いま正しいと信じていることは、百年後にも正しいのでしょうか。
歴史を振り返れば、かつての常識が、後の時代には非常識となった例が数多くあります。けれど、だからといって善悪の判断が不要になるわけではありません。大切なことは、何が正しいかを考えるだけでなく、その正しさの先に、どのような未来が生まれるのかまで考えること。善悪の判断は過去を評価し、出口設計は未来をつくる。そして文明の継承は、その両方を次の世代へ手渡していきます。
百年後の子供たちや孫たちの席から、いまの世界を眺めてみませんか。

今日のひとこと・今日の正しさが、百年後にも正しいとは限らない。善悪を考えるとき、ときには未来の人の席から、いまを眺めてみる。

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今日の正しさが、百年後にも正しいとは限らない。 善悪を考えるとき、ときには未来の人の席から、いまを眺めてみる。

私たちは毎日、さまざまな出来事について「良い」「悪い」を判断しながら暮らしています。
ニュースでは毎日のように誰が正しくて誰が間違っているのかを報道しているし、政治や社会の問題についても、どちらの主張が正しいのかで議論しています。家庭や職場でも、何が正しく、何が間違っているのかが話題になることがあります。

もちろん、善悪を考えることは大切です。
人を傷つける行為を見過ごしてよいわけではありませんし、不正を正すことも必要です。

けれど、ここでひとつ、考えてみたいことがあるのです。

それが、
「いま、正しいと信じていることが、百年後の人たちから見ても、本当に正しいのか」
という問いです。

第一章 かつての常識は、いまの非常識

人類の歴史を振り返ると、ある時代には当たり前だったことが、後の時代には大きな問題として捉えられるようになった例が、いくつもあります。

たとえば、かつて欧米では魔女狩りを正義と信じた人々がいました。

あるいは近代欧州における子供たちによる工場や鉱山での長時間労働がありました。
これも広く行われていた現実です。
産業革命の時代、子供は貴重な労働力だったし、家族の生活を支えるために子供が働くことは当然だと考えられていました。
しかし現代では、子供の成長や教育を犠牲にするような児童労働は、重大な問題とされています。

もちろん、当時だって、児童労働に反対する人々もいました。
社会の全員が同じ考えだったわけではありません。
それでも、社会全体として何を許容し、何を問題とするかは、時代とともに大きく変わってきています。

これは、過去の人々がみな愚かだったという話ではありません。
当時の人々も、その時代の生活や経済、制度の中で、それぞれの事情を抱えながら生きていたのです。
そして人は誰でも、自分が生きている時代の常識から、完全に自由になることは難しいものです。

このことは、いまを生きる私たちにも当てはまります。
百年前の常識を、いまの私たちが不思議に思うように、百年後の人々もまた、いまの私たちの常識を、不思議に思うかもしれません。
ただ、ここで申し上げたいことは、「だから善悪には基準がない」と考えることではありません。

時代によって変わるのは、何を善とし、何を悪とするかについての社会的な認識や制度です。
だからこそ、私たちは、その時代の常識と、人として本当に大切にすべきものとを、問い直し続ける必要があるのです。

第二章 正しさは、ときに人を傷つける

ここでさらに、もう少し身近な例を考えてみます。

ある会社で、仕事の効率を上げるために、新しい制度を導入することになったとします。
経営者は、会社を守り、社員の生活を守るために、合理化を進めようとしたのです。
これは、経営者の立場から見れば、十分に正当な判断でしょう。

ところが、その制度によって、長年会社を支えてきた社員が働きにくくなったり、家族との時間を失ったりすることがあるかもしれません。
経営者には経営者の正しさがあり、社員には社員の事情があります。

どちらか一方が、必ず悪いというわけではありません。
けれど、それぞれが自分の正しさだけを主張していたら、会社の中に対立が生まれます。
そして、その対立は、翌年も、そのまた翌年も続くかもしれません。

ここで必要になるのが、観測点を動かすことです。
経営者の席から見る。 社員の席から見る。 社員の家族の席から見る。

さらに、もう一つ。
十年後、その会社で働く人たちの席から、いまの判断を眺めてみる。

すると、何が見えてくるでしょうか。
目先の効率だけでなく、社員が育つ仕組みや、次の世代に受け継がれる会社の文化まで、考える必要があることに気づくかもしれません。

善悪を考えるというのは、単に目の前の行為に丸やバツをつけることだけではありません。
いまの判断が、どのような結果を生み、どのような関係性を残していくのか。
そこまで考えることで、善悪の判断は、より深いものになっていくのではないでしょうか。

第三章 未来の人にも、暮らしがある

これは社会の問題でも同じです。
私たちは、便利な生活を送るために、大量のゴミを出します。
いまの私たちにとって、それは快適な社会をつくり、快適な生活をするために欠かせないことです。

