人と人が出会い、語り合うとき、ときとして「私」にも「あなた」にもなかった新しいものが生まれます。それは、いったい誰のものなのでしょうか。『古事記』に登場する「むすひ」から、Relation、AIとの対話、そして世代を越えて受け継がれる文化まで。「結び」を「つながること」ではなく、互いの「あいだ」から新しいものが生まれることとして考えてみたいと思います。

今日のひとこと・結びから生まれるものは、あなたのものでも私のものでもない。「私たちのあいだ」に生まれた新しいもの。

_

結びから生まれるものは、あなたのものでも私のものでもない。
「私たちのあいだ」に生まれた新しいもの。

「私」と「あなた」の出会いは、そのどちらかが相手を変えるためのものではないですよね。
互いの「あいだ」に、それまで存在しなかったものが立ち上がる。
そこが大事なのだと思います。

思うのですが、人と人が出会ったとき、そこでは何が起きているのでしょう?
私が何かを話す。あなたがそれを聞く。
あなたが何かを返す。私がそれを受け取る。
一見するとそれは、ただの言葉の交換です。

けれど、ときどき不思議なことが起こります。
話しているうちに、自分ひとりでは思いつかなかった考えが浮かんでくる。
相手もまた、「そんなふうに考えたことはなかった」と言う。

では、その新しい考えは、誰のものなのでしょうか。
私のもの?
あなたのもの?
たぶん、どちらでもありません。
それは、「私たちのあいだ」に生まれたものです。

私たちは、人と意見が違ったとき、つい「どちらが正しいのか」と考えてしまいがちです。
私の考えをA、相手の考えをBとするなら、
Aが正しいか、Bが正しいか。
あるいは、お互い少しずつ譲って、
「では、AとBの中間あたりにしましょう」としてみたり。

けれど「結び」は、単なる妥協とは少し違うように思うのです。
AとBが出会うことによって、
それまでAにもBにもなかったCが生まれる。
そんなことがあるからです。

たとえば、誰かと話をしていて、
「なるほど。それなら、こういう考え方もできるんじゃない?」
と突然、新しいアイデアが生まれることがあります。

そのアイデアは、自分ひとりで考えていたときにはありませんでした。
相手も持っていませんでした。
互いが出会い、言葉を交わし、互いの考えを受け取り合ったからこそ生まれたものです。

つまり、
A+B=AでもBでもないC
になったわけです。
これが「結び」のおもしろさなのだと思います。

日本には古くから「むすひ」という言葉があります。
『古事記』の冒頭にも、
 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
 神産巣日神(かみむすひのかみ)
という神様が登場されます。

「むすひ」の「むす」は、「苔むす」「草むす」という言葉がありますので、何かが生まれ、育っていくことを表す言葉と理解することができます。
そして「ひ」は、古くから生命の働きや霊威などと結びつけて説明されてきました。
ですから「ひ」を「霊(ひ)」と書くこともあります。

つまり「むす+ひ」は、単に二つのものを紐で結ぶような意味だけではなく、
互いから、目には見えないはたらきが生まれ、育っていく。
そんなイメージを持つことができます。

なるほど、男女が結ばれて子が生まれます。
人と大地が結ばれて作物が育ちます。
人と人が結ばれて共同体が生まれます。
そして、考えと考えが結ばれて、新しい智慧が生まれます。

ということは、「結び」は単なる「つながり」ではない。
つながった「あいだ」から、何かが生まれることです。
そこに「むすひ」の大切な意味があるように思います。

ここで観測点を少し動かしてみます。

普通、私たちは世界を見るとき、
「私」と「あなた」という一人ひとりの実体を見ます。

これをEntity(実体)を見る観測点とするなら、
もうひとつ、
「私とあなたのあいだ」
という関係性(Relation)を見る観測点があってもいい。

すると、おもしろいことに気づきます。
同じ私と、同じあなたであっても、Relationが変われば、そこで起きることは変わるのです。

警戒し合っていれば、本音は出にくくなります。
競争していれば、相手の失敗が自分の利益になることもあります。
けれど、
「一緒にもっと良いものを探してみよう」
というRelationになれば、そこから第三のものが生まれる可能性が出てきます。

つまり結びにおいて大切なことは、
「私が何を主張するか」でも、
「あなたが何を主張するか」でもない。
私たちの「あいだ」に、どんなRelationをつくるか。
そこが、とても大切になります。

ところが、せっかく新しいものが生まれても、私たちはすぐに、
「それは私が考えた」と言いたくなります(笑)。
会社でも、研究でも、地域活動でも、家庭でも、よくあることです。

本当にそうでしょうか。
誰かのひとことがなければ、その発想は生まれなかったかもしれない。
別の誰かの反対意見があったから、考えが深まったのかもしれない。
失敗した人がいたから、新しい方法が見つかったのかもしれない。

そう考えると、成果というものは案外、一人のEntityだけから生まれているわけではありません。
たくさんのRelationの「あいだ」から生まれています。

だから、
「誰が生み出したのか」ではなく、
「何が、私たちのあいだから生まれたのか」

と観測点を変えてみたいのです。
すると、人と人との関係も少し変わって見えてきます。

私が自身の気づきや著作物について、著作権を主張しようと思わない理由のひとつも、ここにあります。
私だけの気づきではないのです。
それは『古事記』や『万葉集』などが書かれた時代の人々の智慧であり、それを書き残し、世に出し、守り伝えてきた人々の智慧でもあります。

