W・E・B・デュボイス(William Edward Burghardt DuBois)という人がいます。
米国人で、1868年にマサチューセッツ州で生まれ、1963年にお亡くなりになりました。
デュボイスは、米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人です。
米国の公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者でもあります。

デュボイスは、昭和11年(1936)年に来日しています。
彼は、満洲に1週間、Chinaに10日間、日本に2週間滞在し、「ピッツバーグ・クリア」紙に、「忘れがたい経験」と題するコラムを連載しました。
以下はそのとき掲載された彼の体験談です。

デュボイスはある日、東京の帝国ホテルでフロントで勘定を払っていました。
そこに「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が「さも当然であるかのように」彼の前に割り込みました。
ところがホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせず、デュボイスへの対応を続けました。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向きました。

フロント係の毅然とした態度に、デュボイスは、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感しました。

彼は言います。
「母国アメリカでは
 けっして歓迎されることのない一個人を、
 日本人は心から歓び、
 迎え入れてくれた。
 日本人は、
 われわれ1200万人のアメリカ黒人が、
 同じ有色人種であり、
 同じ苦しみを味わい、
 同じ運命を背負っていることを、
 心から理解してくれているのだ。」

さらにこの旅でデュボイスは、日本人とChineseとの違いを悟ったといいます。
それは上海での出来事でした。

デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、その場をどくように言ったそうです。
すると、中国人の大人たちはみな、あわてて道をあけました。
「これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。」

デュボイスは語ります。
「上海。
 この世界一大きな国の世界一立派な都市は、
 なぜか白人の国によって支配され統治されている。
 それに対して日本は、
 有色人種による、
 有色人種の、
 有色人種のための国である。」

大東亜戦争が始まると、米黒人社会の世論は割れました。
「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」
そういう意見もあれば、
「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて馬鹿げている」
という意見もありました。

デュボイスは、大東亜戦争を「人種戦争」と捉え、はっきりと次のように語りました。
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、
 戦争は起こらなかったはずだ。」

黒人たちは、白人が日本人を
「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」
「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」
などと、必ずそこにイエローの文字を入れて形容することに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけていました。

当時の米国政府は、日本兵は「残虐な未開人である」というイメージを広めようとやっきになっていました。
デュボイスはピッツバーグ・クリア紙で次のように語っています。

「ビスマーク沖での海戦で、
 アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、
 波間に漂っていた多くの日本兵を
 マシンガンで皆殺しにした」

「本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、
 大人から赤ん坊まで無差別に殺した」

「広島と長崎に原爆が落とされた時、
 何万という人間が一瞬にして殺された。
 これを残忍と言わずして、何を残忍と言うのだろうか。」

「軍隊の中で差別に苦しめられていた黒人兵が
 白人のために同じ有色人種である日本人と
 戦わなければならない理由はどこにもない」

「ある白人指揮官は、
 黒人部隊の95%は戦う気力がまったくないと
 判断を下している。
 黒人兵の間では、
 やりきれない気持ちからの次のジョークがある。
  墓石にはこう刻んでくれ。
  白人を守ろうと、
  黄色人種と戦って
  命を落とした黒人ここに眠る、と」

彼は、大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも強制収容所に入れられたことについて、米黒人社会は、非常に大きな衝撃を受けたことについて、次のように語っています。

「第一に、
 日系アメリカ人だけが収容され、
 ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、
 あきらかに人種偏見のせいである。

 第二に、
 アメリカの市民権を持っている日系人さえもが
 強制収容されるなら、
 黒人にも同じ事が起こる可能性がある。」

そして彼は、
「11万5千人もの日系人が、
 一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、
 われわれ黒人は黙って見過ごすというのか」
と語り、ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストとともに、全米黒人向上協会に呼びかけ、次のような決議文を提出しています。

「われわれは、
 人種や肌の色によって差別され、
 アメリカ人としての当然の権利を侵害されることに
 断固として反対していかねばならない。」

大東亜戦争終戦の後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎えてくれました。
彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。

・・・・・・・

第一次世界大戦が終結した1919年、パリで講和会議が行われました。
このパリ講和会議は、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという会議でした。
このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本でした。
日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて、講和会議に参加したのです。

日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄りました。
このとき「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、との嘆願書を、日本の使節団に出しました。

彼らは、米国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願をしたのです。
「われわれ(米国の)黒人は
 講和会議の席上で“人種問題”について
 激しい議論を戦わせている日本に、
 最大の敬意を払うものである。」
これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。

人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。

パリ講和会議で、日本の“人種差別撤廃法案”は16カ国中、11カ国の賛成票を得ながら、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられました。
全米の黒人たちは、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させています。

そもそもアメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、日露戦争の時でした。
白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、果敢な戦いを挑んだのです。

