結びとは、みんなが同じ答えを持つことではありません。それぞれが違う意見や経験を持ち寄ることで、誰も思いつかなかった新しい答えが生まれる。そこに「結び」の創造性があります。けれど、世の中には、人々の善意や誠実さを利用しようとする人もいます。そうした相手とも、無条件に結ばなければならないのでしょうか。
本稿では、家族の会話や会社の会議を入口に、『論語』の「和して同ぜず」、『古事記』の「むすひ」、そしてRelation(関係性)という観測点から、結びの本質を考えます。結べない相手がいることは、結びという思想の敗北ではない。結びの可能性と、その可能性を守るための「結ばない出口」について考察します。

今日のひとこと・一人の答えにみんなを合わせるより、それぞれの答えを持ち寄ってみる。その「あいだ」から、誰も持っていなかった答えが生まれる。

_

1 みんなが同じ答えを持つ必要はない

家族で、休日の過ごし方を相談しているとします。

お父さんは、せっかくの休みだからドライブに行きたい。
お母さんは、日頃忙しいのだから、家でゆっくり過ごしたい。
子供は、友達と遊びたい。

さて、どうしましょう。

多数決で決めることもできます。
お互いに少しずつ譲り合って、妥協点を探すこともできます。

けれど、ここで、もう一つの考え方があります。

そもそも、なぜ、それぞれが、そのようにしたいと思っているのでしょうか。

お父さんは、家族と楽しい思い出をつくりたいのかもしれません。
お母さんは、忙しい毎日から少し離れて、心と体を休めたいのかもしれません。
子供は、友達と遊ぶ時間も大切にしたいのかもしれません。

それなら、午前中は家族で近くの公園に出かけて、お弁当を食べる。
午後は家に戻り、お母さんはのんびり。
子供は友達と遊び、お父さんは夕食の準備。

そんな休日だって、あるかもしれません。

最初に誰かが提案した答えとは違います。
けれど、それぞれが大切にしたかったものは、ちゃんと残っています。
しかも、最初は誰も考えていなかった、新しい休日の過ごし方が生まれています。

これが「結び」のおもしろさです。

2 正しい答えを持つ人が、一番偉いのか

私たちは学校で、長い間、「正しい答え」を求める訓練を受けてきました。
算数には、答えが一つに決まる問題があります。
歴史でも、年号や人名を正しく覚えることが求められます。
もちろん、これは必要なことでしょうし、事実を正しく知って論理的に考えることも、とても大切です。

けれど、世の中の問題は、いつも正解が一つとは限りません。
会社をどう経営するか。
地域の衰退をどう防ぐか。
子供をどのように育てるか。

こうした問題には、あらかじめ用意された正解なんてありません。

ところが、私たちはつい、誰かが「正しい答え」を持っているはずだ、と考えてしまいます。
社長が正しい答えを持っている。
先生が正しい答えを持っている。
専門家が正しい答えを持っている。

なかには宗教家に答えを求める人もいます。
そして、その答えに、みんなが合わせようとします。
しかし、どれほど優れた人であっても、その人が見ている世界は、世界のすべてではありません。
観測点が変われば、見える世界も変わるのです。

一人の観測点からは見えなかったものが、複数の観測点を持ち寄ることで、初めて見えてくることがあります。

ここに、結びの可能性があります。

3 「和」と「同」は違う

日本には古くから「和」という言葉があります。
「和」というと、みんなが仲良くすること、あるいは争わずに同じ意見にまとまることだと思われがちです。

けれど、『論語』には、
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
という言葉があります。

この言葉は、立派な人物は、人と調和するけれど、むやみに同調するわけではない。
逆に、ただ人に同調するだけでは、本当の調和にはならない、と読むことができます。

「和」と「同」は、違うのです。

たとえば、音楽を考えてみてください。
ドの音だけを、十人で鳴らしても、基本的にはドの音のままです。
では、ドとミとソを、同時に鳴らしたらどうなるでしょう。
和音が生まれます。

