問題が解決した。それで本当に終わりなのでしょうか。裁判で判決が出ても、選挙で勝敗が決まっても、親子の喧嘩が収まっても、その翌日から人々の暮らしは続いていきます。大切なことは、問題を終わらせることだけではなく、その先にどんな日常が始まるのかということ。
江戸時代の「内済」の知恵から、現代の社会や家庭の問題までを見つめながら、「その未来に、人々の安心と、結びは残っているか?」という出口設計の本質を考えます。

今日のひとこと・問題のあとにどんな日常を描くのかが出口設計

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問題を終わらせることが出口ではない。そのあとに、どんな日常が始まるのか。そこまで描いて、はじめて出口になる。

問題が終わった、その翌日

私たちは、何か問題が起きると、その問題をどう解決したら良いかを考えます。
揉め事が起きれば、どちらが正しいのかを明らかにしようとします。
仕事で失敗が起きれば、原因を調べ、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講じます。
家庭で意見が対立すれば、どちらかが折れるか、何らかの妥協点を探します。
もちろん、どれも大切なことです。

けれど、ここで一つ、忘れてはならないことがあります。

「問題が終わったあとも、人々の暮らしは続いていく」
ということです。

繰り返し申し上げていることですが、裁判で判決が出れば、法律上の争いには一つの決着がつきます。
しかし、判決の翌日から、人はまた暮らしていきます。
勝った人にも、負けた人にも、朝が来ます。
家族がいて、仕事があって、隣人がいて、明日を生きていくことになります。

たとえ裁判で決着が着いたとしても、当事者間の信頼が完全に壊れ、互いへの憎しみだけが残っていたのなら。
どうでしょう、問題は終わったはずなのに、新しい問題が始まってしまうかもしれません。

それで、本当に「解決した」といえるのでしょうか。

江戸時代の「内済」という知恵

江戸時代には、民事上の争いを当事者の話し合いによって解決する「内済(ないさい)」という仕組みがありました。
もちろん、江戸時代の社会が、いつも公正で平和だったわけではありません。身分や立場による不平等もありました。
それでも、当時の紛争解決のあり方には、現代にも通じる重要な知恵を見出すことができます。
それは、争いに決着をつけるだけでなく、その後も人々が暮らしていけるようにする、という視点です。

村の中で争いが起きたとします。
どちらか一方を完全な勝者にし、もう一方を敗者にしてしまえば、裁きとしては明快かもしれません。
しかし、村人たちは、その後も同じ村で暮らしていきます。
一緒に田植えをし、稲刈りをし、茅葺屋根の葺替えをし、お祭りをするのです。
用水路の利水権の調整も必要です。
他にも、道を直し、困ったときには助け合わなければなりません。
まして日本には、水害、土砂災害、地震、噴火、落雷、冷夏、日照り続きの水不足、稲の病気など、さまざまな自然災害があります。
多くの火事は人災ですが、消火活動や復旧工事には、隣近所との関係は不可欠です。

我が国では、単に誰が正しいかという裁きだけではなく、争いのあとに共同体をどう維持していくのかを社会全体で大切にしてきたし、そのための工夫が、長い歳月の中で構築されてきたのです。

もちろん、事態によっては、領主や代官が仲裁に入ることもありました。
明治に入ってからは、それが町の駐在さんの役割になりました。
戦前戦中まで、我が国の警察官は、民事介入が、ごくあたりまえのことでした。
警察に「民事不介入の原則」なんてものが生まれたのは、GHQに占領されてから後のことです。

もちろん、警察権力の濫用を防ぐことも大切でしょう。
けれど同時に、誰が地域内の揉め事を引き受け、人々が再び安心して暮らせるようにするのかという問題が残ります。
権力の介入を制限することと、共同体の中に紛争を解決する知恵を残すこと。
この二つは、本来、両立させるべきものだと思います。

昔から、「夫婦喧嘩は犬も食わない」なんて言葉もありました。
世の中には、仲良しだから喧嘩するということもあるのです。
他人が介入しても詮無きことだし、下手に介入すれば、あとで恨まれる。
まして裁判で白黒つけて離婚するより、愚痴を聞いてあげて、あとは当事者の判断に委ねれば良いのです。
子供じゃないのです。
大人なのですから、それぞれが自分の人生に責任を持つ。
それを「あたりまえのこと」にしていくことが大事なのであって、白黒決着を付けることが、必ずしも社会全体の安定にはつながらない。

米国では11月3日に中間選挙が行われ、民主党が大きく議席を伸ばしました。
しかし大切なことは、どちらの政党が勝ったかだけではないように思います。
選挙の翌日から、米国民はまた同じ国で暮らしていくのです。
選挙の勝敗によって、社会の分断がさらに深まるのか。
それとも、異なる考えを持つ人々が、再び一つの社会をつくっていけるのか。
これもまた、出口設計の問題です。

争いを終わらせることと、争いのあとに人々が生きていけることは、必ずしも同じではないのです。

昔の人はいいことを言ったものです。

白だ黒だと 喧嘩はおよし 白という字も 墨で書く

勝ち負けの向こう側にあるもの

現代社会では、何か問題が起きると、つい「誰が悪いのか」「どちらが正しいのか」という二者択一に集中しがちです。
これは、別な言い方をすれば、物事を一つひとつ独立した存在として捉える、Entity(個体)の観測点といえます。