デュボイスは、白人による支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国として、日本を支持しました。
日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に叫ぶ日が来るだろう。
それは自分たち黒人の母なる大地であるアフリカに、同じような声がこだまする前兆となる、と考えたのです。

そしてその考えは、全米黒人教会の意思にもなりました。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載しています。
「東洋のリングで、
 茶色い男たちのパンチが
 白人を打ちのめし続けている。
 事実、ロシアは繰り返し何度も、
 日本人にこっぴどくやられて、
 セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
 有色人種がこの試合をものにするのは、
 もう時間の問題だ。
 長く続いた白人優位の神話が、
 ついに今突き崩されようとしている。」

そして日本は、日露戦争によって「有色人種は白色人種に決して勝てない」という白人優位の近代史の神話を事実として否定してみせたのです。

当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。

「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、
 日系人の病院がどの人種にも門戸を開放していることは
 本当に喜ばしい限りである。
 同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を
 患者は得ることができるのだから。」

1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書しました。
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めました。

「たしかに我々は貧しい。
 しかし今お金を出さなくていつ出すというのか。」

同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透しました。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行りました。

「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。
なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。

1936年、イタリアがエチオピアを侵略しました。
アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとしました。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。

「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、

「イタリアとエチオピアの争いでは、
 日本は中立になるわけにはいかない」

「エチオピアの同胞を助けるためには、
 いつでも何千という日本人が
 アフリカに飛んでいくだろう」
と明言したことを伝えています。

また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。
そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。

これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもありました。
シカゴ・ディフェンダー紙は、
「海を越えた二人の恋はムッソリーニによって引き裂かれた」
と報じています。

「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。

「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、
 それがアメリカ黒人だった。
 この本を読んでいただければ、
 日本の政治家や知識人たちが
 黒人を差別する発言を繰り返したときに、
 なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
 心から理解してもらえるはずである。」

パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾でした。
国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったからです。

それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない敵となりました。
日本をなんとかして封じ込めなければならない・・・そのことは彼らにとっての明確な政治的意思となったのです。

歴史を振り返るとき、パリ講和会議での日本の提案は、世界中の被差別民族の称賛を浴びたものであったことは事実だけれど、それが日本にとっては必ずしも良い結果を招かなかったことは、一言しておく必要があるものと思います。
というのは、パリ講和会議の頃の世界の資源エネルギーの主役は石炭でした。
石炭は日本でも産出します。
しかも当時の日本は、食料自給が十分にできる国でした。
さらに当時の日本は、世界最強と言って良い軍事力を有していました。
けれど情勢というのは変わるものです。

その後、世界の資源は石炭から石油へと変化しました。
そして強い日本は人口が増加し、食糧輸入国になっていきました。
結果日本は、食料も肥料も石油も米国に依存するようになりました。
そしてその米国と戦端を開かなければならない状況を招き、結果、多くの国民の命を犠牲にしたのみならず、終戦から80年を経んとする現代においても、いまだ日本は占領統治下にあります。

なるほど法的には、日本は昭和27年に主権を回復して独立国になったことになっています。
けれどその日本には、いまだ他国の軍事基地が置かれています。これは実質的な占領を意味します。
また、占領下で日本人服務規程として書かれた「The Constitution of Japan」を、いまだに掲げたままになっています。
つまり、日本はいまだ、独立を果たしていないのです。

パリ講和会議において、日本は日本の国際的地位向上のために、人種差別撤廃を主張したわけではありません。
日本は、ただ同じ人間として、どちらが上とか、どちらが下ということではない、普通に対等に諸外国とお付き合いをしたいと考えていただけです。
このことは、いまの日本も、昔の日本も同じです。

人種差別というのは、実は、ごく一部の人達の利益のために、意図的に仕掛けられ、正当化されたものにすぎません。
差別をすることによって、利益を得ている、ほんのひとにぎりの人たちがいて、その人達が、差別が行われるように仕掛け、多くの人がそれに乗せられているにすぎないのです。

そして、こうすることで利益を得ているごくわずかな一部の人達が、そんな差別によって巨万の富を得ている一方で、圧倒的多数の人達は、差別と貧困に苦しんでいるのです。

差別は、特定の人の利益のために『つくられた』ものです。
ですからそんな人達の利益とは何の関係もない日本人からしたら、差別があることのほうが不思議です。
もっというなら、日本にいて、ことさらに差別を言い立てる人たちは、「差別を作っている人たち」です。

 人は対等。
 一寸の虫にも五分の魂。

これは古来変わらぬ日本人の精神性の根幹です。
しかし、このことをたいせつにしていくためには、日本は食料も軍事も法律も、すべてにわたって自立していかなければならないのです。

※この記事は2009年9月のねずブロ記事をリニューアルしたものです。

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