伝えるつもりが、相手を潰していることがある。
現代の言葉は、いつの間にか「相手を動かすための道具」になりつつあります。しかし日本の古文には、結論を押しつけず、情況を置き、読者の内側に答えが生まれる余白を残す姿勢がありました。竹取物語や「侍る」「候文」に込められた日本語のあり方から、本当の意味で「伝える」とは何かを考えます。

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さて、マンガのこの違いを、少しだけ考えてみたいと思います。

いまの社会では、「伝える」ということが、いつの間にか「相手を動かすこと」と同じ意味で使われるようになっています。
たとえば「広告」が、その典型です。
 これを買いなさい。
 ここに申し込みなさい。
 この商品を選びなさい。
 この考え方を支持しなさい。
 この流れに乗り遅れてはいけません。
広告は、そんなふうに人の心を刺激し、欲望をかき立て、不安を煽り、特定の行動へと誘導していきます。

商売としての広告が悪いという話ではありません。
問題は、現代の言葉の多くが、どこかこうした「広告的な構造」を持つようになっていることを考えてみたいのです。

政治の言葉も、教育の言葉も、ビジネスの言葉も、SNSの言葉も、同じです。
「改革しよう」
「成長しよう」
「挑戦しよう」
「成功しよう」
「勝利しよう」

それらはすべて前向きで力強くて、素敵な言葉です。
ですから、もちろんその言葉自体が悪いわけではありません。
だけど、「もっと前へ、もっと上へ、もっと強く、もっと勝て」と言われ続けた人は、走ります。
どこへ向かっているのかもわからずに。
何のために走っているのかもわからずに。
そして、走らせる側は、その先について、いっさい責任を取らないのです。

そもそも、これらの言葉は、「どこへ向かうのか」「何を守るのか」「どう終えるのか」という出口がなければ、それはただ人を走らせるだけの、「走っている馬の前にぶら下げたにんじん」のような言葉になってしまうのです。

ここに、現代の言葉の危うさがあります。
言葉が、相手の内側に何かを育てるものではなく、相手を外側から動かすための道具になっているのです。

けれど、日本の古典文学を読んでいると、まったく違う言葉のあり方に出会います。

たとえば、以前、このブログで特集した『竹取物語』です。
『竹取物語』は、日本最古の女流物語文学ともいわれます。
かぐや姫という不思議な存在が竹の中から現れ、美しく成長し、多くの求婚者を退け、やがて月へ帰っていく。
そして最後には、帝が不死の薬を富士の山で焼かせるという物語です。

現代の感覚なら、この物語の中に、結論を加えたくなります。
かぐや姫とは何者だったのか。
なぜ月へ帰らなければならなかったのか。
帝の恋は悲劇だったのか。
不死の薬を焼いたことに、どのような意味があったのか。
この物語の教訓は何なのか。

ところが、『竹取物語』は、そこを説明しません。
ただ、情況、出来事を置いているだけです。
そして、『なぜ?』という問いへの答えは、すべて読者に委ねています。

かぐや姫が月へ帰る場面を、ただの別離と読む人もいるでしょう。
人の世と天上界の隔たりと読む人もいるでしょう。
美しいものはこの世に留まらないという無常の物語として受け取る人もいるでしょう。
あるいは、地上の権力や欲望が、天の秩序の前では届かないという物語として読む人もいるでしょう。

どれか一つが正解というより、読む人の心の深さや、その時々の人生の状況によって、受け取り方が変わる。
そして、それでよいのです。
ここに、日本文学の大きな特徴があります。

日本の古文は、結論を言い切りません。
説明しすぎません。
解説しすぎません。
答えは、書き手が押しつけるものではなく、読者の内側に生まれるものだからです。

これは、単なる文学上の技法ではありません。
日本語そのものの根幹となる姿勢に関わる話です。

わかりやすく言うなら、平安女流文学には、「侍(はべ)る」という言葉がよく出てきます。
「侍る」は、もともと「そばに控える」「お仕えする」という意味を持つ言葉です。
つまり、書き手が読者の上に立っているのではありません。
読者を自分よりも目上の人と考え、自分の言葉を相手に差し出し、相手の前に控えているのです。
自分が主人ではないのです。

この伝統は、そのまま武士の時代の「候文(そうろうぶん)」にも受け継がれています。
「候ふ」は「さぶらふ」であり、「侍る」と根は同じです。
相手に対して、自分を下に置く。
言葉そのものが、「相手に仕える」という姿勢を保っています。

このことは、とても重要です。

そもそも日本語では、
自分が主人でもないのに、結論を押しつけるのは生意気である。
相手には相手の受け取り方がある。
同じ出来事であっても、一人ひとり見え方が違う。
だから、すべてを一つの解釈に押し込めてはいけない。
こうした感覚が、日常の言葉の奥底に流れていることを示すからです。