けれど、人は一人で完結して生きているわけではない。
家族との関係があり、職場の仲間との関係があり、地域との関係があります。
人は、さまざまな関係の中で暮らしているのです。

この、人と人との「あいだ」に目を向けるのが、Relation(関係性)の観測点です。

Entityの観測点からは、問題を解決することがゴールに見えるかもしれません。
けれどRelationの観測点から見れば、問題が終わったあとに、人と人とのあいだに何が残るのかを重視します。

最後に、
信頼が残るのか。
安心が残るのか。
互いを尊重する気持ちが残るのか。

すべての人と仲良くする必要はありませんし、ときには距離を置くことが必要なこともあります。
これもまた、関係をどうしていくのか、という問いです。

理不尽な暴力や支配があるなら、そこから離れて安全を確保する。

出口設計とは、何が何でも元の関係に戻すことではありません。
必要な境界を守りながら、それでも人が安心して生きていける未来をつくることです。

出口設計の三つの問い

これまで出口設計では、三つの問いを大切にしてきました。

「最後どうなる?」
いまの行動や判断によって、最後にどのような結果が生まれるのか。

「壊れない?」
その結果によって、大切なものが取り返しのつかないほど壊れてしまわないか。

「みんな笑える?」
その未来に、人々が笑顔で生きていける余地が残されているか。

そしてこの三つの問いには、共通する大切な視点があります。
それが、目の前の問題だけでなく、その先の未来を見ているということです。
そして、この三つの問いを、さらに深く貫く問いがあります。

「その未来に、人々の安心と、結びは残っているか?」
という問いです。
これが、出口設計の本質です。

どんなに立派な解決策であっても、その結果、人々が不安に怯え、互いを疑い、孤立してしまうのなら、それは決して良い出口とはいえない。
反対に、問題が完全にはなくならなくても、人々が安心して暮らし、互いに支え合いながら、新しい日常を始められるのであれば、そこにはみんなが笑顔になれる出口の可能性があります。

出口があれば、問題が消滅するわけではありません。
問題を経験したからこそ、みんなでもう一度、未来に向かって歩き始めることが大事なのです。

そこにこそ、出口設計の本当の意味があります。

問題のあとに、どんな朝が来るのか

たとえば、親子で喧嘩をしたとします。
親が子供を叱り、子供が謝った。
それで一件落着でしょうか。

もちろん、謝ることは大切です。
けれど、その翌朝から、子供が親の顔色をうかがってばかりで、何も自分で決めることができなくなったり、自分から話すことができなくなってしまったとしたら、どうでしょう。

表面的には説教と謝罪で問題が終わったかのように見えます。
けれど、そこに安心がありません。

反対に、叱られた子供が、翌朝も安心して「おはよう」と言える。
親もまた、いつものように笑顔で「おはよう」と返せる。
そして、昨日の出来事から、親も子も何か一つ学んでいる。
そんな日常が始まったのなら、その親子喧嘩には、未来を育てる意味があったといえるのではないでしょうか。

家庭だけの話ではありません。
会社でも、地域でも、国家でも同じです。

大切なことは、問題に決着をつけることだけではない。
そのあとに、どのような日常を始めるかということです。

昨日よりも少し安心して暮らせる。
昨日よりも少し、人を信じられる。
昨日よりも少し、未来に希望を持てる。
そんな日常を積み重ねることが、出口設計なのだと思います。

そして、このことを日々実践すると、何が起こるかって、自分自身が元気になります。
活力が生まれます。
心のパワーがみなぎります。

未来に残したいもの

人は、生きている限り、問題がなくなることはありません。
一つ解決すれば、また新しい問題が生まれます。

もっといえば、
生きているということは、日々、問題に囲まれるということです。
だから素晴らしいのです。

問題を乗り越えたり、受け止めたり、ときには距離を置いたりしながら、問題の向こう側にある日常を大切にしていく。
その日常とは、特別な日常ではありません。

朝起きて、誰かに「おはよう」と言えること。
一緒に食事をして、笑い合えること。
困ったときに「助けて」と言えること。
そして、自分もまた、誰かの力になれること。
そんな、何でもない日常こそが、実は、かけがえのない宝物です。

出口設計は、その宝物を得るための知恵です。

問題を終わらせることだけを考えるのではなく、そのあとに始まる未来を考える。
正しさを明らかにするだけでなく、その正しさの向こうに、人々の安心があるかを考える。
勝つことばかりを目指すのではなく、勝ち負けを越えた先に、人と人との結びが残っているかを考える。

判決の翌日から、人はまた暮らしていくのです。

だから出口は、決着の先に描かなければならないのです。

今日、もし何か困ったことが起きたなら、こんな問いを置いてみてはいかがでしょう。
「これを終わらせたあと、どんな日常を始めたいだろう?」
その小さな問いが、目の前の問題を、未来をつくるための一歩に変えてくれるかもしれません。

出口設計とは、問題のない未来をつくることではなく、問題があっても、人々が安心して、元気に生きていける未来をつくることなのです。

ーー今日も、良い一日を♪

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