「あの人は怖い人」「頑固な人」「優しい人」。私たちはつい、人をひとつの言葉で決めてしまいます。けれど同じ人でも、誰とどのようなRelation(関係性)にあるかによって、そこに現れる姿は変わります。そして変わるのは、見え方だけではありません。Relationが変われば、その人から引き出されるものが変わり、そこから生まれる未来まで変わっていく。大村益次郎(村田蔵六)のさまざまな顔を入口に、「人」ではなく「人と人のあいだ」を見ることの意味を考えます。

_
同じ人でも、Relationが変われば、見える姿も、そこから生まれる未来も変わっていく。
明治以降に戦死された247万柱の英霊を祀る靖国神社の参道に、村田蔵六こと大村益次郎の銅像が建てられています。
維新の十傑の一人とされる人物で、戊辰戦争を勝利へと導いた、いわば維新の参謀長であり、立役者。明治に入ってからは兵部大輔として、我が国兵制の近代化を行った人物です。
緒方洪庵の適塾の塾頭であり、蘭学者でもあった人物です。
医師であった時代もあったのですが、まったく無愛想で、客が寄り付かず、まったく流行らなかったと伝えられます。
ところがそんな村田蔵六の名を一躍有名にしたのが、戊辰戦争です。
有名な逸話に、上野戦争があります。
どこまでも新政府軍と戦うと激しい戦意を燃やして、上野のお山に立て篭った彰義隊二千名。
これに気付いた新政府軍は、一万の兵力で上野のお山を包囲しました。
知らせを受けた村田蔵六の指示で、最低でも一ヶ月は続くと言われた上野戦争は、わずか半日で制圧されました。
このとき村田蔵六が指示したのは、白兵戦や攻城戦ではなく、佐賀藩が持ち込んだ最新鋭の「アームストロング砲」や「四斤山砲」による遠距離からの砲撃です。
要するに、彰義隊の戦う意思を、近代兵器で完膚なきまでに打ち砕いたのです。
村田蔵六は、憎らしいほどの凄腕の、恐ろしい超合理主義参謀であったのです
ところがこの村田蔵六、司馬遼太郎によれば、有名な恐妻家。
とにかく奥さんの前では頭が上がらないどころか、戦々恐々であったといいます。
頭が超切れる、無愛想で恐ろしい作戦参謀という側面と、
奥さんの前で小さくなっている恐妻旦那という側面。
その両者は、まるで別人ともいえるほどの違いがあったといえます。
人を見るとき私たちは、
「あの人は優しい」とか、「怖い人」「頑固な人」「頼りになる」などと口にします。
それはまるで、その人の中に「優しい」「怖い」「頑固」「頼りになる」という性質が、最初から入っているかのようです。
職場では、恐ろしい作戦参謀。
家では妻に頭が上がらない恐妻家。
もしかすると孫の前では
「じじでちゅよ〜♡」なんてやっているデレデレのおじいちゃんかもしれない。
そのどれが、「本当のその人」なのでしょうか。
たぶん、どれも本当のその人です。
違っているのは、人ではなく、
Relation(関係性)なのです。
私たちは、つい人を「Entity(個体)」として見ます。
この人は、こういう人。あの人は、ああいう人。
そうやって人物をひとつの名前のついた箱に入れて記号化して理解すると、とてもわかりやすくなります。
けれど現実の人間は、そんなに単純ではありません。
親の前にいる自分、子供の前にいる自分、友人の前にいる自分。
仕事仲間の前にいる自分、初対面の人の前にいる自分。
どれも同じ自分です。
けれど、そこに現れる自分は、少しずつ違います。
つまり人は、ひとりだけで完全に姿を現しているのではなく、
「誰と、どのような関係にあるのか」
によって、そこに現れる姿が変わります。
これは、人が嘘をついているという話ではありません。
むしろ、人間とはもともと、Relationの中でさまざまな面を現す存在なのだと思うのです。
Entity(実体)としての人の見方を、頭から否定しているわけではありません。
ただ、あまりにも「あの人は、こういう人だ」と人を記号化しすぎる傾向がある。
これは、少々行き過ぎでは?と思うのです。
冒頭の村田蔵六の紹介もそうです。
適塾塾頭を勤めた超秀才、無愛想な医師、天才参謀、恐妻家。
このように紹介すると、された側は「ああ、そういう人か」と納得します。
でもきっと、村田蔵六には、相手によって様々な側面があったと思うのです。
そもそも、ただ無愛想で頭が良いというだけでは、適塾塾頭は勤まりません。
後輩への面倒見の良さや、やさしさがなければ、塾頭にはなれないのです。
