いま世界は、正しさで満ちています。右か左か、善か悪か、正義か不正義か。思想は人を高めるはずのものですが、いつしか分断を生む力にもなっています。そこで私は、あらためて「姿勢」という言葉を考えたいと思いました。思想の前にあるもの。正しさを超えて問われるもの。竹取物語の帝の姿に、日本文明が大切にしてきた「踏みとどまる力」を見つめながら、文明成熟の本質を探ります。

Ⅰ はじめに ― なぜ「姿勢」なのか

最近、私は講演や倭塾の中で、繰り返し「姿勢」という言葉を使っています。
思想ではなく、姿勢が大事、と述べさせていただいています。
正しさも大事だけれど、立ち方を間違えてはいけないと、述べさせていただいています。

なぜ、いま「姿勢」なのか。
それは、いまの世界があまりにも「思想」であふれているからです。
 右か左か。
 保守かリベラルか。
 国家か個人か。
 正義か悪か。
 善か悪か、等々。

どの立場も、それぞれに理屈があり、それぞれに正しさがあります。
けれど、その正しさへの確信が強くなればなるほど、人は必ず、こちらが正しいのだから、あちらは間違っている、自分が善なのだから、相手は悪であると、線を引き始めます。
こうして世界は、音も立てずに、しかし確実に分断されています。

これは不思議なことです。
思想は、本来、人を高めるためのもののはずだからです。
ところが現実には、思想が人と人を遠ざけ、対立させ、互いを裁いています。
私はそこに、強い違和感を覚えるのです。

誰しも、不幸になりたい人はいません。
本来、人を幸せにするために思想はあるはずです。
けれど思想によって、人は現実に対立し、不幸を呼び寄せています。

そうであれば、思想よりも前に、問うべきことがあるのではないか。
その答えが、日本文化に古くからある、
「自分は、どのような姿勢で立っているのか」ということのように思います。

人は力を持ったときに、どう振る舞うのか。
怒りを覚えたときに、どう踏みとどまるのか。
正しいと思ったときに、どこまで自制できるのか。

思想は、外に向かって「これが正しい」と定義します。
その定義から外れたものを、間違いとして糾弾し、切り捨てます。
けれど姿勢に他人は関係ありません。
なぜなら姿勢は、自分の内側へ向かうからです。

日本は、長い歴史の中で「教義の絶対化」をしませんでした。
武士道に教義はなく、商人道にも教義はなく、農民にも職人にも教義はありません。
あるのは、武士なら武士らしく、町人なら町人らしく生きるという姿勢でした。

だから私は、いま改めて「姿勢」という言葉を大切にしたいと思っています。

これは、思想を持つな、ということではありません。
思想を超える土台として、姿勢が必要だと思うのです。
なぜなら、文明の成熟とは、思想の鋭さではなく、姿勢の深さにあるからです。

このことを、これから少しずつ、皆様と一緒に考えていきたいと思います。

Ⅱ 「我思う、ゆえに我あり」から始まった近代

では、この「思想中心の世界」は、いつ、どこから始まったのでしょうか。
前にも書きましたが、ひとつの大きな転換点は、17世紀のフランスの哲学者、ルネ・デカルトの言葉にあります。
「我思う、ゆえに我あり」

この一文は、近代の扉を開いた言葉だと言われています。
それまでのヨーロッパでは、世界の中心は神でした。
真理は神にあり、人はその秩序の中に位置づけられていました。

ところがデカルトは、すべてを疑いました。
感覚も、常識も、伝統も、神の存在さえも。
そして最後に残ったものが、「疑っている自分の思考」でした。

疑っているということは、思っているということ。
思っているということは、そこに「私」があるということ。
こうして、存在の根拠は神ではなく、「思考する主体」に置き直されることになりました。
ここに、近代個人主義の始点があります。

自分が考える。
自分が判断する。
自分が正しいと認めたものを採用する。

それは、人間を解放しました。
教会や権威からの解放。
身分や血統からの解放。
そして人間社会に自由をもたらしました。

しかし同時に、別の構造も生み出しました。
存在の根拠が「思考」に置かれたとき、人は自分の思想を自分そのものだと感じるようになったのです。
すると、思想を否定されることは、自分の存在を否定されることのように感じられるようになります。

こうして、自分の思想を守るために他者の思想を退け、自分の正しさを証明するために相手の誤りを暴くことが、正義の行動のように受け取られるようになっていきました。
思想が、人格と結びつき、正義と結びつき、そして「戦うもの」へと変わっていったのです。

もちろん、デカルトが悪いわけではありません。
彼は真理を求めただけですし、デカルトがもたらしたものは、近代における人類社会の大きな進歩でもありました。
けれど、思想を存在の根拠に置くことで、人類文明は、必然的に「正しさの衝突」という宿命を抱えてしまったともいえるのです。