しかし、その結果として、百年後の人々が深刻なゴミ問題や環境問題に直面することになったら、どうでしょうか。
百年後の人々にも、日々の暮らしがあります。
朝起きて、家族と食事をし、仕事をし、子供を育て、友人と笑い合い、明日を楽しみにして生きています。
その人たちから見たとき、いまの私たちの選択は、どのように映るのでしょうか。

未来の人たちは、まだ生まれていません。
ですから、いまの議論に参加することもできなければ、選挙で一票を投じることもできません。
けれど、いまの私たちの選択によって影響を受けるのは、まさにその未来の人々です。

だとしたら、善悪を考えるとき、まだ生まれていない人たちのためにも、一つ席を用意しておく。
そんな考え方があってもよいのではないでしょうか。

もちろん、未来のためという理由で、いま生きている人々の暮らしを犠牲にしてよいわけではありません。
現在の人々にも、未来の人々にも、それぞれ大切な暮らしがあります。
どちらか一方だけを正義とするのではなく、その両方を大切にできる道を探す。
それもまた、善悪を考えるうえで欠かせない視点です。

第四章 正義を貫くことと、未来を守ること

日本の歴史を振り返ると、興味深い事例があります。
幕末の日本です。
当時、日本は外国から開国を迫られ、国内では幕府を守ろうとする人々と、幕府を倒そうとする人々が激しく対立していました。
尊王か佐幕か、攘夷か開国か。
さまざまな立場が複雑に交錯しました。
それぞれの立場には、それぞれの正義があり、守りたいものがありました。
そのために、壮絶な斬り合いがそこここで起こり、最後には国を二分する戊辰戦争にまで発展しました。

そしてその中で、江戸城は大規模な市街戦を行うことなく、明け渡されました。
勝海舟と西郷隆盛らの交渉によって、江戸の町を戦火から守る道が開かれた。
これによって、江戸という巨大都市での全面的な戦闘が回避されたことには、大きな意味があったと思います。
もし、双方がそれぞれの正義を貫くことだけを考え、江戸の町を戦場にしていたら、どうなっていたでしょうか。
家を焼かれ、家族を失い、生活の基盤を奪われる人々が、大勢生まれていたかもしれません。

政治の主導権を誰が握るのか。
その争いは、当事者にとっては重要な問題です。
けれど、その翌日も、江戸の人々は暮らしていかなければなりません。
そして、その子や孫も、そこに生きていきます。

正義を貫くことと、未来を守ること。
両者が対立したとき、何を選ぶのか。
ここに、善悪を考えることの難しさと、人間の智慧が問われる場面があります。

もちろん、江戸城無血開城に至った事情は複雑であり、当事者たちが何を最も重視していたのかを、一つの動機だけで説明することはできないでしょうけれど、結果として多くの江戸の人々が大規模な市街戦を免れたことは、歴史を考えるうえで大切な事実だと思います。

戦いに勝っても、人々の暮らしは続きます。
判決が出ても、人々の暮らしは続きます。

だからこそ、何が正しいかを考えるだけでなく、その正しさの先に、どのような未来をつくるのかを考える必要があるのだと思うのです。

第五章 善悪の判定だけでは、問題は終わらない

ここまでの話を、少し整理してみます。

善悪の判断は、社会にとって必要なものです。
人を傷つける行為があれば、それを止めなければなりません。
不正があれば、正さなければなりません。
犯罪があれば、法に基づいて適切に対処する必要があります。

けれど、善悪を判定しただけで、問題のすべてが解決するわけではありません。

たとえば、ある人が他人を傷つけたとします。
加害者の責任を明らかにし、必要な処罰を行うことは大切です。
しかし、それによって、傷つけられた人の心や暮らしが元に戻るわけではありません。
失われた信頼も、壊れた人間関係も、判決ひとつで修復されるとは限りません。

同じような問題が再び起きないようにするためには、何がその出来事を生んだのかという背景にも目を向ける必要があります。

大切なことは、「加害者の事情を知る」ことと、「加害行為を正当化すること」とは、「まったく別」ということです。
人を傷つけた責任は、当然、厳しく問わなければなりません。
そのうえで、なぜそのようなことが起きたのか、どうすれば繰り返さずに済むのかを考えることが大事なのです。
これが、善悪の判断を、未来につなげていくということです。

善悪の判定には、どうしても「過去」に何が起きたかという視点が必要になります。
けれど、人々が生きていくのは、判定が終わったあとの「未来」です。

ここが大事なところです。
過去の行為を正しく評価することと、
その後の未来を良くすること。
それぞれ、どちらも必要なのです。
そして、その二つを結ぶところに、出口設計(Exit Design)という考え方があります。