ドはドのまま。
ミはミのまま。
ソはソのまま。

どの音も、自分の音を捨てていません。
それなのに、三つの音が合わさることで、一つの音だけでは生まれなかった響きが生まれます。

違いがあることは、対立の原因ばかりではありません。
違いがあるからこそ、新しい響きが生まれることもあるのです。

もちろん、和音にも不協和音がある。
違う音をただ鳴らせば、必ず美しい和音になるというものばかりでもありません(笑)。

しかし、全体として、どのような響きを生み出したいのかという出口を考えたときに、
不協和音さえも、心地よい音楽の一部になることがあります。

人と人との関係も、同じではないでしょうか。

4 結びは、新しいものを生み出す

『古事記』の冒頭には、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)という神様が登場します。
どちらの神名にも、「むすひ」という言葉が含まれています。

「むすひ」は、古くから生成や生命の働きに関わるものとして考えられてきました。
「むす」という言葉は、苔がむす、草がむす、といった表現にも残っています。
何かが生まれ、育っていく。
そのような生命の働きを連想させる言葉です。

ここから少し、現代の人間関係に引き寄せて考えてみたいと思います。

人と人が出会うとき、それぞれにはそれぞれの経験があります。
同じ人生を歩んできた人は、誰もいません。
ですから、同じ出来事を見ても、感じることや、考えることが違います。
その違いを、どちらが正しいかという争いにしてしまえば、勝つ人と負ける人が生まれます。

けれど、それぞれの違いを持ち寄ってみたら、どうでしょう。
一方が気づかなかったことに、もう一方が気づくかもしれません。
一方には無理だと思えたことが、もう一方の経験によって可能になるかもしれません。
そして、互いの考えを組み合わせることで、どちらも思いつかなかった、新しい答えが生まれるかもしれません。

結びは、どちらかが自分を消すことではありません。
互いが違いを持ったまま、新しいものを生み出していく。
そこに、結びの働きを見ることができるように思います。

もっとも世の中には、結びを望まない人もいます。
人々の結びの姿勢を利用して、経済的利益を求め、自分たちは被害者だと言いながら、上級国民を名乗る。
とりわけ現代では、関わっても関わなくても害を及ぼしてくる、いわゆるマニピュレーター(心理的誘導者)、自己愛的なトラブルメーカーなどもあります。
これらへの対策は、本件とはまた違った課題ですので、後述します。

5 会議は、誰の答えを採用する場所なのか

さて、ある会社で、新しい商品を開発することになりました。
営業部「お客様は、もっと安い商品を求めています」
開発部「安くするだけでは、品質が落ちてしまいます」
製造部「いまの設備では、これ以上のコスト削減は難しいです」
経営者「利益が出なければ、会社は続かない」

さて、どうしましょう。
誰かの意見を採用しますか?
多数決で決めますか?
経営者が最終判断を下しますか?

もちろん、責任者が判断しなければならない場面もあります。
けれど、その前に、みんなの意見を持ち寄ることはできないでしょうか。

営業部は、お客様の声を知っています。
開発部は、技術の可能性を知っています。
製造部は、現場の制約を知っています。
経営者は、会社全体の将来を考えています。

それぞれが、違う観測点を持っています。
そこで、たとえば、
「本当にお客様が求めているのは、単純な安さなのだろうか」
という問いを置いてみます。

すると営業部から、
「実は、お客様が困っているのは、購入後の維持費なんです」という話が出てくるかもしれません。
それなら開発部は、
「初期費用を下げるより、維持費のかからない設計に変えましょう」と提案できるかもしれません。
製造部は、
「それなら、いまの設備でも対応できます」と言うかもしれません。
経営者も、
「それなら、お客様にも喜んでもらえて、会社にも利益が残る」と判断できるかもしれません。

最初は、誰もその答えを持っていませんでした。
営業部の答えでもない。
開発部の答えでもない。
製造部の答えでもない。
経営者の答えでもない。
みんなが、それぞれの答えを持ち寄ることで、新しい答えが生まれたのです。

