子供が初めて自転車に乗るとき、大人は後ろからそっと支えます。けれど、いつまでも支え続けていたら、一人で走れるようにはなりません。安心できる支えと、自分で挑戦できる自由。その両方があって、子供は新しい世界へ踏み出します。古事記に登場する国之常立神と豊雲野神、そして「隠身」の記述から、未来を育てるための「土台と余白」について考えます。

_
見えなくなった支えが、本人の力となって生き続ける。
1 『古事記』に登場する二柱の神々
『古事記』の冒頭には、天地が初めて発したときに成られた五柱の神々が記されています。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)、宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)。
この五柱を『古事記』は、「上件五柱神者別天神」、つまり別天神(ことあまつかみ)と記しています。
前回は、この五柱の神々について、形のある世界が生まれる前に、中心、生成、成長、恒常性といった働きが描かれているのではないか、という観測点から考えてみました。
今回は、その続きです。
『古事記』は、別天神の五柱を記したあと、次のように続けています。
次成神名、國之常立神。次豐雲野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
(訓注・声注は省略)
読み下すと、おおむね次のようになります。
次に成られた神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)。
次に、豊雲野神(とよくもののかみ)。
この二柱の神もまた、独神(ひとりがみ)として成られ、身を隠された。
この二柱から、いわゆる「神世七代(かみよななよ)」が始まるのですが、
では、どうして別天神に続いて、この二柱の神々が登場するのでしょうか。
そこには、どのような意味があるのでしょうか。
実は、ここに、現代の私たちが子育てや教育、仕事や社会を考えるうえでも、大切なヒントが隠されているように思うのです。
2 天之常立神から国之常立神へ
まず注目したいのが、国之常立神です。
この神様のお名前は、前回登場した天之常立神と、よく似ています。
天之常立神。
国之常立神。
どちらも「常立(とこたち)」です。
違うのは、「天」と「国」という一文字だけです。
この違いは、何を意味するのでしょうか。
「常立」という神名の意味については、古くからさまざまな説があります。
「常」を恒久的なもの、「立」をとどまることと捉える説もあれば、
「常」を「床」と考え、何かが成立するための土台と捉える説もあります。
また、この段階ではまだ具体的な大地が形成されたわけではなく、国土や神々が生まれるための根源的な場が現れたと考える説もあります。
いずれも、興味深い解釈です。
ここで、少し観測点を動かしてみます。
前回の天之常立神が、天における恒常性、あるいは世界の根源的な基盤を思わせる神様であったとするなら、今回の国之常立神は、その働きが、より具体的な世界へと向かい始めることを表しているのではないでしょうか。
天から国へということは、もしかするとそれは、ただ場所が変わったということではなく、ここから何かが生まれ、育っていくための「場」が整い始めたことを示しているようにも思えるのです。
たとえば、家を建てるときのことを考えてみます。
立派な柱や屋根を用意しても、しっかりした土台がなければ、家は安定しません。
逆に、確かな土台があれば、その上にさまざまな形の家を建てることができます。
土台そのものは、完成した建物のように目立つものではありません。
けれど、土台があるからこそ、その上に多様なものが成立していきます。
そして、ここが大切なところです。
土台がしっかりしていることと、その上に建つものが、すべて同じ形になることは、まったく別の話だということです。
確かな土台は、同じ形を強制するためにあるのではありません。
さまざまな可能性を支えるためにあるのです。
3 豊雲野神が示す広がり
次に登場するのが、豊雲野神(とよくもののかみ)です。
このお名前も、たいへん興味深いものです。
「豊」は、豊かさを表す美称と考えられています。
「雲野」については、雲の広がる原野と解釈する説もあれば、まだ形の定まらない混沌とした状態を表しているとする説もあります。
また、「雲」と「野」のどちらに重点を置くかによっても、解釈が異なります。
つまり、神名の意味が一つに定まっているわけではありません。
けれど、ここで「雲」と「野」という文字から、ひとつの風景を思い浮かべてみましょう。
空には、雲が浮かんでいます。
雲は、一か所にとどまっていません。
風に乗って動き、形を変え、広がり、集まり、ときには雨を降らせます。
