問題が起きると、私たちは「元に戻したい」と考えます。けれど、本当に大切なのは、元に戻ることなのでしょうか。苦労そのものに価値があるのではなく、その経験を未来にどう結ぶか。25年間、両親と会わなかった男性が、久しぶりの帰省で語ったひとこと。「味噌汁が美味かった」。その言葉の向こうに、出口設計の大切な意味が見えてきます。

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出口は、問題がなくなる場所ではない
問題を経験したからこそ、前より少し良い未来を始められる場所
今日の「ひとこと」は結構大事なことです。
もっと言えば、
苦しみそのものに価値があるわけではない。
その経験を、次の未来にどう結んでいくか。
ここにこそ、新たな価値が生まれるのだと思います。
私たちは、何か問題が起きると、まず「元に戻したい」と考えます。
病気になれば、健康だった頃に戻りたい。
人間関係がこじれれば、仲の良かった頃に戻りたい。
仕事で失敗すれば、失敗する前の状態に戻りたい。
普通、そういうものです。
けれど、ここにひとつ、考えてみたいことがあります。
本当に目指すべき出口は、「元に戻ること」ではないのかもしれません。
たとえば、ある会社で大きなミスが起きたとします。
担当者が謝罪し、損害を補填し、問題の原因となった人が処分される。
それで一件落着。
普通は、そう考えます。
けれど、もしその会社が、問題の原因を十分に調べず、担当者の責任だけを追及して終わりにしたとしたら、どうなるのでしょうか。
同じような問題が、また起きるかもしれません。
なぜなら、問題を起こした人は処分されても、「問題を生んだ仕組み」がそのままになっているからです。
一方、その会社が、今回の失敗をきっかけに、仕事の進め方を見直したとします。
担当者が一人で抱え込まなくてもよい仕組みをつくる。
困ったときに、早めに相談できる環境を整える。
誰かがミスをしても、周囲がそれに気づき、補い合える体制をつくる。
すると、どうなるでしょう。
その会社は、失敗する前よりも、少し良い会社になっているかもしれません。
ここに、出口設計の大切な意味があります。
1 問題を消すことと、未来をつくることは違う
問題が起きると、私たちは、まず原因を探します。
いつ、どこで、誰が、何を、どうして、どのように。
まさに5W1Hです(笑)。
もちろん、それはそれで大事なことです。
原因の究明だからです。
責任を明らかにしなければならない場合もあります。
けれど、原因がわかったことと、問題が解決したことは、必ずしも同じではありません。
以前、江戸時代の争いごとの解決について考えたことがあります。
現代の裁判では、裁判所が判決を出すことで、法的な争いに一定の決着がつきます。
しかし、判決が出た翌日からも、人々の暮らしは続きます。
隣人同士の争いであれば、翌朝も顔を合わせるかもしれません。
家族の争いであれば、翌日も同じ家で暮らすかもしれません。
商売上の争いであれば、翌日も同じ地域で仕事を続けるかもしれません。
つまり、判決が出ても、人と人との関係は、そこで終わるとは限らないのです。
江戸時代には、争いを当事者間の話し合いなどで収める「内済(ないさい)」という仕組みがありました。
もちろん、江戸時代の社会にも不公平や理不尽はありましたし、内済が常に円満な解決をもたらしたわけでもありません。
それでも、ここには現代にも通じる問いがあります。
争いの決着をつけることと、争いのあとも人々が暮らしていけるようにすることは、同じなのだろうか。
出口設計(Exit Design)が考えるのは、まさにこの問題です。
判決が出れば終わりなのではありません。
判決の翌日から、人はまた暮らしていく。
その翌日を、どういう一日にするのか。
そこまで考えて、はじめて出口が見えてくるのではないでしょうか。
2 苦しみを美化しない
ここで、ひとつ大切にしておきたいことがあります。
それは、苦しみや失敗を、美化しないということです。