もちろん、現実の会議では、こんなに簡単にはいきません。
けれど、ここには一つの重要な違いがあります。

それは、会議を「誰の意見を採用するかを決める場所」と考えるのか、
それとも、「まだ誰も持っていない答えを、一緒につくる場所」と考えるのか、という違いです。

この違いは、組織のあり方そのものを変えていく可能性があります。

6 「あいだ」に生まれるもの

これまで、このブログでは、何度かRelation(関係性)という観測点について考えてきました。
私たちは、人を見るとき、つい、その人自身に注目します。
あの人は頭がいいとか、頑固だとか、優秀だとかで、一人ひとりを評価します。

けれど、人が二人以上集まったとき、そこには、個人の能力だけでは説明できないことが起こります。
一人では良いアイデアが出なかった人が、誰かと話していると、次々に発想が生まれる。
人前では発言するのが苦手な人が、安心して話せる仲間の中では、すばらしい意見を出す。
自分一人で考えていると行き詰まるのに、誰かの意見を聞いた途端、思いもよらなかった解決策に気づく。
こうしたことは、決して珍しくありません。

では、その新しい答えは、誰のものなのでしょうか。

最初の人のもの?
次の人のもの?
それとも、最後に発言した人のもの?

その答えは、人と人との「あいだ」に生まれたものです。
互いが出会い、話し合い、互いに影響を与え合ったからこそ、生まれたものです。

これが、Relationという観測点から見た「結び」の働きなのだと思います。

7 誰も持っていなかった未来へ

人はそれぞれ、意見が違います。
違う意見が出ると、話がまとまらず、時間がかかることもあります。
誰か一人が答えを決めて、みんなが従った方が早いこともあるでしょう。

けれど、いつでも、それだけでよいのでしょうか。

一人の答えにみんなを合わせる社会では、その一人が見えている範囲が、社会全体の可能性の限界になってしまうかもしれません。
一人ひとりが自分の答えを持ち寄ることのできる社会では、誰か一人には見えなかった可能性が開かれることがあるかもしれません。

意見を持ち寄れば、必ず正しい答えが生まれるわけではありません。
間違うことも、失敗することもあります。
けれど、その失敗さえも、次の答えを生み出す経験にすることができます。

大切なことは、最初から誰か一人の答えを絶対視しないこと。
違うから、見える。
違うから、気づける。
違うから、新しいものを生み出せる。

そう考えると、人と人が出会うことの意味も、少し変わってきます。

出会いとは、単に仲間を増やすことではありません。
自分にはなかった観測点と出会うことなのだと思います。

倭塾では、倭塾LINEや、倭塾サロン等を、自分にはなかった観測点と出会う場として運営しています。
結びは、互いの違いを消すことではなく、
その違いを持ち寄ることで、まだ誰も見たことのない未来を生み出していくことと思うからです。

今日、誰かと意見が違ったとき。
すぐに、どちらが正しいかを決めるのではなく、ちょっとだけ問いを変えてみる。
「あなたは、どうしてそう考えたの?」
「なるほど。では、二人の考えを持ち寄ったら、何ができるだろう?」

その小さな問いから、これまで誰も持っていなかった答えが生まれるかもしれません。

一人の正解に、みんなを合わせるのではない。
それぞれの答えを持ち寄って、まだ誰も持っていない答えを生み出す。

そこに、結びの力があります。

そして、その先にあるのは、誰かの描いた未来をみんなで実現する社会ではなく、みんなが自分の観測点を持ち寄りながら、共に未来をつくっていく社会なのだと思います。

8 結びには、成立するための条件がある

たとえば、二人の人がいたとします。
一人は、互いの違いを尊重し、より良い未来を一緒につくろうとしています。
もう一人は、相手の善意や誠実さを利用して、自分だけが利益を得ようとしています。

この二人は、「話し合いましょう」と言っても、実は同じ土俵に立っていません。
なぜなら、一方は新しい価値を生み出そうとしているのに、もう一方は相手から価値を奪おうとしているからです。

しかも厄介なのは、後者が必ずしも悪意を表に出しているとは限らないこと。
そして多くの場合、そうした人たちは、
「私は被害者だ」
「あなたは私を傷つけた」
「本当に思いやりがあるなら、私の要求に応じるべきだ」などと口にします。
こうして、相手の良心や罪悪感を利用しようとするのです。