つまり、人には記号化だけでは見失う、様々な側面がある、ということです。
誰かとうまくいかないとき、私たちはつい、
「あの人は性格が悪い」とか、「あの人はわかってくれない」、「あの人は変わらない」などと考えてしまいます。
そのように考えるならば、問題の原因は「あの人」です。
だから出口は、
「あの人を変える」
あるいは
「あの人を排除する」
という方向に向かいます。
けれど、Relationという観測点から見ると、別の問いが生まれます。
「あの人が悪い」ではなく、
「あの人との間に、いまどのようなRelationが起きているのだろう」
と考えることができるからです。
もちろん、危険な相手から距離を取ることは必要です。
Relationを見るということは、何でも仲良くしましょうという話ではありません。
距離を置くことも、境界線を引くことも、
協力も、役割を分けることも、Relationです。
ただ、大切なことは、人をひとつの評価で固定してしまわないことです。
さらに、Relationが変わると、引き出されるものが変わります。
「相手の見え方」が変わるだけではなく、
相手から引き出されるものまで変わるのです。
いつも怒鳴られている人は、失敗を隠すようになるかもしれません。
「何かあったら言ってね」と言われている人は、早めに相談するようになるかもしれません。
何を言っても否定される場所では、人は黙ってしまいます。
あるいは、意見を聞いてもらえると感じる場所では、人は考えを話すようになります。
同じ人です。
けれどRelationが違えば、そこに現れる行動が違ってくるのです。
当然、その先に生まれる未来も違ってきます。
失敗を隠すRelationから生まれる未来と、
失敗を共有できるRelationから生まれる未来。
互いを疑うRelationから生まれる未来と、
互いの役割を認め合うRelationから生まれる未来。
同じ人間が集まっていても、Relationが違えば、まったく違う未来が生まれます。
私たちは何か問題が起きると、すぐに「誰が悪いのか」を探しがちです。
悪い人を見つけ、その人を直そうとします。
けれど、そこで少しだけ観測点を動かしてみたいのです。
「人」ではなく、「人と人のあいだ」に目を向けてみる。
すると、「この人をどう変えるか」という問いが、
「このRelationをどう結び直せば、より良い未来につながるだろう」
という問いに変わります。
これは、個人間のことだけではありません。
家庭でも、会社や組織でも、地域でも、社会でも、国と国との関係も同じです。
Entityだけを見るなら、「どっちが正しい、どっちが悪い」という議論になりやすい。
けれどRelationを見ると、
「この関係から、どんな未来が生まれているのか」
を見ることができます。
さらに、ここが大事なのですが、
「では、どんなRelationなら、望む未来につながるのか」
を考えることができるのです。
ここでRelationが、「出口設計(Exit Design)」につながります。
人は、ひとつの言葉では決められません。
優しい人、怖い人、頑固な人、頼りない人といった記号化は、その人そのものではなく、あるRelationの中に現れた、その人のひとつの姿です。
そうであれば、行き詰まったときに、
「あの人は、こういう人だから」で終わらせる必要はありません。
むしろ、
「いま、あの人との間に、どんなRelationがあるのだろう?」
と考えることで、新たな可能性が開けてくるように思うのです。
人を変えることは難しいことです。
けれど、Relationなら、それを結び直す余地が生まれます。
そしてRelationが変われば、同じ人から、これまで見えなかった姿が現れることがあります。
そこから生まれる未来もまた、変わっていくのです。
だから今日のひとこと。
同じ人でも、Relationが変われば、
見える姿も、そこから生まれる未来も変わっていく。
——今日も良い一日を♪
_
📘倭塾LINE
倭塾LINEには、本編だけでなく、ちょっと笑える「番外編」もあります。

_
■新刊 大好評発売中
これが私の集大成本です。
『思想の時代は終わった』
https://amzn.to/3P5D0lS

_


No.146-いつも怒ってるおじさん-188x300.png)