百人一首5番、猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」。
秋の山に響く鹿の声は、なぜ悲しいのでしょうか。
この歌には、悲しみの理由が書かれていません。だからこそ、千年後の私たちも、それぞれの人生を重ねることができます。
和歌に残された「余白」から、Relation(関係性)、姿勢、そして悲しみを未来につなぐ出口設計について考えます。

今日のひとこと・鹿の声を聞いて、なぜ秋は悲しいのだろう。和歌は答えを教えない。だからこそ、千年後の私たちも、その問いの中に入っていける。

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鹿の声を聞いて、なぜ秋は悲しいのだろう。和歌は答えを教えない。だからこそ、千年後の私たちも、その問いの中に入っていける。

1 秋は、なぜ悲しいのか

百人一首の五番歌に、猿丸太夫(さるまるたゆう)の歌があります。

 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
 声聞く時ぞ 秋は悲しき

一般的には、次のように訳されています。
「奥深い山で、紅葉を踏み分けながら鳴いている鹿の声を聞くと、秋はなんとも悲しく感じられることだ」

美しい歌ですね。
紅葉に染まった山。
その奥から聞こえてくる鹿の声。
秋の深まりとともに感じる、もの悲しさ。
いかにも日本的な情景です。

けれど、ここで一つ、問いを置いてみたいと思います。
どうして、鹿の声を聞くと悲しいのでしょうか。

鹿が悲しいのでしょうか。
それとも、鹿の声を聞いた人が悲しいのでしょうか。
あるいは、そのどちらでもないのでしょうか。

この歌には、悲しみの理由も、誰が悲しんでいるのかも書かれていません。
鹿が何を思って鳴いているのかも、書かれていません。
歌を詠んだ人が、どのような人生を送ってきたのかも、わかりません。
そもそも猿丸太夫がいったいどこの誰なのかさえ、わかっていないのです。

それなのに、私たちはこの歌を読むと、何かを感じます。
ここが、おもしろいところです。

2 華やかな紅葉と悲しい鹿の声

この歌について、2013年に出版した拙著では、少し変わった読み方を紹介しました。
それは、この歌を単なる秋の叙景歌としてではなく、華美な贅沢や虚飾への批判として読む、というものです。

少し説明します。
歌の舞台は、奥深い山です。
秋も深まり、木々の葉は赤く染まり、地面にも紅葉が降り積もっています。
まるで山全体が、赤い絨毯を敷き詰めたような光景です。

そこに、一頭の牡鹿が現れます。
立派な角を持った牡鹿です。
秋の鹿の鳴き声は、古くから、牡鹿が牝鹿を恋い慕う声として和歌に詠まれてきました。
つまり、この歌には、鮮やかな紅葉と、愛する相手を求める鹿という、たいへん華やかな情景が描かれているわけです。

ところが、その結末が「秋は悲しき」です。
なぜでしょう。

華やかなものは、必ずしも人を幸福にするとは限りません。
豪華な衣装を身につけても、心が満たされるとは限らない。
立派な屋敷に住んでいても、そこに安心があるとは限らない。
多くの財産を持っていても、愛する人との関係が満たされているとは限らない。
むしろ、外側が華やかであればあるほど、その内側にある孤独が際立つこともあります。

2013年の解説では、この歌を、そうした華美な贅沢や虚飾のむなしさを詠んだ歌として解説しました。

もちろん、これは一つの解釈です。
作者の猿丸大夫についても、詳しいことはわかっていません。
むろん、会って確かめることもできません。
ですから作者が本当に貴族社会の贅沢を批判しようとしたのかどうかまで、確かめようもないことです。