世の中には、「苦労は買ってでもしろ」という言葉があります。
たしかに、苦労から学ぶことは多い。
失敗を経験したからこそ、他人の痛みがわかるようになることもあります。
けれど、だからといって「苦しみに意味がある」とか、「苦しんだ人は必ず成長する」などと、簡単に言うことはできません。
人には、経験しなくてもよい苦しみがあります。
避けられるなら、避けたほうがよい不幸もあります。
失ったものが、二度と戻らないこともあります。
大切な人を失った悲しみは、何年経っても消えないものです。
そうした人に向かって、「その経験にも意味があったのです」と言うことは、
場合によっては、相手の苦しみを軽く扱うことにもなりかねません。
だから、ここは慎重に考えたいのです。
そもそも、苦労が、人を成長させるのではないのです。
苦労がさらに不幸を招く例などいくらでもあります。
「苦労した分だけ、幸せになれる」なんて言葉もありますが、
何もしなくて幸せになれることは、ありません。
そういうことではないと思うのです。
苦労そのものに価値があるわけじゃない。
その苦労や苦しみを、次の未来にどう結んでいくか。
言葉を変えれば、出口をどこに持っていくのか。
出口に向かって、必死に努力する、そこに未来の可能性と、苦労や苦しみを乗り越える意味があるのではないか。
そのように思うのです。
苦労があった。
苦しみがあった。
乗り越えようと、必死に努力した。
おかげで昨日より、ほんのちょっぴり人にやさしくなれた。
以前より少し、人の話を聞けるようになった。
同じ失敗を、次の人が繰り返さずに済むようになった。
それだけでも、十分に意味のある変化だし、ある意味、苦労の成果ではないかと思うのです。
3 出口は、一人でつくるものとは限らない
ここで、もうひとつ考えてみたいことがあります。
それは、問題の出口は、必ずしも一人でつくるものではないということです。
たとえば、ある家庭で、親子のあいだに大きな衝突があったとします。
親は、子供の将来を心配して、厳しい小言を言った。
子供は、自分の考えを認めてもらえず、深く傷ついた。
どちらにも、それぞれの事情があります。
ここで、どちらが正しいか、どちらが間違っているかだけを考えれば、議論はいつまでも平行線になります。
けれど、観測点を少し動かしてみます。
親という一人の人間、子という一人の人間を、それぞれ独立した存在(Entity)として見るのではなく、親子の「あいだ」に何が起きているのか、というRelation(関係性)から見てみるのです。
すると、別の問いが生まれます。
なぜ、心配する気持ちが、相手には否定されたように伝わってしまったのだろう。
なぜ、自分の考えを伝えたい気持ちが、相手には反抗のように見えてしまったのだろう。
ここで初めて、互いの言葉の「あいだ」にあった、すれ違いが見えてくることがあります。
こんな事例があります。
ある受験生の少年が、浪人して1年間、猛烈に勉強して、見事、当初の志望校よりもかなり上の大学に合格しました。
すると合格の知らせを受けたお母さんがひとこと。
「お母さんが、神様にお願いしたから受かったんだよ」
お母さんは信仰深い人で、それこそ我が子のために、その1年間、必死で祈り続けていました。
だから、そんな言葉が出たのだと思います。
けれど少年は、この言葉を聞いたときに、必死で勉強してきた自分の努力が全否定されたように感じたそうです。
そして「二度と親を頼りにしない」と心に誓ったのだそうです。
少年は、その思いを胸に、自分の力で生きていこうと努力を重ねました。
そして大学卒業後、事業でも成功を収めました。
彼は結婚し、子が生まれ、子が大学受験の年齢になりました。
彼は、妻とともに、我が子の勉強には、いっさい干渉してこなかったそうです。
その子は、今年の春、見事、国立の医科大学に現役合格しました。
けれど、その彼は、社会人になってからこれまで、結婚式のときさえも、一度も親と会っていないのだそうです。
これから先、年老いた両親と、どう接していくのか。
出口は、問題が消滅する場所ではありません。