出口設計は、単に目の前の問題を終わらせることではありません。

問題を経験した人々が、その後も生きていけること。
そして、できることなら、その経験を通じて、以前よりも良い未来を始められること。
そのような出口を、あらかじめ考えておくことです。

ここから、百年後の人の席から現在を眺めるという視点も生まれます。

いまの正義を実現した結果、百年後の人々に深刻な対立や負担を残してしまうのであれば、その正義の実現方法については、再考する必要があるかもしれません。
反対に、いまは困難を伴う選択であっても、それが将来の人々の暮らしを守り、より良い社会をつくることにつながる場合だってあるからです。

ただし、未来の利益を口実に、現在の不正や被害を見過ごしてはなりません。
未来の人々のために、現在の人々が無条件に犠牲になるべきだということでもありません。

善悪を深く考えるとは、そのような安易な「二者択一」を避けることです。
それは、現在と未来の両方に責任を持とうとする姿勢です。

何より大切なことは、正しさの先に生まれる未来にまで、想像力を広げることです。

第六章 百年後の人々に、何を手渡すか

私たちは未来の人々に、何を手渡すことができるのでしょうか。
それは、道路や橋、建物や町並み、科学や技術といった形あるものだけでしょうか。

昨日のブログで「別天神」の解読からお話させていただきました。
内容をひとことでまとめるなら、それは
「形のないものが先、形あるものは後」
というお話です。

私たちは、先人たちが遺してくれた多くのものを受け継いで生きています。
『古事記』や『万葉集』が千年以上の時を超えて伝えられてきたからこそ、いまの私たちは、遠い昔の人々が何を考え、何を大切にしていたのかを知る手がかりを得ることができます。

古典を学ぶことは、昔の人の答えを、そのまま現代に当てはめることではありません。
昔の人々が、何を問い、どのように考え、どのような道を選んだのか。
その智慧が、千年以上にもわたって、色褪せていないから、学ぶのです。

未来への継承も、同じです。
百年後の人々は、いまとは違う世界を生きます。
いまの私たちには想像もできない問題に直面しているかもしれません。
そのとき、いまの私たちが出した答えが、そのまま通用するとは限りません。

つまり、私たちが未来に手渡すべきものは、完成された答えだけではないのです。
歴史や古典にある、「自分たちで問いを立て、観測点を動かし、善悪を考え、より良い出口をつくっていくための智慧」。
それらを未来に手渡していきたい。
歴史を読み解くことも、古典を現代の言葉で伝えることも、日々の気づきを文章や漫画にして分かち合うことも、そのための営みです。

今日、一つの言葉を受け取った人が、明日、誰かにその言葉を伝えるかもしれません。
それを聞いた子供が、大人になって、自分の子供に新しい問いを投げかけるかもしれません。

「智慧」は人から人へと受け継がれていきます。

智慧が広がると、「常識」になります。
常識が世代を超えると「文化」になります。

これは、Relation(関係性)が、時間を超えて広がっていく姿でもあります。
過去の人々から受け取り、いまの人々と分かち合い、未来の人々へと手渡していく。
そして、受け取った人が、そこからまた新しい智慧を生み出していく。
それがCirculation(循環)です。

大切なことは、自分の考えを人に押しつけることではありません。
みんなが自分の頭で考え、自分の足で立つことです。
つまり、常識は受け継がれるべきものであると同時に、問い直され続けるべきものでもあります。

そのために、智慧や知識の共有があります。
未来に自分の名前を残すのではない。未来の人たちが、自分たちの未来をつくれるように、智慧を残す。

空海は、型と智慧の両方を遺しました。
だから空海の真言密教は、1200年経った現代にも、しっかりと生きています。

私たちが未来へ手渡そうとしているのは、昔の型をそのまま守らせることではありません。型の奥にある智慧です。
そして智慧は、受け取った人が、自分なりに自分のものにしていくものです。

百年後の人々が、どのような善悪の判断をするかはわかりません。
けれど、その人たちにも、私たちと同じように、笑顔があり、涙があり、希望があります。
その人たちが、自分たちの未来をより良いものにしていけるように、古くから伝わる日本の智慧を手渡していく。

そして、今日の善悪を考えるとき、ときには百年後の人の席に座って、いまの世界を眺めてみる。
そこから見えてくる景色が、きっとあるはずだからです。

未来の人は、まだここにはいません。
けれど、私たちはすでに、その人たちと結ばれているのです。

そして、その未来に何を手渡すかは、いまを生きる私たち一人ひとりの選択にかかっています。

善悪の判断は、過去を評価します。
出口設計は、未来をつくります。
そして文明の継承は、その両方を次の世代へ手渡すのです。

——今日も良い一日を♪

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