けれど、だからといって、この読み方に意味がないわけではありません。
なぜなら、ここには、和歌を読むうえで大切なことが隠れているからです。

それが、
同じ歌でも、観測点が変われば、まったく違う世界が見えてくるということです。

3 鹿は、本当に悲しいのか

ここで、もう一度、歌に戻ってみましょう。

 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
 声聞く時ぞ 秋は悲しき

この歌を、鹿の側から見てみたら、どうなるでしょうか。
牡鹿は、牝鹿を求めて鳴いています。
卑猥とか言わないでくださいね。生き物として、ごく自然な営みなのです。

鹿は、ただ、一生懸命に、相手を求めているだけです。
ところが、その声を聞いた人が、
「ああ、秋は悲しいなあ」と感じています。

ここに、おもしろいことが起きています。
鹿が発した声と、人が受け取った悲しみは、同じものではないのです。

鹿の声は、鹿のものです。
けれど、その声を聞いて生まれた悲しみは、人の心の中にあります。

つまり、この歌の悲しみは、
 鹿という存在そのものにあるのでも、
 聞き手という存在だけにあるのでもありません。

鹿の声と、それを聞いた人間の心。
その「あいだ」に生まれているのです。

これを、最近よくお話ししているRelation(関係性)という観測点から見ると、たいへん興味深いことになります。

私たちは、何かを見たり聞いたりしたとき、つい、その対象そのものに意味があると考えてしまいます。
「あの人は冷たい」
「あの人はやさしい」
「あの出来事は悲しい」
「あの景色は美しい」

本当にそうなのでしょうか。
同じ言葉を聞いても、励まされたと感じる人もいれば、傷ついたと感じる人もいます。
同じ景色を見ても、美しいと思う人もいれば、寂しいと思う人もいます。

対象が変わったわけではありません。
その対象と出会った人の経験や記憶、置かれた状況が違うのです。
そして、その出会いの中から、それぞれに違う意味が生まれてきます。

猿丸大夫の歌は、千年以上も前から、そのことを私たちに問いかけているようにも思えるのです。

4 和歌が語らなかったもの

この歌には、もう一つ、おもしろい特徴があります。
それは、説明がほとんどないことです。

鹿がどこから来たのか。
なぜ鳴いているのか。
誰がその声を聞いているのか。
その人は、どんな人生を送ってきたのか。

何も書かれていません。
ただ、奥山があり、紅葉があり、鹿の声がある。
そして「秋は悲しき」です。
これだけです。

もし、この歌が、
「私は昔、愛する人と別れたことがあり、そのときの寂しさを思い出したので、秋の鹿の声を聞くと悲しくなるのです」とでも説明されていたら、どうでしょうか。
なるほど、そういう事情だったのか、と納得はできるでしょう。
けれど、そこで話が終わります。
作者の悲しみは、作者の悲しみとして完結してしまうからです。

ところが、この歌には、その説明がありません。
だから読む人は、自分の経験を重ねることができます。

愛する人を亡くした人は、その人を思い出すかもしれません。
遠く離れた故郷を思う人は、故郷の山々を思い浮かべるかもしれません。
若いころの恋を思い出す人もいるでしょう。
あるいは、ただ紅葉の美しさと鹿の声に、秋の深まりを感じる人もいるでしょう。

どれが正しくて、どれが間違っている、ということではありません。

もちろん、和歌には、詠まれた時代の言葉の意味や、当時の人々が共有していた文化があります。
それを無視して、どのように読んでもよいということではありません。

けれど、その歴史的な意味を大切にしたうえで、なお、読む人によって違う心の動きが生まれる。
そこに、和歌の豊かさがあるように思います。

言葉にしなかった部分があるからこそ、千年後の私たちの心まで、その歌の中に入っていける。

これが、和歌の持つ「余白」なのではないでしょうか。

5 悲しみを悲しみのままで終わらせない

ここでまた観測点を動かしてみましょう。
この歌は、「秋は悲しき」で終わっています。
つまり、結論が「悲しみ」です。

けれど、この歌を読んだ私たちは、そこで終わる必要があるのでしょうか。
悲しみを感じることと、悲しみの中に閉じこもることは、同じではありません。

誰かとの別れがあったとします。
別れは、悲しいものです。
けれど、その悲しみの中から、その人と過ごした時間の大切さに気づくこともあります。
失ったものを数えるだけでなく、与えられていたものの大きさに気づくこともあります。
そして、その経験が、いま目の前にいる人を、もっと大切にしようという姿勢につながることもあります。

悲しみそのものが消えたわけではありません。
けれど、悲しみとの関係が変わったのです。
これが、出口設計(Exit Design)という観測点から見たときの、一つの可能性です。

出口設計とは、問題をなかったことにすることではありません。
起きた出来事を、どうすれば、その後の人生をよりよくすることにつなげられるか。
そこに目を向けることです。

もちろん、悲しいときに、無理に前向きになる必要はありません。
悲しみには、悲しみとして過ごす時間があってよいと思います。
けれど、いつか、その悲しみが別の意味を持つ日が来るかもしれない。
そうした可能性を閉ざさないこともまた、一つの姿勢なのではないでしょうか。

