「あの人は悪い人だ」と決めれば、話は簡単になります。けれど、その瞬間に見えなくなるものがあります。それは、「なぜ、その人はそんなことをしたのだろう」という事情です。事情を知ることは、悪い行為を許すことではありません。むしろ同じことを繰り返さないために、原因を知り、これからの出口を考えること。善悪の判決を急ぐ前に、まず「なぜ?」という問いを置いてみます。

今日のひとこと・「悪い人」と決めた瞬間、その人の事情は見えなくなる。善悪を考える第一歩は、判決より先に「なぜ?」を置く。

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「悪い人」と決めた瞬間、その人の事情は見えなくなる。
善悪を考える第一歩は、判決より先に「なぜ?」を置く。

私たちは日々、いろいろな人と出会います。
やさしい人もいれば、困った人もいる。
約束を守る人もいれば、平気で破る人もいる。
人を助ける人もいれば、人を傷つける人もいます。

そんなとき、私たちはつい、「あの人は悪い人だ」と思ってしまいます。

もちろん、人を傷つける行為を「良いことだ」と言う必要はありません。
悪いことは悪いですし、してはいけないことは、してはいけない。
昔の会津の什の掟の「ならぬことは、ならぬものです」の通りです。

けれど、ここで少しだけ立ち止まってみたいのです。
「あの人は悪い人だ」と決めた瞬間、私たちの中で、ひとつの扉が閉じてしまうことがあります。
それが、
**「どうして、この人はそんなことをしたのだろう?」**という扉です。

たとえば、学校でいつも乱暴な子がいたとします。
友だちを押す。大きな声を出す。先生にも反抗する。
周囲から見れば、「困った子」です。
「またあの子か」
「あの子は乱暴だから」
そう言われるようになります。

ところが、その子の家では、毎日のように大人たちが怒鳴り合っていたとしたらどうでしょう。

あるいは、小さいころから、
「泣くな」
「弱音を吐くな」
「負けるな」
と言われ続けてきたとしたら、どうでしょう。
その子はもしかすると、怖いときに「怖い」と言う方法を知らなかったのかもしれません。
寂しいときに、「寂しい」と言う方法を知らなかったのかもしれません。
だから、押した。怒鳴った。強がった。

もちろん、それで人を傷つけてよいことにはなりません。

ここは、とても大切なところです。
事情を知ることと、行為を正当化することは違います。
人を傷つけたなら、その行為についてはきちんと考えなければなりません。

けれど、「悪いことをした」ということと、
「悪い人である」は、同じではありません。
ここに、善悪を考えるときの大きな落とし穴があるように思います。

「あなたのしたことは、いけない」という言葉と、
「あなたは悪い人だ」という言葉もまた、似ているようで、まったく違います。

前者は、行為について語っています。
後者は、その人そのものを決めています。

行為なら、改めることができます。
謝ることもできるでしょうし、償うことも、やり直すことだってできるでしょう。

けれど、
「あなたは悪い人だ」と人間そのものに判決が下されてしまったら、どうでしょう。

そこには、出口がありません。

だから私は、善悪を考えるとき、
判決より先に「なぜ?」を置いてみることが大切なのではないかと思うのです。
「なぜ、そんなことをしたのだろう」
「その人には、何が見えていたのだろう」
「何を怖がっていたのだろう」
「何を守ろうとしていたのだろう」
そう問いかけてみる。
これは、よく言う「観測点を変えてみる」ということです。
すると、それまで「悪い人」という一枚の札で隠れていたものが、少しずつ見えてくることがあります。

さらに、もうひとつ大切なことがあります。
「なぜ?」と問うことは、
「仕方なかったんだから許してあげよう」ということではありません。
まして、「悪いこと自体が存在しない」という話でもありません。

むしろ逆です。
何が起きたのかを本当に理解しなければ、同じことがまた起きるかもしれないのです。
誰かを「悪者」にして追い出しただけでは、問題を生み出したものが、そのまま残るのです。

だから、誰が悪いのかだけではなく、
なぜ、こんなことが起きたのかを見る必要があると思うのです。

このことは、外国人をめぐる問題をはじめ、さまざまな社会問題について考えるときも同じです。
ルールを破る行為まで曖昧にする必要はありません。
けれど、誰かをひとまとめに「悪い人たち」と決めてしまえば、「なぜ、その問題が起きているのか」が見えなくなることがあります。

善悪を曖昧にしたいのではありません。
綺麗事で済ませたいのでもありません。
むしろ、問題を生み出しているものまで見つけて、根本的な解決を図りたいのです。

裁判なら、いつか判決が出ます。
学校なら、先生が叱ることもあるでしょう。
会社なら、処分が下されることもあります。
社会には、そうした判断が必要です。

けれど、問題は「そのあと」です。

以前にも書きましたが、
判決の翌日からも、人はまた暮らしていくのです。
叱られた子どもにも、翌朝が来ます。
失敗した人にも、明日があります。
傷つけられた人にも、その先の人生があります。

だから、本当の意味で問題を終わらせるには、
「悪いのは誰か」だけで終わらせてはいけない。

「これからどうする?」
という「出口」が必要になるのです。

その出口へ向かうためにも、「悪い人」というレッテルを貼る前に、
「どうして?」という小さな問いを置きたいのです。

「事情を知る」ということは、「その人を許す」ということではありません。
同じことを繰り返さないために、何を変えればよいのかを考えることです。

許すためではありません。
どこまでも、出口を見つけるために、問いを起きたいのです。

人は、一枚の札では語れません。
良いところもあれば、弱いところもあります。
間違えることも、傷つくこともあります。

だから、「あの人は悪い人だ」と思ったときほど、ほんの少しだけ判決を待って、
**「なぜ?」**と置いてみたいのです。

その小さな問いの向こう側に、
それまで見えなかった人間の姿があるのかもしれないからです。

そして、その人間の姿が見えたところから初めて、
では、どうすればもっと良い未来をつくれるのだろう
という問いが始まるのではないかと思うのです。

——今日も良い一日を♪

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