悪い行為は、悪いと言えばいい。けれど、その行為だけで、その人の人生すべてを「悪い人」という一語に閉じ込めてよいのでしょうか。私たちは誰かの物語の、ほんの数ページしか読んでいないのかもしれません。「誰が悪いか」で思考を止めず、その先にある未来まで考える。今日は「善悪」と「人を見ること」について考えてみたいと思います。

今日のひとこと・誰かを「悪い人」と呼んだ瞬間、その人のまだ知らない物語まで見えなくなっていないだろうか。

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誰かを「悪い人」と呼んだ瞬間、その人のまだ知らない物語まで見えなくなっていないだろうか。

先日、幼い子が「ちんちんいく」というから、おトイレに連れて行ったら、本人は「キッチンに行く」と言いたかったらしいという事件(笑)がありました。
幼児のこうした発音違いには、他にも『となりのトトロ』で一躍有名になった「おじゃまたくし」とか、テレビが「てべり」、スパゲティが「すかべてい」なんてのもあるようです。
可愛いものです。

そういえば、実弟がまだ幼い頃、悪い人のことを「やつら」と言っていました(笑)。
どうやらテレビ番組で、悪役の人のことを「やつら」と呼んでいたことからそうなったようでした。

その「やつら」。
考えてみると、大人になった私たちも、何かあるとすぐ「あいつらは悪い"やつら"だ」と、口にすることがあるものですな。

そんな”やつら”は、人を傷つけることもあるし、嘘をつくこともあります。
約束を破ったり、自分勝手なことを平気でします。
自分の利益のために、平気で人を貶めることもある。

そうした行為は、もちろん「いけないこと」です。

ただ、ここで少し考えてみたいことがあります。
「悪いことをした」ということと、
「悪い人である」こと。
この二つは、同じなのでしょうか。

「あいつは悪いやつだ」と決めた瞬間、私たちの目には、不思議なことが起こります。
その人が何を言っても、
「悪い人だから、そんなことを言うんだ」と思うし、
その人が何か失敗すれば、「ほら、やっぱり悪いやつだからだ」と思ってしまう。
反対に、誰かに親切にしていても、
「何か裏があるに違いない」と思ったりします。

こうなると、もうその人を見ているようでいて、実は見ていません。
見ているのは、目の前にいる人間ではなく、
「悪い人」という記号、です。

記号は便利です。
「良い人か悪い人か」、「敵か味方か」。
そのように分類すれば、世界はとてもわかりやすくなります。
けれど、人は、本当にそんなに簡単な存在なのでしょうか。

たとえば、いつも怒っている人がいたとします。
こちらから見れば、「感じの悪いやつ」です(笑)。

けれど、その人は家族の介護で、何日もまともに眠っていないのかもしれない。
仕事で大きな失敗をして、追い詰められているのかもしれない。
あるいは幼い頃から、怒ることでしか自分を守れない環境で育ってきたのかもしれない。

もちろん、事情があれば人を傷つけてよい、ということではありません。
ここは、とても大切なところです。
事情を知ることと、悪い行為を正当化することは違います。

人を傷つける行為なら、それは「いけない」と言えばいい。

けれど、その行為だけを見て、その人の人生全部を、「悪い人」という一語で塗りつぶしてしまってよいか、と問いを持ちたいのです。
私たちは、その人の物語の、ほんの数ページしか読んでいないのかもしれないからです。

同じ出来事でも、観測点が変われば見える景色は変わります。

自分の側から見れば、「ひどいことをされた」という出来事でも、
相手の側から見れば、「そうするしかないと思っていた」のかもしれません。
さらに第三者から見れば、「二人とも、違うものを見ている」ということもあります。

だからといって、「どちらも正しい」とする必要はありません。

大切なことは、
ひとつの観測点から見えた景色だけを、世界のすべてにしないことにあるのではないでしょうか。

「誰が悪いのか」という問いは、問題を整理するためには必要なことがあります。
けれど、そこで思考を止めてしまうと、
「悪い人を罰すれば終わり」になってしまいます。
警察に逮捕してもらって、裁判を受けさせて、刑務所に入れたら、それで終わりなのでしょうか。
悪事を働いた人を罰することは必要なことです。
けれど、本当に考えなければならないのは、その先にあるように思うのです。

なぜ、こんなことが起きたのだろう。
どうすれば、同じことが繰り返されないだろう。
傷ついた人を、どうすれば守れるだろう。
そして、これからどんなRelation(関係性)をつくれば、みんなが少しでも良い未来へ進めるだろう。
そこまで考えて、はじめて「出口」が見えてきます。

善悪を考えるということは、善悪をなくすことではありません。
悪い行為を悪いと言わなくなることでもありません。

そうではなく、
行為の善悪をきちんと考えながら、
それだけで人間そのものを決めつけない。

そのための知性なのではないでしょうか。

私たちは、誰かの人生のすべてを知ることはできません。

昨日会った人にも、
いつも顔を合わせている人にも、
長年一緒に暮らしている人にさえ、
まだ知らない物語があります。

そしてもちろん、自分自身にもあります。

だから、「あの人は悪い人だ」と言いたくなったときこそ、ほんの少しだけ、その言葉の先を考えてみたいのです。
自分は、この人の何を知っているのだろうか。
そして、何をまだ知らないのだろうか。

その問いが生まれた瞬間、「悪いやつ」という平面的な記号だった相手が、
もう一度、立体的なひとりの人間として見えはじめます。

誰かを「悪い人」と呼んだ瞬間、
その人のまだ知らない物語まで、見ようとしなくなってはいないだろうか。

善悪を考えるということは、誰かを簡単に裁くためではなく、
人を、人として見失わないためにある。

私は、そんなふうに思うのです。

——今日も良い一日を♪

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■ 出典:『善悪という怪物』東郷潤著
善悪という怪物: それは脳で繁殖し、人を支配し、世界を破壊する

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