もちろん、日本にも説得の言葉はあります。
命令の言葉もあります。
戦いの言葉もあります。
けれど、少なくとも日本の古典文学の深いところには、「言い切らない」「押しつけない」「余白を残す」という姿勢が保たれているのです。

それは、読者を軽んじているからではありません。
読者を信じているからです。
ここが大事です。

全部説明しないということは、無責任なのではありません。
結論を言わないということは、曖昧に逃げているのでもありません。
相手の内側に、何かが生まれる余地を残しているのです。

現代の言葉は、しばしば相手を「操作する対象」として見ます。
どう言えば買うか。
どう言えば投票するか。
どう言えば怒るか。
どう言えば拡散するか。
どう言えば従うか。
そこでは、相手の内側で何が育つかよりも、相手がどのような行動を取るかが重視されます。

しかし、日本の古い言葉のあり方は、そうではありません。
相手は、操作する対象ではない。
相手には、相手の判断があり、それは尊重されるべきである。
自分の言葉は、その相手の内側に何かが生まれるために、差し出すもの。
なぜなら、人にはそれぞれに立場もあれば、考え方もあるのだから、という考え方なのです。

この日本文化の持つ姿勢から見えてくることは、本当の意味での「伝える」ということです。
「伝える」とは、相手を動かすことではありません。
相手の中で、何かが生まれる場を整えることです。

これは、教育にも通じます。
講義にも通じます。
文章にも通じます。
人との日々の会話にも通じます。

こちらが正解を握りしめて、「こう考えなさい」と押しつけることは、一見すると親切に見えることがあります。
けれど、それは相手の中に生まれるはずのものを、奪ってしまうことにもなりかねません。
それは、相手の人格の素晴らしさを認めない、たいへんに失礼なことです。

もちろん、必要なことを伝えることは大切です。
事実を示すことも大切です。
危険を知らせることも大切です。
しかし、それでも最後の受け取り方は、相手に委ねなければならない。

なぜなら、人は一人ひとり違うからです。
置かれている状況も違います。
歩んできた道も違います。
いま抱えている悩みも違います。
同じ言葉を聞いても、響く場所が違うのです。
人はみな違うのです。

このことを前提としたうえで、皆の気持ちを少しずつ一致させていく。
だから日本では、相手を言葉で打ち負かす「議論(Discussion)」ではなく、「話し合い」の文化が重視されてきたのです。
実際、ほんとうに大切なことほど、押しつけてはいけないものだから。
納得し、腑に落として自らの意思にならなければならないものだから、です。

言葉は、種に似ています。
種を相手の手の中に無理やり押し込むことはできます。
けれど、それでは芽は出ません。
土を整え、水をやり、光が届くようにする。
そして、その人の中で芽が出るのを待つ。
それが、本来の「伝える」ということです。
日本の古文が結論を言い切らないのは、読者の中に芽が出ることを待っているからです。

和歌もそうです。
物語もそうです。
お能もそうです。

説明しすぎない。
余白を残す。
情況を置く。
そこに、読む人、観る人、聴く人の心が重なる。
そのとき、はじめて「伝わる」のです。

これは、「しらす国」のあり方にも通じています。
「しらす」とは、上から正解を与え、人々を一つの方向に動かすことではありません。
場を整え、一人ひとりが自ら気づき、自ら立ち上がり、自らの役割を果たしていくことです。

支配は、相手を動かそうとします。
しらすは、相手の中に生まれるものを信じるのです。

だから、日本の文学は、しらす国の文学です。
言葉によって人を支配するのではなく、言葉によって場を整え、結論を押しつけるのではなく、受け取りの余白を残します。
相手を動かすのではなく、相手の中で何かが生まれるのを待つのです。
これこそが、日本語の美しさであり、日本文化の深さなのです。

いま、私たちは情報に囲まれています。
広告、ニュース、SNS、動画、メール、通知。
朝から晩まで、何かが私たちに向かって語りかけてきます。
しかし、その多くは「こちらへ来なさい」「これを選びなさい」「こう考えなさい」という誘導の言葉です。
だからこそ、私たちはもう一度、言葉の姿勢を取り戻す必要があるのだと思うのです。

伝えるとは、相手を動かすことではない。
「相手の中で何かが生まれる場を整えることだ」ということを、あらためて確認したいのです。
文章を書くときも、話をするときも、教えるときも。
誰かに何かを伝えようとするとき、このことを忘れたくないと思うのです。

こちらが答えを押しつけるのではなく、相手の中に答えが生まれるように、情況を置く。
すべてを説明し尽くすのではなく、余白を残す。
相手の心に侍(はべ)る。
そういう言葉を、もう一度取り戻していきたいのです。

結論を押しつける言葉は、人を動かすかもしれません。
けれど、人を育てるのは、余白のある言葉です。
そして日本語は、もともとその力を持っていたのだと思います。

今日も、誰かを動かすためではなく、誰かの中に何かが生まれる場を整えるために、言葉を差し出したいと思います。

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