人生には、何もかもうまくいかなくなるときがあります。けれど『古事記』のはじまりに描かれているのは、完成された世界ではありません。形も定まらない混沌の中から、葦の新芽のように生命が萌えあがり、やがて天に常に立つ神が現れます。何度倒れても、また芽を出せばいい。宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神。二柱の神様から、生命の力強さと、自ら立つことの本当の意味を考えます。

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『古事記』のはじまりに現れるのは、葦の芽のように萌えあがる生命力。そして、天に常に立つ神。何度倒れても、また芽を出し、また立ち上がる。そこに日本神話の明るさがある。
私たちは、何かに失敗したとき、つい「もう駄目だ」と思ってしまうことがあります。
仕事がうまくいかなかったとき、人間関係がこじれてしまったとき、せっかく積み重ねてきたものが崩れてしまったときなどです。
そんなとき、人はどうしても、失ったものや、できなかったことばかりに目が向いてしまいます。
けれど、もし、私たちの生命そのものが、もともと何も整っていないところから「立ち上がる力」を持っているのだとしたら、どうでしょうか。
今回は、そんなことを『古事記』の冒頭文から考えてみたいと思います。
1 世界は、はじめから完成していなかった
『古事記』の冒頭には、最初に三柱の神様が登場します。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
神産巣日神(かむむすひのかみ)。
この三柱の神様は、いずれも独神(ひとりがみ)と成られ、隠身されたと記されています。
そして、その次に登場するのが、今回ご紹介する一節です。
次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時、
如葦牙、因萌騰之物而成神名、
宇摩志阿斯訶備比古遲神。
読み下すと、
次に、国稚(くにわか)くして、浮かべる脂(あぶら)のごとく、くらげなす漂(ただよ)えるとき、葦牙(あしかび)のごとく萌(も)え騰(あ)がるものによりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。
となります。
ここで注目したいのは、神様がお生まれになる前の、世界の状態です。
「国稚くして、浮かべる脂のごとく、くらげなす漂えるとき」
つまり、まだ世界の形が定まっていないのです。
浮かぶ脂のように、ふわふわとしていて、海に漂うクラゲのように、確かな形もない。
現代の感覚でいえば、何も決まっていない状態です。
どこへ向かうのかもわからないし、何ができるのかもわからない。
どんな未来になるのかもわからない。
ところが、ここで『古事記』は、実におもしろい表現を用います。
「葦牙のごとく萌え騰(あ)がる」
というのです。
2 葦牙(あしかび)とは何か
葦牙とは、植物の葦(あし)の、新芽のことです。
葦は、水辺に生える植物です。
春になると、水辺の泥の中から、新しい芽を伸ばします。
やわらかく、まだ小さな芽です。
けれど、その小さな芽には、驚くほどの生命力があります。
泥の中から、まっすぐに伸びる。
水の中から、空へ向かって伸びる。
やがて、背の高い葦へと成長していく。
その姿を、『古事記』は、
「萌え騰がる」
と表現しました。
ここが、実におもしろいところです。
ただ「芽が出た」とは書いていないのです。
「萌え騰がる」。
まるで、内側から抑えきれない生命力が湧きあがってくるような表現です。
しかも「萌え上がる」ではなく、「騰(あ)がる」です。
「騰」という字には、高く上がる、勢いよく上昇するという意味があります。お湯が激しく泡立つ「沸騰」にも用いられる漢字です。
つまり、ただ萌え上がっているのではなく、お湯が沸騰しているかのように、激しくさかんに立ち上がっている。
そしてそのようにして現れたものから、一柱の神様が成られたというのです。
その神様のお名前が、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
長いお名前ですねえ(笑)。
けれど、お名前を分けてみると、意味が見えてきます。
「うまし」は、立派な、すばらしいという意味の美称。
