「筆箱がない!」。小学校の教室で起きた小さな事件は、いつの間にか犯人探しへと変わっていました。そのとき、担任の先生が子供たちに語った、意外な言葉。そして、誰も予想しなかった結末。60年前の出来事から、善悪二元論の落とし穴と、人を決めつけずに未来をつくることの大切さを考えます。

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間違った行いを認めることと、その人すべてを「悪い人」にすることは同じではない。
行いと人を分けると、未来を考えられる。

消えた筆箱と、ある先生の授業

小学生の頃、こんな出来事がありました。
ある日、教室で一人の生徒が、大切にしていた筆箱をなくしてしまったのです。
「筆箱がない!」
誰かが持っていったのではないか。
誰が盗んだのだろう。
教室は騒然となりました。

子供たちは口々に、「誰が犯人だ」「盗むなんてひどい」と言い始めました。
そのとき、担任の先生が、みんなを落ち着かせて、こう言ったのです。

「誰が盗ったかを探すより、大切なことがある。先生は、盗ったから悪い子だとは思わない」

すると、子供たちから声が上がりました。
「え〜! 盗むのって悪いことじゃん!」

先生は答えました。
「なくなったことは事実だ。
 だけど、盗んだかどうか決めつけるのは、まだ早いんじゃないかな。
 それにその行動だけで、その子を悪い子って決めつけるのは、おかしくないかい?」

そして先生は、こう続けました。
「さあ、みんな目をつぶれ。その筆箱を持っている子は、手を上げて」

教室がしんとなりました。

しばらくして、先生が言いました。
「勇気が要ったね。さすがだ。みんなに目を開けさせても良いかい?
 良いなら黙ってうなずきなさい」

少し間を置いて、先生が言いました。
「よし、わかった。じゃあ、みんな目を開けて」

目を開けると、そこには、手を上げたままの男の子がいました。
みんな、その子の勇気を賞賛しました。
そして、事情を聞いてみると、なんと、その男の子は筆箱を盗んだわけではなかったのです。

誰の筆箱かわからなかったので、持ち主を探そうと思って持っていたところ、授業が始まってしまい、返す機会を失っていただけだったのでした。
なんとも、あっけない結末でした(笑)。

けれど、この出来事は、何十年も経ったいまも、忘れられない記憶として残っています。

「なくなった」が「盗まれた」に変わるとき

出来事を、もう一度振り返ってみましょう。
最初に起きたことは、ただ一つです。
「筆箱がなくなった」
これが事実です。

ところが、いつの間にか「誰かが盗んだ」という話に変わっていました。

さらに、
「盗んだのは誰だ」
「犯人は悪い子だ」
というところまで、話が進んでしまっていました。
つまり、まだ盗んだかどうかさえわかっていないのに、教室ではすでに「犯人」探しが始まっていたのです。

ここに、人の思考の落とし穴があります。

何か困ったことが起きると、私たちは、その原因を誰かの悪意に求めてしまうことがあります。
そして、いったん「あの人が悪い」と思い込むと、それ以外の可能性が見えにくくなってしまう。

あのとき先生が最初にしたことは、犯人探しではありませんでした。
「なくなったことは事実だ。けれど、盗まれたと決めつけるのは早い」

事実と推測を分けたのです。
このことは、善悪を考えるうえで、とても大切なことだと思います。

善悪二元論の落とし穴

私たちは、ともすると、人間を「善い人」と「悪い人」に分けて考えてしまいます。
 善い人はこちら側。
 悪い人はあちら側。

 善い人は守るべき人。
 悪い人は責められるべき人。

こうして二つに分けると、物事がとてもわかりやすくなったような気がします。
けれど、現実の人間は、それほど単純な存在ではありません。
普段は親切な人が、感情にまかせて誰かを傷つけてしまうこともあります。
反対に、過去に大きな過ちを犯した人が、その経験から深く学び、誰よりも人の痛みがわかる人になることもあります。

一人の人間の中には、優しさもあれば、弱さもあります。
正しさもあれば、間違いもあります。
そして、人は経験を通じて変わっていきます。

だからこそ、ある一つの行動だけを取り上げて、その人の人格や人生のすべてを「善」あるいは「悪」と決めつけることには、慎重でなければならないのです。

ただし、ここで誤解してはいけないことがあります。

善悪二元論を超えることは、
善悪の判断をやめることではありません。

嘘をつくこと。
人を傷つけること。
他人のものを盗むこと。
こうした行為には、当然、善悪の判断が必要です。
間違ったことをしたなら、その間違いを認め、必要な責任を果たすことも大切です。

けれど、行為が間違っていたことと、その人間の存在そのものが悪であることは、同じではありません。
60年前のあの日、先生が教えてくれたのは、まさにこのことだったのだと思います。

先生が守ったもの

もう一つ、あの先生の言葉には、大切な意味がありました。
「さあ、みんな目をつぶれ」
先生は、筆箱を持っている子が、みんなの前でいきなり名乗り出なければならない状況をつくりませんでした。
まず、誰にも見られないところで、手を上げる機会を与えたのです。