そして、自分の責任を相手に転嫁します。
さらには、周囲を巻き込んでコチラを孤立させようとします。

こういう関係では、誠実な人ほど苦しむことがあります。
なぜなら、誠実な人ほど、
「相手にも事情があるはずだ」
「自分にも至らないところがあったのではないか」
「もっと努力すれば、わかり合えるのではないか」
と考えるからです。

その姿勢自体は尊いものです。
しかし、相手がその誠実さを利用している場合には、善意が搾取の入口になってしまいます。

ここに、結びの難しさがあります。

9 結ばないことも、結びを守るための選択

ここで重要なことは、
「相手を悪人と決めつけること」と
「有害な行動から距離を置くこと」は、まったく別だということです。

相手が本当に自己愛的な人格傾向を持っているのか、意図的に操作しているのかは、簡単に判断できることではありません。
そこで大切になることが、「実際に何が起きているか」を看(み)ることです。

約束を繰り返し破る。
責任を一方的に押しつける。
断ると脅す。
人間関係を利用して孤立させる。
話し合いのたびに要求が増え、こちらの自由が失われていく。

そうした行動が続いているようであれば、無理に関係を深める必要はないと思います。
むしろ、距離を置くこと、境界線を引くことが必要になると思います。

結びとは、誰とでも無条件につながることではない。
これは、きわめて大切な原則だと思います。

10 ではどうするか。「結ばない出口」を設計する

ここで生きてくるのが、「出口設計(Exit Design)」です。

基本的に対応には、四つの段階があります。

  1. 見極める。
     相手の人格を決めつけるのではなく、実際の行動と、その結果を見る。
     言葉よりも、約束を守るか、拒否を尊重するか、責任を引き受けるかを見る。
  2. 境界を設ける。
     お金、時間、個人情報、意思決定について、相手が踏み込める範囲を明確にする。
     相手の苦しみを理解することと、相手の要求に従うことは、完全に別です。
  3. 関係の構造を変える。
     必要な連絡は文書で行い、合意事項を記録し、第三者を介する。
     直接対話が害を増幅させるなら、対話の形式そのものを変える。
     基本的に、文書での提出を求める。口頭だけのものは相手にしない。
     その場での質問への回答は拒否。まえもって文書提出されたものには、口頭で回答する。
  4. 必要なら離れる。
     互いの境界を繰り返し侵害されるなら、基本は接触を減らす、取引を終える、組織から切り離す。
     脅迫や経済的搾取などがあれば、記録を残し、必要に応じて専門機関や弁護士に相談する。

心理的操作や威圧、孤立化、経済的支配は、実際に認識されている有害な行動パターンです。
こうした場合には、話し合いを重ねても、何の解決にもなりません。

重要なことは、離れることと、相手を滅ぼそうとすることは違うという点です。

ここは大事なことです。
相手を憎み続けると、距離を置いた後も、その人に心を支配されてしまいます。
必要なことは、報復ではありません。
相手の操作が届かない状態をつくることです。

これも立派な出口設計だと思います。

11 さらに大切なことは「結べる人たち」を守ること

ここでもう一段、社会の構造として考えてみます。
たとえば、百人が互いを尊重し、協力しながら暮らしている共同体があったとします。
そこに、一人の人物が現れ、みんなの善意を利用して利益を得ようとする。
断られると「差別された」「自分は被害者だ」と訴え、周囲に圧力をかける。

もし共同体が「誰も排除してはいけない」という原則だけで動いていたら、どうなるでしょう。
誠実な人ほど負担を引き受け、やがて疲れ果てて去っていくかもしれません。
結果として、結びを大切にした共同体そのものが壊れてしまいます。

だとしたら、共同体には、結びを促す仕組みだけでなく、
結びを悪用する行為から人々を守る仕組みが必要です。

ただし、ここは基本的に慎重でなければなりません。
誰かが「この人物はマニピュレーターだ」と断定しただけで排除できる仕組みにしてしまえば、今度はその仕組み自体が操作の道具になってしまうからです。