親と会わないことが、良い未来であるとも言えません。
出口は、必ずしも仲直りすることにあるのでもありません。
元に戻らないからこそ、生まれる未来もあるのです。
日本の歴史を振り返ってみても、私たちは、何度も大きな困難を経験してきました。
地震、津波、洪水、飢饉、戦争。
そのたびに、多くの人が苦しみ、かけがえのないものを失ってきました。
それらの苦しみを、簡単に「成長のために必要だった」などと言うことはできません。
けれど、その経験を、次の世代のために役立てようとしてきた人々がいたことも、また事実です。
津波の経験を後世に伝えるために、石碑を建てた人々がいました。
洪水の被害を減らすために、堤防や治水の仕組みを整えた人々がいました。
飢饉を経験したからこそ、備蓄や救済の仕組みを工夫した人々もいました。
もちろん、それらの努力が、すべての災害や不幸を防いだわけではありません。
それでも、先人たちは、失われたものを嘆くだけで終わらせず、次の世代が少しでも安心して暮らせる未来をつくろうとしてきました。
ここに、ひとつの大切な姿勢があります。
過去は変えられない。
けれど、過去の経験を、未来にどう結ぶかは変えられる。
失敗した事実を、なかったことにはできません。
失った時間を、取り戻すこともできません。
けれど、その経験から何を学び、何を変え、何を次の世代に遺していくか。
ただ、そこには、まだ「選べる余地」があります。
4 出口は、新しい入口でもある
私たちは、問題が起きると、その問題をどう終わらせるかを考えます。
けれど、出口設計では、もうひとつ先を考えます。
その問題が終わったあと、どんな毎日が始まるのか。
病気が治ったあと、どんな暮らしを大切にするのか。
仕事の失敗を乗り越えたあと、どんな職場をつくるのか。
人間関係の衝突を経験したあと、どんな「あいだ」を育てていくのか。
そこまで考えると、出口の意味が変わってきます。
出口は、問題を消し去る扉ではありません。
問題を経験した人々が、そこから新しい毎日へと歩き出すための扉です。
扉の向こうに、最初から立派な未来が用意されているわけではありません。
昨日より、ほんの少し良いだけでもよいのです。
昨日は言えなかった「ありがとう」が、今日は言える。
昨日は気づかなかった相手の事情に、今日は少し気づける。
昨日は一人で抱えていた問題を、今日は誰かと一緒に考えられる。
それだけでも、未来は変わり始めています。
大切なのは、問題があったことを、人生の失敗や、恨みとしてだけで終わらせないことです。
その経験を、次の誰かの笑顔につながるものに変えていくことです。
先程のかつて受験生だった彼は、今年の夏のお盆に、両親のもとへ帰省したそうです。
25年ぶり、だったそうです。
「泣いた?」って聞いたら、「味噌汁が美味かった」って(笑)。
そして、もうひとつ。
出口は、必ずしも自分一人のためにあるのではありません。
自分が経験した苦労を、次の人には経験させずに済むようにする。
自分が味わった悲しみを、誰かの悲しみに気づく力に変える。
自分が乗り越えられなかった問題であっても、次の世代が乗り越えられるように、何かを遺していく。
そこには、自分一人の人生を超えた、未来への結びがあるのだと思います。
問題が起きたことは、残念なことだし、辛かったことかもしれません。
けれど、その問題を経験したからこそ、以前には見えなかったものが見えるようになる。
以前には考えもしなかった未来を、描けるようになることもある。
出口とは、問題が全部なくなってから現れるものではなく、問題を抱えたままでも、未来に向かって開くことのできる扉なのかもしれません。
だからこそ、今日のひとことです。
出口は、問題がなくなる場所ではない。
問題を経験したからこそ、前より少し良い未来を始められる場所。
出口は、終わりではありません。
そこは、次の未来への入口でもあるのです。
——今日も良い一日を♪
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