ここで改めて問います。
・存在の根拠を「思考」に置いた文明と、
・存在の在り方を「姿勢」に置いてきた文明と、
何が違うのか。

この違いこそが、いま私たちが目にしている分断の背景にあるのではないかと、私は感じています。

Ⅲ 思想の宿命 ― 正しさは必ず敵をつくる

ここで、「思想そのものが悪い」と決めつけているわけではありません。
思想は、人間が世界を理解しようとする努力の結晶であり、混沌とした現実の中に、秩序を見出そうとする営みだからです。

けれど思想には、ひとつの宿命があります。
それが、「思想は『定義』を伴う」という点です。
 何が正しいか。
 何が善いか。
 何が進歩で、何が後退か。
 何が自由で、何が抑圧か。
思想は、必ず線を引くのです。

線を引くということは、こちら側と、あちら側を分けるということです。
すると当たり前のことですが、こちらが正しければ、あちらが誤りとなり、こちらが善であれば、あちらが悪になります。
思想は、構造的に、対立を内包するのです。

もちろん、それがすぐに争いになるとは限りません。
けれど、思想が強くなればなるほど、「正しさ」への確信が強くなり、その結果、人が無意識のうちに次のように考え始めるのです。
「自分は正しい」
「相手は間違っている」
「間違いは正さなければならない」
ここで正義が発動します。

正義は美しい言葉です。
けれど正義は、しばしば他者を裁く力を持ちます。
思想が人格と結びつき、人格が正義と結びついたとき、人は自分の正しさのために戦うことをためらわなくなるのです。

歴史を振り返れば、宗教戦争も、革命も、思想闘争も、そのことごとくが「正義」の名のもとに行われています。
正しさは、人を鼓舞してきました。
けれど同時に、人を硬直化させてきたのです。
一度「これが正しい」と確信すると、その外にあるものを理解しようとする余白が、少しずつ失われ、気がつくと世界が、右か左か、味方か敵か、善か悪かと、二つに割れていったのです。

こうして思考はやがて、一次元に落ちていきます。
一次元は、直線の世界です。
x軸の左右で、こっちが正しい、あっちが間違いだと、互いを攻撃し合います。

けれど、ここで立ち止まりたいのです。
正しさは、本当に人を幸せにしているのでしょうか。

思想が鋭くなることで、私たちは本当に豊かになっているでしょうか。
もし思想が分断を生み、正義が敵を生み、確信が対話を閉ざしているのであれば、そこに何か、大きな見落としがあるのではないかと思えるのです。

その「見落としているもの」こそ、思想ではなく「姿勢」なのではないかと、私は思うのです。

Ⅳ 日本は思想国家ではなかった

ここまで、近代が「思想」を軸に組み立てられてきた構造を見てきました。
では、日本はどうだったのでしょうか。

日本にももちろん、思想はあります。
仏教もあれば、儒教もあります。
神道的な世界観もあります。
けれど、日本の文化の特徴は、それらを「絶対化」しなかったところにあります。

たとえば、武士道。
武士道は思想でしょうか。
武士道に、教典はありません。教義もありません。「これを信じなければならない」という絶対的命題もありません。
あるのは、「武士らしくあれ」という在り方だけです。
主君に対する忠。
弱き者を守る責任。
いざというときに逃げない覚悟。
それらは理屈ではなく、「姿勢」です。

商人も同じです。
近江商人の有名な言葉に、「三方よし」があります。
売り手よし、買い手よし、世間よし。
けれどそれは、神学的な教義ではありません。
「このように振る舞うのがよい」という姿勢の型です。

農民にも、職人にも、それぞれの「道」がありました。
武士道、商人道、茶道、華道、剣道。
「道」という言葉がついていることに、私は意味を感じます。
「道」は、正解を定義するものではありません。歩みを整えるためのものです。

思想は、「何が正しいか」を定めます。
けれど道は、「どう在るか」という姿勢そのものです。
そこに正しいか間違っているかという「線引き」はありません。
ただ、自分の心を、姿勢を整えようとするものです。

ここに、「文明の重心の違い」があります。

日本は、思想で人を束ねる国家を目指しませんでした。
「これを信じよ」と命じる文明にならなかったのです。
その代わりに、「らしくあれ」と問い続けてきました。

武士なら武士らしく。
親なら親らしく。
商人なら商人らしく。
それは他人を裁くための基準ではなく、自分を律するための物差しでした。
ここに、日本文化の実践的な強さがあるのではないかと、私は思うのです。

思想で戦わず、自らの姿勢を整える。

これこそが、日本が長い歴史の中で磨き上げてきた、日本人の在り方なのだと思います。

Ⅴ 姿勢とは何か

では、ここで改めて、「姿勢」とはいったい何なのかを考えてみましょう。

姿勢とは、意見のことではありません。
立場のことでもありません。
どの思想を採用するかという選択でもありません。
姿勢とは、力を持ったときにどう振る舞うか、ということです。