「あしかび」は、葦の新芽。
「ひこぢ」は、男性的な尊称と解釈されています。
つまり、葦の新芽のような生命力を持つ、すばらしい神様という意味に読むことができます。
もちろん、これは神名の解釈であって、神様が実際に葦の姿をしていたという意味ではありません。
けれど、ここで描かれているのが、生命の萌芽であることは確かです。
では、なぜ、世界のはじまりに、わざわざ葦の新芽のような生命力が描かれたのでしょうか。
3 生命は、完成したところから始まるのではない
ここからは、一つの考察になります。
私たちは、物事を始めるとき、つい、すべてが整ってから始めようとします。
十分なお金ができたら。
必要な知識が身についたら。
周囲の理解が得られたら。
失敗しないという確信が持てたら。
けれど、実際の人生では、すべての条件が整うことなど、めったにありません。
むしろ、多くのことは、何も整っていないところから始まります。
仕事も、家庭も、新しい人との出会いも、みんなそうです。
はじめから完成された関係などありません。
お互いに違うところがあり、わからないところがあり、ときにはぶつかりながら、少しずつ形ができていきます。
その意味で、『古事記』の「国稚くして、くらげなす漂える」という世界は、私たちの人生そのものにも重なって見えます。
何も決まっていないし、これからどうなるのかもわからない。
けれど、そこに生命(いのち)がある。
そして生命(いのち)がある限り、そこから新しい芽が生まれる可能性がある。
完成しているから、芽が出るのではない。
未完成だからこそ、そこに新しい芽が生まれる。
そんな読み方もできそうです。
4 次に現れるのは、天之常立神
さて『古事記』は、宇摩志阿斯訶備比古遅神に続いて、もう一柱の神様を登場させます。
次天之常立神
(訓常云登許、訓立云多知)
此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
読み下すと、
次には、天之常立神(あめのとこたちのかみ)。
(「常」は「とこ」と読み、「立」は「たち」と読む)
この二柱の神様もまた、独神(ひとりがみ)と成られて、身に隠しましきなり。
ここで登場されるのが、天之常立神です。
これもまた、興味深いお名前です。
「天」は、あめ。
「常」は、とこ。
「立」は、たち。
この御神名にも、いくつかの学説があります。
天に恒久にとどまる神様という解釈もあれば、天地や神々が成り立つための根源的な場を表しているという解釈もあります。
ですが『古事記』そのものは、この神様のお名前の意味を詳しく説明していません。
ですから、ここで解釈を一つに決めつけることはできません。
ただ、先ほどの宇摩志阿斯訶備比古遅神との並びを見たとき、あることに気づきます。
最初に描かれたのは、
「葦牙のごとく萌え騰がる」
という、生命が勢いよく生まれてくる姿でした。
そして、その次に現れる神様の御神名には、
「天」と「常」と「立」
という文字が使われています。
これを、神様の出現する順序から一つの物語として読んでみると、どうでしょうか。
生命が萌えあがる。
そして、天に常に立つ。
なんとも、力強い景色が見えてくるように思います。
5 立つことは、生命が向かう先でもある
ここでもう一つ、考えてみたいことがあります。
葦の芽は、芽吹いたままでは終わりません。
芽を出したら、伸びていきます。
水面を越え、風を受け、空へ向かって伸びていきます。
つまり、萌えることと、立つことは、別々のようでいて、一つの生命の営みとしてつながっています。
最初は、小さな芽です。
まだ弱く、頼りなく見えるかもしれません。
けれど、その芽には、成長する力があります。
そして、やがて自ら立つようになります。
これは、私たちにも通じることです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分では何もできません。
周囲の人に守られ、育てられ、少しずつ成長していきます。
やがて、自分の足で立つようになります。
けれど、立つということは、誰の助けも借りなくなることではありません。
葦もまた、水があり、泥があり、陽の光があり、風があるからこそ育ちます。
そのすべてとの関係の中で、自ら立ちます。
人も同じです。
親がいて、家族がいて、友人がいて、さまざまな人との出会いがある。
