難しい言葉を並べれば、深いことを語っているように見える・・・そんな錯覚に、私たちはときどき陥ります。けれど本当に大切なことほど、実は子どもにも伝わる言葉で語れるものです。今回は、ちょっと笑える小噺、「難語哲学者、自己消滅の小噺」を通して、言葉と思想の落とし穴、そして日本人が大切にしてきた「わかる言葉」の力について考えてみたいと思います。

むかしむかし、あるところに難語(なんご)先生という哲学者がおりました。
この先生、たいへん頭はよろしい。
ただし欠点がひとつ。
言葉が全部、難しい。
ある日、弟子がたずねました。
「先生、『真理』とは何でしょうか」
先生、待ってましたとばかりに答えます。
「それはだね、
主体的主体が客体化される以前の
非措定的措定における
構造的非構造性の
メタレベル的自己反照性だ」
弟子、三秒ほど沈黙。
「……先生、それは“何”ですか?」
先生は少し考えてから、こう言いました。
「うむ、それを説明するには、
まず“説明”とは何かを
再定義せねばならぬ」
こうして一時間後。
弟子は何も分からず、
先生も何を言っているのか分からなくなりました。
翌日、研究所の前に看板が出ました。
難語哲学研究所・臨時休業
理由:説明が説明を説明できなくなったため
……おしまい。
笑い話のようですが、この小噺には、私たちが陥りやすい、とても大事な落とし穴が描かれています。
それは、「考えること」と「言葉にすること」を取り違えてしまうことです。
本来、言葉は思考を助ける道具です。
ところがいつの間にか、考えを深めるための言葉が、考えているように見せるための言葉に変わってしまう。
そうなると、
説明が増え、
定義が細かくなり、
用語が専門的になります。
けれど、分かる人は、一人も増えない。
この構図、実は哲学の世界だけの話ではありません。
日本では古くから、本当に大切なことほど、短い言葉や、たとえ話、物語で伝えてきました。
政治理念が「和を以て貴しとなす」という一行で示されたのも、その象徴です。
難しい言葉を使わないから浅いのではありません。
深いところまで届かせるために、あえて言葉を削ってきた。
これが、日本の「引き算の文化」です。
この続きでは、
• なぜ「わかる言葉」が人を生かすのか
• 哲学や思想、AIにまで共通する落とし穴とは何か
• 私たちは、どんな言葉を選んで生きるべきなのか
といった点について、
もう一歩踏み込んで考えています。
倭塾サロンでは、この小噺を起点に、「言葉」「思想」「生き方」を腰を据えて語り合っています。
よろしければ、一緒に考える場に加わってみてください。
◯倭塾サロン
【お笑い】難語哲学者、自己消滅の小噺――わかる言葉が、世界を救う
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