自分が正しいと思ったときに、どこまで踏みとどまれるか。
怒りを覚えたときに、どこまで自制できるか。
勝てる立場にあるときに、どこまで相手を尊重できるか。

そこに現れるのが、姿勢です。

思想は、外に向かいます。
「これが正しい」と定義し、世界を整理しようとします。

けれど姿勢は、内に向かいます。
「自分はどう在るか」と問い続けます。

思想は他者を変えようとします。
姿勢は、自分を整えようとします。

思想は、相手を説得しようとします。
姿勢は、まず自分の振る舞いを正そうとします。

この違いは、とても大きな違いです。

姿勢は、声を張り上げず、旗も掲げません。
けれど、場の空気を変えます。

たとえば、議論の場で、相手を打ち負かすこともできる。
けれど、あえて一歩引く。

権力を持っている。
けれど、踏み越えない。

傷つけられた。
けれど、同じ方法で傷つけ返さない。

そこには、理屈を超えた「踏みとどまり」があります。

姿勢とは、力を持ちながら節度を守ること。
正しさを持ちながら、傲慢にならないこと。
確信を持ちながら、他者を切り捨てないこと。

これらは華やかなものではありません。
むしろ、目立たない営みです。
けれど文明の成熟は、思想の鋭さではなく、この姿勢の深さに現れます。

思想は、時代によって変わります。
けれど姿勢は、時代を超えて磨かれていくものです。

そして日本は、思想よりも前に、姿勢を整えることを大切にしてきた文化を持つ国なのだと、私は思います。

Ⅵ 竹取物語の帝 ― 姿勢の象徴

ここで、竹取物語に戻りましょう。
あの物語の中で、もっとも象徴的な存在が「帝(みかど)」です。
帝は、国家の最高権威であり、権力も持っています。
命じれば、かぐや姫を宮中に迎え入れることもできたでしょう。
しかし帝は、それをしませんでした。
かぐや姫の心が自分にないことを知り、越えてはならない境界があることを理解したからです。

ここに、姿勢があります。
力を持ちながら、踏み越えない。
手に入れられる立場にありながら、奪わない。

これは、思想ではありません。
理屈でもありません。
「振る舞い」です。

そして物語の最後に「不死の薬」の場面があります。
帝は、かぐや姫から不死の薬を贈られました。
それは永遠を手にすることができる象徴です。

帝はそれを焼き捨てられました。
永遠を拒まれたのです。
ここにも、姿勢があります。

失うことを受け入れる。
この世には回収してはならないものがあることを認める。
有限であることを引き受ける。

つまり帝は、勝つことを選ばれていません。
奪うことも、永遠を求めることも選ばれていません。
選ばれたのは、「踏みとどまる」という姿勢でした。

ここに、竹取物語の核心があります。

文明が成熟しているかどうかは、
どれだけ力を持っているかではない。
・どれだけ踏み越えずにいられるか。
・どれだけ節度を守れるか。
・どれだけ有限を引き受けられるか。
そこにこそ、文明の成熟が現れるのです。
このことを、帝は姿勢でお示しになられました。

思想で正しさを示されたのではありません。
ここに竹取物語が、千年の時を超えて読み継がれてきた理由のひとつがあると、私は思います。
理屈ではなく「在り方」を描いた物語だからです。

Ⅶ 文明成熟とは何か

ここまで、「思想」と「姿勢」という二つの重心を見てきました。

思想は、世界を定義します。
姿勢は、自分を整えます。

思想は、正しさを明確にします。
姿勢は、踏みとどまる力を養います。

では、文明の成熟とは何でしょうか。
技術の発達でしょうか。
経済の規模でしょうか。
軍事力の強さでしょうか。

もちろん、それらも文明の一側面ではあります。
けれど本当に成熟している文明とは、
力を持ったときに、どこまで節度を守れるかという点に現れるのではないでしょうか。

勝てるときに、どう振る舞うか。
支配できるときに、どう振る舞うか。
奪えるときに、どう振る舞うか。

そこにこそ、文明の成熟は現れます。

思想が高度であることと、文明が成熟していることは、必ずしも一致しません。
なぜなら、どんなに思想が鋭くても、姿勢が未熟であれば、文明は容易に対立へと傾くからです。

反対に、思想が異なっていても、
姿勢が整っていれば、共存の道が開けます。

文明の成熟とは、
「思想の高度化」ではなく、
「姿勢の深化」ではないか。
私はそのように考えます。

Ⅷ 結び ― いま私たちはどこに立つのか

いまの世界は、思想であふれています。
正しさが競われ、
確信がぶつかり合い、
対立が日常化しています。

その中で私たちは、どこに立つのでしょうか。
思想を振りかざす側に立つのか。
それとも、姿勢を整える側に立つのか。
他者を裁くことに力を使うのか。
自分を律することに力を使うのか。

竹取物語が描いたのは、永遠を求めない文明でした。

奪わない。
踏み越えない。
有限を引き受ける。

それは弱さではありません。
むしろ、成熟です。

文明の未来は、どの思想が勝つかで決まるのではなく、どれだけの人が姿勢を整えられるかで決まるのではないでしょうか。

今回の記事を通じて、私がお伝えしたかったのは、「答え」ではありません。
・自分はどのような姿勢で立っているか。
・その問いを持ち続けられるかどうか。

そこから文明は、もう一段深い段階へ進み、個人もまた、もう一段成長するのではないかと、私はそう思っています。

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