そうした関係の中で、少しずつ自分の足で立つ力を身につけていきます。
自立とは、関係を断ち切ることではなく、関係の中で自ら立つこと。
そう考えると、葦牙から天之常立神へという神々の並びも、また違った景色に見えてきます。
もちろん、古事記の原文が、直接このような人生訓を説いているわけではありません。
けれど、神々の名と、その現れる順序を通して、私たち自身の生き方を考えることはできると思うのです。
6 神々は、どこへ行かれたのか
ところで、ここにはもう一つ、興味深い言葉があります。
此二柱神亦、独神成坐而、隠身也
この二柱の神様もまた、独神として成られ、身を隠されたというのです。
前回は、この「隠身」について考えました。
(https://hjrc.jp/9633/)
ここでいう独神(ひとりがみ)とは、夫婦の組ではなく、単独で現れた神様のことです。
「隠身」についても、神様が姿を見せなくなった、目に見える姿を超えたなど、いくつかの解釈があります。
では、ここでも一つ、観測点を動かしてみましょう。
葦の芽のように萌えあがる生命力。
そして、天に常に立つ神様。
その二柱が、身を隠された。
ということは、生命力も、天に立つという働きも、消えてしまったのでしょうか。
そうではなく、むしろ、
目には見えなくなったけれど、世界の根底にあり続ける。
そのように読むこともできるのではないでしょうか。
もちろん、これは解釈の一つです。
ただ、もしそう考えるなら、神様が身を隠されたということは、決して生命の働きが終わったということではありません。
むしろ、その働きが、目に見える一つのお姿に限られないものとなった。
そのように受け止めることもできます。
そして、ここには、前回考えた「隠身」と、今回の「葦牙」が結びつく、おもしろさがあるように思います。
7 何度でも、また芽を出せばいい
人は、誰でも失敗します。
思い通りにいかないこともあります。
てか、思い通りに行かないことばかりかもです(笑)
一生懸命に積み重ねてきたものが、ある日突然、崩れてしまう。
そんなとき、人は、自分の人生が終わってしまったようにさえ感じます。
けれど、『古事記』の冒頭に描かれている世界は、最初から完成された美しい世界ではありません。
形も定まらず、ただ漂っているような世界です。
その中から、葦の芽のように、生命が萌えあがってきたのです。
そして、その次には、天之常立神が現れたのです。
古代の人々が、ここにどのような思いを込めたのか、そのすべてを確かめることはできませんし、断定もできません。
けれど、少なくともこの神話には、形も定まらないところから、生命が勢いよく萌えあがるという、実に力強い光景が描かれています!
この光景を、今日を生きる私たちへの励ましとして受け取ってもよいのではないでしょうか。
どのみち混沌としているのです。
失敗したら、また始めればいい。
倒れたら、また立ち上がればいい。
すべてを失ったように思えても、そこからまた、小さな芽を出せばいい。
しかも、その芽は、一人だけで育つものではありません。
水があり、土があり、陽の光があり、風がある。
人もまた、誰かに助けられ、誰かを助け、互いに支え合いながら成長していきます。
きっと、生命(いのち)とは、完成した状態のことではない。
成長し続ける、その働きそのものが、生命(いのち)なのだと思います。
そして、その働きは、必ずしも目に見えるものばかりではない。
いまは何もできないように思えても、魂の奥には、もう、次の芽が育っているのかもしれません。
『古事記』のはじまりに登場する宇摩志阿斯訶備比古遅神。
その次に現れる天之常立神。
この二柱の神様の並びから、そんな生命の力強さを感じ取ることができます。
人間、生きていれば、いろいろなことがあります。
泣きたい日もあれば、笑えない日もある。
それでも、また新しい朝が来るのです。
だから、何もかもがうまくいかなくても、今日という一日を、また新しく始めればいい。
何度でも、芽を出そうぜ。
何度でも、また立ち上がろうぜ。
生命(いのち)ってのはな、何度でも萌えあがるものなのさ。
そう言って白い歯を見せて、にっこり微笑んでいる。
そういった、底抜けの陽気さとやさしさが、
『古事記』のはじまりには描かれているように思うのです。
——今日も良い一日を♪
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