猿丸大夫の歌そのものは、そこまで語っていません。

ただ、「秋は悲しき」と詠んでいるだけです。
けれど、その言葉に出会った私たちは、そこからさらに先を考えることができます。

歌の結末は「悲しき」でも、読む人の人生まで、そこで終わる必要はない。

このことは、たいへん大切なことのように思います。

6 千年を超えて生まれるRelation

さて、ここでもう一度、最初の問いに戻ります。
鹿の声を聞いて、なぜ秋は悲しいのでしょうか。
おそらく、その答えは一つではありません。
鹿の声を聞いた人の数だけ、違う答えがあるのでしょう。
そして、その違いこそが、この歌を千年以上にわたって生かしてきた理由の一つなのかもしれません。

作者は、千年後の私たちに向かって、何かを説明しようとしたわけではないでしょう。
自分が感じたことを、三十一文字の歌にした。
ただ、それだけだったのかもしれません。

けれど、その歌が残され、伝えられ、読み継がれてきたことで、作者の知らない時代の、作者の知らない人々の心に、新しい感情が生まれ続けています。

考えてみれば、これもまた不思議なことです。
作者は、もうこの世にいません。
歌が詠まれたときの山も、鹿も、紅葉も、すでに遠い過去のものです。
それなのに、歌は、いまも私たちの心を動かします。

つまり、歌は、作者が意味を込めて完成させたところで、すべてが終わるわけではない。
歌を受け取る人がいて、そこに新しい意味が生まれる。
そして、その人がまた、誰かに歌を伝えていく。
そうして歌は、時代を超えて生き続けます。

これは、まさにRelationであり、結びであり、Circulation(循環)でもあります。

一人の人が詠んだ歌が、別の人の心に届き、そこからまた新しい何かが生まれていく。
しかも、そのために必要だったのは、作者がすべてを説明することではありませんでした。
むしろ、説明し尽くさなかったからこそ、後の時代の人々が、その歌の中に入ることができたのです。

現代は、何事にも説明が求められる時代です。
何を言いたい?、結論は何?、正解はどれ?

もちろん、説明も結論も、正解も必要なことでしょう。
けれど、人と人との関係や、文化の継承といったものは、ただ説明すれば完成するというものではありません。

相手が考える余地を残す。
相手が自分の経験を重ねられる場所を残す。
相手が新しい意味を生み出せる可能性を残す。
そうした「余白」があってはじめて、言葉が一方通行の伝達ではなく、人と人との結びになっていくのではないでしょうか。

猿丸大夫の歌は、千年を超えて、いまも私たちに問いかけています。

「鹿の声を聞いて、なぜ秋は悲しいのだろう?」
そして、その問いに、私たちはそれぞれの人生から答えることができます。

和歌は、答えを教えない。
だからこそ、千年後の私たちも、その問いの中に入っていける。

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PS:
これを書いていて、あることを思いだしました。
昔、まだ若い頃のことです。
家でチワワ犬を飼っていました。
室内犬ですが、なぜかトイレのしつけがなかなかうまくいかない(笑)。
無駄吠えが多い。
散歩に連れ出すと、草むらや電信柱でうんちをするのではなく、どういうわけかよそ様のお宅の玄関前でする(涙)。
もちろんちゃんと始末はするのですが、聞き分けのない子で、私もまだ若かった。
なのでつい、強く叱っていました。
ある日、その子がタンスの角に頭から激突して頭蓋骨が割れる怪我をしました。
信じられないようなことですが、そういうこともあるのですね。
すぐに獣医さんのもとに連れて行ったのですが、結局亡くなりました。
帰宅後、あれだけ吠えていたジュリちゃんの声がしなくなりました。
そのとき思いました。
言うことを聞かない、尻癖が悪い、無駄吠えする。
でも、それって、彼が生きていたからだったんです。
死んでしまったら吠えることもできない。
それ以後も、様々な犬や猫を飼いました。
いまも、犬が1匹、猫が4匹(笑)
みんな元気です。
そして、ジュリちゃん以降、いっさい、強く叱ることをしなくなりました。
以後、問題児は、なぜかいません(笑)。
「悲しみの中から、その人と過ごした時間の大切さに気づくこともある」
書きながら、そんなことを思いだしました。

——今日も良い一日を♪

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