「我思う、ゆえに我あり」。近代哲学の出発点とされるこの言葉は、人類に何をもたらしたのでしょうか。デカルトが切り開いた「個人」という考え方は、確かに人を宗教的拘束から解放しました。しかし同時に、その「我」は、時代を経る中で少しずつ姿を変え、力や勝利を正当化するものへと変質していったようにも見えます。一方、同じ17世紀、日本では江戸時代が始まり、人は「私は何者か」よりも、「どう振る舞い、いかに筋を通すか」という姿勢を磨いてきました。AIが人類の知能を凌駕しつつある今、私たちはどこへ向かうべきなのか。デカルトから日本文明、そして現代へ──「人として生きる姿勢」という視点から、いま一度、文明の行方を考えてみたいと思います。

「我思う、ゆえに我あり」
日本人なら誰でも知っているルネ・デカルトの有名な言葉です。
デカルトは17世紀の人で、それまでの社会を構成してきた「神や教義」より、「考える主体としての個人」を優先するという画期的な思想を説くことで、「近代哲学の父」と呼ばれています。
少し詳しく言うと、それまでの西欧では、宗教の教義が中心にあり、人はその下にある羊のようなものとして理解されてきました。
簡単に言えば、「神」が頂点にあり、その下に「教義」、その更に下に「人間」がほぼ絶対だったわけです。
そこにデカルトは、神や教義よりも先に「考える主体としての個人」を置いた。
この転換は、確かに画期的だったと思います。
でも、ここで一つ気になる点があります。
デカルトが置いた「主体としての個人」は、時代を経るにつれて、少しずつズレていったのではないかと感じるのです。
◆ デカルトの「我」と、近代の「我(=俺)」
デカルトが言いたかった「我」は、本来は「我の傲慢な自己主張」や「我が欲望を正当化するエゴ」ではなかったはずです。
「我」がなくなった瞬間に、その人にとっての「世界」は消滅するわけです。
つまり、なによりも「個人=我」が大事と考えた・・・と、ここまでは良かったのです。
ところがこうして「個人」が重要視されることで、結果として何が起きたかと言うと、
• 能力のある人
• 力(権力・財力)を持つ人
• 勝ち続ける人
が、「個人=我」のひしめく社会の中で、力を持つようになりました。
つまり、デカルトの「我」は、
「考える我(=俺)」から、「勝つ我(=俺)」へ、さらに「支配する我(=俺)」へと変質していったのです。
誰でも我を通したいものです。
ですから、これは当然の変化であろうと思います。
しかしこの移り変わりの中で、結果として、「力を持つ個人の傲慢」が生まれる土壌が形成されていきます。
実はここに「近代の影」があるように思うのです。
◆ 日本の17世紀が深めたもの
一方、日本では、同じ17世紀に江戸時代が始まりました。
その時代に日本で磨かれていったのは、「私は何者か」という問いよりも、むしろ、
• どう振る舞うか
• どこで踏みとどまるか
• いかに筋を通すか
といった、「役割を生きる姿勢=道」が重要視される社会でした。
武士も商人も農民も職人も、「道」に生きようとしてきました。
「道」は、自己主張ではありません。
周囲との関係性の中で自分を律し、果たすべき役割を果たし、その責任を引き受けること。
そこが筋を通す、ということの意味です。
だから日本では、「強さ=勝つこと」にはなりませんでした。
日本では、「強さ」は、「たとえ敗けても崩れないこと」が尊ばれたのです。
◆「個人がない」のではなく、「個人を暴走させない」仕組み
日本人は、よく「個人がない」とか「主体性がない」などと揶揄(やゆ)されます。
しかし、ここにこそ、日本人としての大切な心得があるように思います。
なぜならそれらは、「個人の我が暴走しないようにする社会的同意」といえるからです。
これは個を消しているのではありません。
個を関係性の中に配置し、それを各自が自覚することで、全体を壊れない形にしていこうとする知恵です。
そしてその知恵が、日本では社会の隅々にまで染み込んでいるのです。
デカルト以来の人類社会では、個を暴走させ、個の欲望が社会を「発展」させると信じられてきました。
しかし、あらゆる個人よりも優秀な頭脳を持つAIが登場しました。
イーロン・マスクによれば、2030年頃には、地球上の人類80億人の頭脳を全部集めたよりも優秀なAIが誕生するのだそうです。
当然、これからの時代、社会の構造も大きく変わります。
けれどAIの頭脳がどんなに極大化しても、創造性に終わりはないし、人の暮らしの役割が消えることは決してありません。
つまり、いま私たちが取り戻すべきものは、制度でも理念でも、ましてや個の暴走でもなく、もともとの日本が大切にしてきた、「人として生きる姿勢と創造性」にあるのです。
◆ デカルトは必要だった。だが、その先へ
デカルトは、近代の「始点」として必要な存在であったといえます。
しかし、今はその先に進まなければならない時代です。
進む方向は、日本がずっと磨いてきた、
• 姿勢
• 筋
• 関係性
• 役割の自覚 です。
「我思う」だけでは足りないのです。
これから必要なのは、
「我、在り方を引き受ける」
そんな人間像なのかもしれません。
そしてさらに、この視点を、
「男女の違い」や「夫婦・家族における役割」というところまで降ろして考えると、
話はさらに立体的になります。
その続きは、倭塾サロンの有料ブログで。
そこで、もう一段深く整理してみました。
◆ 倭塾サロン
我思う、ゆえに我あり──その先にある「男女」と「役割」の知恵
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