一方、野は、広がりのある場所です。
そこには、まだ何も生えていないところもあれば、草木が芽吹くところもあります。
大切なことは、そこには「まだ決まっていない可能性」があるということです。
国之常立神を、世界を支える根源的な土台として捉える。
そして豊雲野神を、そこから広がっていく、まだ形の定まらない可能性として捉える。
もちろん、これは神名の確定した意味ではなく、一つの思考実験です。
けれど、この二柱を続けて眺めてみると、おもしろいことが見えてきます。
何かが育つためには、支えとなる土台が必要です。
しかし、土台があるだけでは、新しいものは生まれない。
そこには、自由に変化し、広がっていくための余白が必要です。
土台と余白。
一見すると、正反対のもののようにも見えます。
土台は、安定を求めます。
余白は、変化を許します。
けれど、この二つは、決して対立するものではありません。
むしろ、この二つがあってこそ、新しいものが育っていきます。
4 子供が自転車に乗れるようになるとき
このことを、子供が初めて補助輪なしの自転車に乗るときの例で考えてみましょう。
最初は、なかなかうまく乗ることができません。
ふらふらして、転びそうになります。
そんなとき、親は子供の自転車を後ろから支えます。
子供は、親が支えてくれているからと、安心してペダルを踏むことができます。
ところが、ここで不思議なことが起こります。
親がいつまでも自転車を支え続けていたら、子供は一人で乗れるようにはなりません。
どこかで、手を離さなければならないのです。
けれど、いきなり手を離して、転んでも知らん顔というのでは、子供は不安になってしまいます。
大切なことは、安心して挑戦できる場所を用意し、必要なときには支えながら、少しずつ子供自身に任せていくことです。
最初は、親が支えています。
やがて、子供は自分の力でバランスを取るようになります。
そして、ある瞬間。
大人が手を離していることに気づかないまま、子供は一人で走り始めます。
「乗れた!」
そのときの子供の笑顔。
大人も、嬉しくてたまらなくなります。
てか、これって、こないだ孫娘に、じいちゃんが自転車を教えたときのことでした(笑)。
でも、ここで起きていることを考えてみると、それって単に、自転車に乗れるという技術を覚えた、というだけではないように思えるのです。
子供が、自分自身の力で、新しい世界に踏み出した。
そのために必要だったものは、二つあります。
ひとつは、安心できる支え。
もうひとつは、自分で挑戦できる自由です。
安心できる土台があったから、挑戦できた。
自由に挑戦できる余白があったから、
自分の力で乗れるようになった。
そして、そのどちらも、子が育つためには大切なものだったのです。
5 余白とは、何もしないことではない
ここで、もうひとつ考えてみたいことがあります。
それは、余白というものの意味です。
自由が大切だというと、何でも好き勝手にさせればよいと考える人がいるかもしれません。
けれど、自由と放任は、同じではありません。
たとえば、幼い子供に、交通量の多い道路で自転車の練習をさせる人はいないでしょう。
安全に練習できる場所を選び、危険なところには近づかないようにする。
そのうえで、子供自身に挑戦させる。
そこには、大人の責任があります。
つまり、自由に挑戦できる余白は、何も考えずに放っておくことで生まれるのではありません。
安心して挑戦できる環境を整えることで生まれるのです。
このことは、学校でも同じです。
先生が、すべての答えを最初から教えてしまえば、子供は間違えることがなくなるかもしれません。
けれど、そこには、自分で考える余白がなくなってしまいます。
反対に、何も教えず、何の手がかりも与えず、ただ自由に考えなさいと言われても、子供は困ってしまいます。
基礎となる知識を教える。
考えるための手がかりを与える。
そのうえで、「あなたはどう思う?」と問いかける。
すると、子供たちは、それぞれに違った答えを考え始めます。
そこから、思いがけない発想が生まれることがあります。
先生も予想しなかった意見が出てくることもあるでしょう。
それは、決して困ったことではありません。
むしろ、学びが育ち始めた証しです。
土台は、相手を縛りつけるものではない。
余白は、相手を放っておくことではない。
この二つの違いは、たいへん大切なことのように思います。
6 独神となり、身を隠されたということ
さて、ここで『古事記』の原文に戻ってみましょう。
国之常立神と豊雲野神の二柱について、『古事記』は、次のように記しています。
此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
この二柱もまた、独神(ひとりがみ)として成られ、隠身(かくりみ)されたというのです。