だから本来なら、人格ではなく具体的な行為を対象にし、証拠、明確なルール、公正な判断、異議を申し立てる機会を備える必要があります。
ただし、民間団体では、他の参加者への被害を防ぐため、運営責任者が迅速に参加制限や退会措置を判断しなければならない場合もあります。
その場合も、事前に明示された規約や具体的な事実に基づき、必要な範囲で判断することが大切です。

これは、「善悪をEntityではなくRelationから見る」という思想とも矛盾しません。
人を「悪人」という固定的な存在として裁くのではなく、
その人の行動が、周囲との関係に何を引き起こしているのかを見ることによる判断だからです。

そして、有害な関係を断ち、被害を止め、ほかの人々が安心して結びを続けられる環境をつくる。
これはRelationからの出口設計です。

12 結びには「自立」が必要

もうひとつ、大切なことがあります。
それは、結びの前提に、「自立」が必要だ、ということです。

自立とは、誰の助けも借りずに生きることではありません。
自分の意思を持ち、相手の意思も尊重することです。

「私はこう思う」
「あなたはそう思う」
「では、二人で何ができるだろう」

これが結びです。

ところが、
「私はこう思う」
「だから、あなたも同じように考えなければならない」
「従わないあなたが悪い」
となったら、そこにあるのは結びではなく支配です。

結びは、互いの自立を尊重するところから始まります。
支配は、相手の自立を奪うところから始まります。

この区別は、きわめて重要だと思います。
そしてこのとは、11の判断とも矛盾しないことです。
なぜなら、私たちは自立を重んじ、従属を好まないからです。

13 他者の結びを壊してよい自由があるわけではない

今日の「ひとこと」は、
「一人の答えにみんなを合わせるより、それぞれの答えを持ち寄ってみる。その「あいだ」から、誰も持っていなかった答えが生まれる」です。この文には、「それぞれの答えを持ち寄る」という大切な前提があります。つまり、お互いが自分の答えを持ち、相手の答えにも耳を傾ける姿勢です。

では、誰かが他者の答えを奪い、自分に従わせようとしたら?
そのときは、無理に結ぼうとはしない。

結びを大切にするからこそ、結ばないという選択も大切にする。

そして、もう一つ。

結びは、すべてを受け入れることではない。互いの自立を守りながら、新しい未来を生み出す。

ここで、これまで述べてきた「姿勢」「自立」「善悪」「Relation」「結び」「出口設計」が、すべてひとつにつながります。

結べない相手がいることは、結びという思想の敗北ではありません。むしろ、結びを守るためには、どこに境界を置き、どう関係を終えるかという設計が欠かせないのです。なぜなら、結ぶことが目的ではないからです。人々が安心して、新しい価値を生み出し続けられることが目的なのです。
ここを明確にすることで、「結び」はようやく、単なる理想論ではなく、現実の社会を支える思想になります。

結びは手段です。
自立も、出口設計も、共同体の規則も、すべては「みんなのより良い未来をつくるための手段」です。

さらにいえば、
「関わらないと決めても、なお害を及ぼしてくる相手に対して、どう出口を設計するか」という問題があります。これは、単に距離を置くだけでは解決しません。
個人の境界だけでは守れないものを、共同体や制度によってどう守るか。
ここまで踏み込むと、「結び」と「法」、そして「文明の設計」の問題になります。
これについては、また後日。

今日の結論は、
結べない相手がいることは、結びという思想の敗北ではない。
までにしておきます。

「結びを拒む自由」と「他者の結びを壊す自由」は、まったく違うものです。
結びたくない相手とは、結ばない自由がある。
他者の結びを壊してよい自由があるわけではないのです。

——今日も良い一日を♪

_

📘倭塾LINE
倭塾LINEには、本編だけでなく、ちょっと笑える「番外編」もあります。

_

■新刊 大好評発売中
これが私の集大成本です。
『思想の時代は終わった』
https://amzn.to/3P5D0lS

_

Screenshot

ブログも
お見逃しなく!

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます。

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。