そして、手が上がったあとも、すぐにみんなの目を開けさせたわけではありません。
「みんなに目を開けさせても良いかい?」
本人に確認しました。

ここには、とても大切な配慮があったと思います。
筆箱を持っている子には、何か事情があるかもしれません。
それを、いきなりみんなの前にさらけ出すのではなく、まずは本人が自分の意思で行動できるようにする。
先生は、子供を追い詰めるのではなく、自分から一歩を踏み出せる道を用意したのです。

しかも、手を上げた子に対して、先生が最初にかけた言葉は、
「勇気が要ったね。さすがだ」でした。
「お前が犯人か」ではありませんでした。
その結果、教室に起きたことは、犯人への非難ではなく、手を上げたことへの賞賛でした。

そして、事情が明らかになると、そもそも盗難事件ではななかったことがわかったのです。
もし先生が最初から犯人探しを始めていたら、どうなっていたでしょう。
誰かが疑われ、誰かが責められ、筆箱を持っていた子は、事情を説明する前に「泥棒」と呼ばれていたかもしれません。

一度貼られた「泥棒だ、悪い子だ」というレッテルは、たとえ誤解が解けたとしても、簡単には消えないことがあります。
先生は、そのような事態を防いだのです。

人を見るのではなく「あいだ」を見る

この出来事を、Relation(関係性)という観測点から考えてみましょう。

筆箱をなくした子がいました。
その筆箱を持っていた子がいました。
そして、周囲には、何が起きたのかわからないまま、犯人探しを始めた子供たちがいました。

もし、筆箱を持っていた子だけを見て、「この子は悪い子なのか」と考えていたら、話はそこで止まってしまっていたことでしょう。
近年のSNSによる犯人探しも同じです。

けれど、先生は、教室全体の「あいだ」に起きていることを見ていました。
 なくなったという「事実」。
 盗まれたという「推測」。
 犯人を探そうとする子供たち。
手を上げることに「勇気が必要な状況」。

先生は、その「あいだ」に橋を架けたのです。
そして誰かを責める空気を、事情を明らかにできる空気へと変えていったのです。

すると、何が起きたでしょう。

犯人を探していた教室が、勇気を賞賛する教室に変わりました。
 同じ子供たちです。
 同じ先生です。
 同じ教室です。
けれど、関係性が変わることで、そこで生まれる出来事が変わったのです。

これは、Relationという観測点の大切さを、実にわかりやすく示しているように思います。

善悪の判断の、その先へ

もちろん、現実には、本当に悪意をもって人を傷つけたり、他人のものを盗んだりする人もいます。
そのようなときには、被害を受けた人を守り、必要な責任を明らかにしなければなりません。
何でも許せばよいという話ではありません。

けれど、その場合であっても、考えたいことがあります。
「行為」の責任を問うことと、その人の「人格や人生のすべて」を否定することは、同じではないということです。

たとえば、子供が間違ったことをしたとき、
「お前は悪い子だ」と言うのと、
「その行いは間違っていた。だから、どうすればよかったのか、一緒に考えよう」
と言うのとでは、その後の未来が違ってきます。

前者は、人間そのものを否定する言葉です。
後者は、行為を正しながら、その子が学び、成長する可能性を残す言葉です。

 行いは正す。責任も問う。
 けれど、人間の可能性まで否定しない。

ここに、善悪を考えるうえでの、大切な姿勢があるように思います。

そして、このことは「出口設計(Exit Design)」にもつながります。
善悪を判断することは、必要です。
けれど、善悪を判断したところで、人生が終わるわけではないのです。

判決の翌日から、人はまた暮らしていきます。
間違いを犯した人も、傷つけられた人も、周囲の人々も、その先の人生を生きていかなければならないのです。

だからこそ、善悪の判断を、それだけで終わらせるのではなく、その先の未来をどうつくるのかという問いにつなげていきたいと思うのです。

あのときの担任の先生は、筆箱がなくなったという小さな出来事の中で、子供たちに、そのことを教えてくれました。
犯人を探すことよりも、事情を明らかにすること。
人を決めつけることよりも、その人が自分から行動できる道をつくること。
そして、誰かを悪者にすることよりも、みんなが明日も一緒に学べる教室をつくること。
先生が用意したのは、まさに、そのような出口だったのだと思います。

あの日の先生の言葉は、いまも心に残っています。

人は、間違いを犯すことがある。けれど、人間そのものを「悪」という一つの言葉に閉じ込めてはいけない。

そして、もう一つ。
「悪い人」を探し始める前に、本当に何が起きたのかを確かめる。
あの日の教室には、そもそも「悪い人」など、いなかったのです。

ちなみにその先生とは、いまも交流を続けさせていただいています。

——今日も良い一日を♪

今日のひとこと・間違った行いを認めることと、その人すべてを「悪い人」にすることは同じではない。行いと人を分けると、未来を考えられる。

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