのあいだに何を育てるかを考えること。
人と人との関係がうまくいかないとき、私たちはつい、
「どうしたら相手にわかってもらえるだろう」
「どうしたら考え方を変えてもらえるだろう」
と考えます。
けれど、よくよく考えてみると、この「問い」には最初から、
「自分のほうが正しい」という前提が隠れていることがあります。
だから、相手を説得し、相手に考えを改めさせ、相手にこちらの価値観を理解してもらおうとしています。
もちろん、話し合いは大切なことですし、自分の考えを伝えることも必要です。
けれど、「相手を変えること」が目的化した瞬間、
対話は議論となり、いつの間にか勝ち負けを求めるものになってしまいます。
夫婦でも、親子でも、友人同士でも、職場でも同じです。
「あなたは間違っている」
「いや、そっちこそ間違っている」
となれば、どちらかが勝っても、二人の「あいだ」にある関係に傷がつくことになります。
日本人が古来大切にしてきた関係性の文化(Relation)の考え方は、こうした勝ち負けとは少し違います。
「私はどう思うか」「あなたはどう思うか」だけではなく、
「私とあなたの「あいだ」に、何を育てていくのか。」を大切にするのです。
たとえば、夫婦で意見が違ったとします。
どちらが正しいかを決めようとすれば、喧嘩になります。
あるいは対等なはずの夫婦が、上下関係になります。
けれど、
「この違いを抱えたままでも、
二人が笑って暮らしていくにはどうしたらいいだろう」
と考えるのが、日本文化です。
イザナギとイザナミは離婚しました。
そのときの様子を『古事記』は以下のように描写しています。
しかして千引き 岩ひきて 尓千引石引
よもつひらさか 道ふさぐ 塞其黄泉比良坂
石をなか置き 向ひ立ち 其石置中各対立而
戸を渡すとき イザナミは 度事戸之時伊耶那美命言
「うつくしき我が なせみこと 「愛我那勢命
かくのごときに するならば 為如此者
いましが国の 人草を 汝国之人草
日にちがしらを 絞め殺す 一日絞殺千頭」
イザナギミコト のらさくは 尓伊耶那岐命詔
「うつくしき我が なせのいも 「愛我那迩妹命
いまししかして 為すならば 汝為然者
吾はいちにちに ちいほなる 吾一日立千五百
産屋たつ」 これもちて 産屋」是以
ひとひかならず ちひとしに 一日必千人死
ひとひかならず ちいほひと 一日必千五百
ひとのうまれる ところなり 人生也
ゆゑにいざなみ みことには 故号其伊耶那美神命
よもつおほかみ またいはく 謂黄泉津大神亦云
その追ひしきし なづけては 以其追斯伎斯(此三字以音)而
みちを教へる おほかみといふ 号道敷大神。
(現代語訳)
そこで伊耶那岐命(イザナキノミコト)は、千引石(ちびきいわ)を黄泉比良坂(よもつひらさか)に引(ひ)いてきて坂を塞(ふさ)ぎました。
その千引石を中にはさんで、伊耶那岐と伊耶那美命(イザナミノミコト)が向かい立ちました。
伊耶那美命が言いました。
「愛(うつくし)き我(あ)が那勢命(なせのみこと)、
このようにするならば、
汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)を
一日に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺(ころ)しましょう。」
伊耶那岐命が答えました。
「愛(うつくし)き我(あ)が那迩妹命(なにものみこと)よ、
汝(いまし)がそのようにするならば、
吾(あ)は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を建てよう。」
これにより、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が生(う)まれるようになりました。
これゆえ、伊耶那美神の命(みこと)を名付けて、黄泉津大神(よもつおほかみ)と云います。
また、その追ってきたことをもって、道敷大神(みちしきのおほかみ)と名付けられています。
激しい別れのシーンです。
けれどこのシーンは、実は必ずしも、永遠の別れや決別を意味していません。
黄泉の国は、夜見る国・・・つまり暗い中では離れたところは見えませんから、我々生者からは見えない国・見えない世界を意味します。
つまり妻のイザナミは見えない世界の大神として、夫のイザナギは見える世界の大神として、共に生んだ国や神々をいまなお、見守り続けておいでになられるのです。
しかも両者は、互いに「愛我那勢命」「愛我那迩妹命」と、両者はいまも愛し合われておいでになられるのです。
別れなければならなかった。
けれど互いへの愛まで捨てたわけではなかった。
だからこそ、互いを変えようとするのではなく、見える世界と見えない世界、それぞれの立場から、共に生んだ国と神々を守る道を選ばれたのです。
このことは、親子も同じです。
親が子どもを自分の思う通りに変えようとすれば、子どもは反発するか、あるいは自分の気持ちを押し殺すようになります。
けれど、
「この子とのあいだに、どんな信頼を育てたいのだろう」
と考えるとき、かける言葉も、接し方も変わってきます。
そもそも人は、一人がみな違います。
生まれ育った環境も違うし、経験も違う。
考え方も、感じ方も違います。
Relationとは、その違いを消すことではありません。
むしろ、違うからこそ、その「あいだ」に何か新しいものを生み出そうとしているのです。
ここに日本の関係性の文化(Relation)の面白さがあります。
二人の人が出会ったとき、そこにあるのは「私」と「あなた」だけではありません。
その二人のあいだに、「信頼」や「安心」を育む。
そして、互いに「学び」あい、一緒に「笑顔」になる。
互いの「あいだ」に、関係を育てるのです。
人は、反対に、疑いを育てたり、憎しみを育てることもできます。
だからこそ大切なことは、
「相手をどう変えるか」ではなく、
「この人とのあいだに、自分が何を育てたいのか」
という問いなのだと思います。
これは、自分の考えを捨てて相手に合わせるということではありません。
自分は自分として立つ。 相手も相手として立つ。 そのうえで、互いの違いを持ち寄りながら、二人のあいだに、これまでなかったものを育てていくことです。
これが、自立した者同士が織りなす「結び」なのだと思います。
社会も同じです。
異なる考えを持つ人を排除したり、こちら側に改宗させたりするのではなく、
「違う考えを持つ人たちが共に生きる社会に、
どのような関係を育てていくのか」
を考えるのです。
そこから初めて、分断を越える道が見えてくるのだと思います。
人を変えようとすると、争いが生まれます。
けれど「あいだ」を育てようとすると、可能性が生まれます。
今日、誰かと意見が違ったならば、ほんの少しだけ問いを変えてみたいのです。
それは、
「どうしたら、この人をわからせることができるだろう」ではなく、
「この人とのあいだに、私は何を育てたいのだろう」
その問いから、Relationは始まります。
Relationは、相手を変えることではなく、互いのあいだに何を育てるかを考えること。
——今日も良い一日を♪
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