そして私自身も、これまで出会ったさまざまな人との対話や、経験させていただいた数々のRelationの中から、多くの気づきをいただいてきました。
述べた主張をEntity(実体)だけで見るならば、「俺の言ったこと」になるかもしれません。
けれど、気づきそのものがRelationの中で形成されたものであれば、それはみんなの智慧の総和です。

江戸時代を代表する数学者、関孝和もそうです。
関孝和は、和算を大きく発展させ、多元高次方程式を扱う方法や行列式に相当する考え方を示し、円周率の計算などでも大きな成果を残しました。また、ベルヌーイ数に相当する数列についても、ヨーロッパとは独立して研究していたことで知られています。
そこに至るまでには、おそらく想像もできないほどの、脳がクタクタになるほどの試行錯誤があったことでしょう。

けれど、その数学的な真理そのものは、「関孝和の所有物」なのでしょうか。
円周率が3.14159……であることは、関孝和がそう決めたからではありません。
彼は、それまで見えていなかった数の世界の一部を、人々の前に見える形にしてくれた。
そう考えるなら、発見された真理は誰か一人が所有する「もの」というより、次の人へ手渡され、さらに発展していく智慧なのだと思います。

近年ではAIが急速に普及しています。
AIは、何かを尋ねれば答えを返してきます。
けれど、そこで終わりにしないでいただきたいな、と思うのです。

AIが答えを返してきたら、
「それなら次に、ここから見たらどうだろう」
「では、この考えと結びつけたら?」
と問い直してみたいのです。

AIはお利口さんだから、また違う答えを返してくれます。
そんなやり取りを何度も繰り返していると、最初のうちには自分にもAIにも見えていなかった、新しい世界が立ち上がってくることがあります。

それはきっと、「AIが答えを教えてくれた」というだけではありません。
かといって、「自分ひとりで考えた」ものでもありません。
対話というRelationの中から、新しいものが生まれたのです。

いつも思うことですが、大切なのは、誰かが完成した「答え」を持っていることではないと思うのです。
王様が答えを持っていると考えられた時代もありました。
教皇が答えを持っていると考えられた時代もありました。
上司や社長や先生が答えを持っていると思われた時代もあったことでしょう。

このことは、AIも同じです。
完全な答えなど、誰も持っていない。

だからこそ、
問いを出して、答えを受け取り、
違和感を返して、また考える。
この繰り返しが必要になるのだと思います。
そしてその往復の「あいだ」にこそ、大切なものが生まれてくるのではないかと思います。

そして、もうひとつ大切にしたいことがあります。
ちょっと失礼な言い方になりますが、高御産巣日神も神産巣日神も、誰かの所有物ではありません。
つまり、「産巣日(むすひ)=結び」も、結びから生まれたものも、誰か一人のものではありません。
知識が結ばれて智慧となり、その智慧が次の誰かに渡る。
その人がまた別の人と結ばれ、そこからさらに新しいものが生まれる。
そうやって人から人へと渡りながら育っていくものが、智慧そのものなのではないか。

ここからは私なりの想像ですが、そうした「むすひ」のはたらきに思いを馳せると、『古事記』の冒頭に高御産巣日神、神産巣日神という神様が登場されることも、なんとも味わい深く感じられたりもします。

人と人との「あいだ」から生まれたものが、さらに次の人へ渡り、また新たなものを生んでいく。

「むすひ」とは、そんな生成の連鎖をも含むものなのかもしれない。

そう思うのです。

その典型が文化です。
文化は、誰か一人がつくったものではありません。
何世代もの人々が、それぞれの時代で受け取り、少しずつ育て、次の世代へ渡すことで成立するのが文化です。

日本人が道端にゴミを捨てないのは、学校でそう教わったからだけではありません。
サッカーの試合のあとに客席のゴミを拾って帰るのも、そうしなければ逮捕されるからではありません。
大昔から何十世代にもわたって、自分たちが暮らす土地や、作物を育ててくれる田畑や、共同体の場所を大切にしてきた。
そうした営みが世代を越えて受け継がれ、人々の「あいだ」に、無言の文化となっているのだと思います。

「ごみ箱」を「護美箱」と表記することがあります。
これは「ごみ」という言葉の語源ではありませんが、なかなか素敵な当て字です。
単に不要なものを捨てる箱ではなく、
「美しさを護る箱」と見ることもできるのです。
そこにも、私たちが何を大切にしてきたのかが表れているように思います。

大昔から続く大切な文化を、私たちもまた次の世代との「あいだ」へと渡していく。
そこからまた、新しい何かが生まれる。
そう考えると、「結び」は単なる人間関係の話ではなく、文化そのものを育む働きといえます。

誰が正しいかを決めるだけなら、勝者と敗者が生まれます。
けれど、**「互いのあいだから、何を生み出せるだろう」**と問いを変えれば、そこには、まだ誰も持っていなかった美しい未来が、きっとあると思うのです。

だから、結びは、同じになることではない。
違うまま出会い、
違うまま響き合い、
その「あいだ」に、昨日までなかったものを生み出していくこと。
そう考えると、人と出会うということそのものが、少し楽しみになってくるような気がします。
今日の妻や友人、同僚、上司、お客様との対話もまた、とっても楽しみです。

「私のものでも、あなたのものでもない」から、
さらに「私たちの所有物ですらない」へ。

今日、あなたと誰かの「あいだ」には、何が生まれるでしょうか?

——今日も良い一日を♪

_

📘倭塾LINE
倭塾LINEには、本編だけでなく、ちょっと笑える「番外編」もあります。

_

■新刊 大好評発売中
これが私の集大成本です。
『思想の時代は終わった』
https://amzn.to/3P5D0lS

_

Screenshot

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。