前回の別天神の五柱にも、同じような記述がありました。
ここでいう「独神」は、のちに登場する男女一対の神々に対して、単独で成られた神という意味に解するのが一般的です。
また、「隠身」についても、形のない神であったとする説や、姿を隠して別のかたちで関わるようになったとする説など、さまざまな解釈があります。
したがって、単純に「身を隠した=姿を消してしまった」とは限りません。
ここでもう一度、観測点を動かしてみます。
先ほどの自転車の話です。
大人が手を離したあとも、子供の中から、大人の支えが消えてしまったわけではありません。
それまで支えられながら練習してきた経験が、子供自身の力になっています。
大人は、もう自転車を支えてはいません。
けれど、それまでに与えた安心や、励ましや、一緒に練習した時間は、子供の中に残っているのです。
目に見える支えがなくなっても、支えられた経験は残ります。
そして、その経験が、次の挑戦を可能にしたのです。
もし「隠身」という言葉を、そうした観測点から考えるなら、神々が隠身されたという記述にも、また違った景色が見えてくるといえます。
もちろん、これが『古事記』の本来の意味だと断定するものではありません。
けれど、考えてみたいのです。
本当に大切な支えとは、いつまでも自分が前に出続けることなのだろうか。
むしろ、次に生まれてくるものが自分自身の力で育つことができるようにする。
そのための土台となり、余白を残す。
そこにも、ひとつの大切な働きがあるように思うのです。
7 未来は、土台と余白の「あいだ」に生まれる
人は、自分の思い通りに物事を進めたくなるものです。
親は、子供に幸せになってほしいと願います。
先生は、生徒に立派に育ってほしいと願います。
経営者は、会社をよりよくしたいと願います。
どれも、大切な思いです。
けれど、その思いが強くなりすぎると、いつのまにか、相手を自分の考えた形に当てはめようとしてしまうことがあります。
子供には、親が想像もしなかった未来があります。
生徒には、先生が予想できない可能性があります。
社員にも、経営者がまだ気づいていない才能があるかもしれません。
それらを、最初から決められた形に押し込めてしまったら、せっかくの可能性が育たなくなってしまいます。
では、どうすればよいのでしょうか。
ここに、出口設計(Exit Design)という観測点が生まれます。
大切なことは、いま相手を思い通りに動かすことではありません。
その人が、これからどのように育ち、どのような未来をつくっていけるのか。
そこまで考えることです。
そのためには、安心して立つことのできる土台がいる。
そして、自分で考え、自分で選び、自分で歩き始めることのできる余白がいる。
この二つが結ばれたとき、そこから新しい未来が生まれていきます。
『古事記』の国之常立神と豊雲野神という二柱の神を、世界が育っていくための土台と広がりという観測点から眺めてみると、そこには、いまを生きる私たちにとっても大切な問いが浮かび上がってきます。
何を支えればよいのか。
どこまで手を差し伸べればよいのか。
そして、どこから先を、相手自身に委ねればよいのか。
その答えは、相手によっても、状況によっても異なることでしょう。
だからこそ、決まった答えを押しつけることではなく、その「あいだ」で何が起きているのかを、よく見つめることなのだと思います。
土台だけでは、世界は広がりません。
余白だけでは、育つものを支えきれません。
けれど、土台と余白が、互いの働きを生かし合うとき、そこには新しい可能性が生まれます。
そして、その可能性が、やがて新しい形を得て、また次の未来の土台となっていく。
そう考えてみると、『古事記』に描かれた神々の生成は、単なる遠い昔の物語とばかりはいえません。
いまも私たちの暮らしの中で繰り返されている、成長の物語として読むこともできるのです。
育つためには、安心できる土台と、自由に広がれる余白が必要。
未来は、そのあいだに生まれる。
子供の成長も、人の学びも、社会の発展も、そこから始まるのかもしれません。
国之常立神から、安心できる土台を考える。
豊雲野神から、自由に広がる余白を考える。
隠身から、支えが見えなくなっても、その働きは残り続けることを考える。
育てるとは、いつまでも支え続けることではなく、
いつか目に見える支えがなくても、自分の力で歩いていけるようにすること。
今日も、誰かの可能性を支える土台となり、同時に、その人が自由に育つための余白を大切にできる一日でありたいものです。
——今日も良い一日を♪
_
📘倭塾LINE
倭塾LINEには、本編だけでなく、ちょっと笑える「番外編」もあります。

_
■新刊 大好評発売中
これが私の集大成本です。
『思想の時代は終わった』
https://amzn.to/3P5D0lS

_


